第19話 2019年12月24日ーモミの木が傾くとき

「あれ? ママ、ケーキ食べとらんたい。お腹空いとらんと?」

「うん……瑚子ちゃん、食べて良かよ」

 瑚子が一年で好きな日の一つ、クリスマス。ブッシュ・ド・ノエルを三つに分け、家族三人でテーブルを囲っていた。

 二分の一は瑚子、残りを三対二で友里子、正晃で分けた。甘いものが苦手な正晃は瑚子に合わせて一口入れるが、残りは毎年瑚子が平らげる。

「瑚子、腹が健康なのは良かことばって、運動ばしとらん体で食べ過ぎたら太るぞ」

「出た、お父さんの無神経」

 このときばかりは瑚子の声に棘が生えない。五年ぶりに、後のスケジュールを気にせず家族で過ごせる日だった。

 それに加えて、今年はブッシュ・ド・ノエルをほぼ一本食べられる。瑚子の全神経は胃に集中していた。

「ケーキはともかく、友里子、熱でもあるのか? おかずもほとんど箸ばつけとらんたい。片づけは私がやるから、休んどかんね」

「そうさせてもらいます。瑚子ちゃん、サラダもちゃんと食べんばよ」

 友里子はエプロンを着けたまま、スリッパを引きずってリビングから離れた。


「――ママ、最近なんか痩せたよね」

「瑚子、ケーキば平らげて言うコトじゃなかぞ」

 瑚子の前に、チョコレート・クリームが潰れた皿が三枚重なっていた。紫蘇ドレッシングをかけたレタスとミニ・トマトはボウル皿の半分残っている。

 ケンタッキーで予約購入したフライド・チキンは、紙箱に残骸が六本。瑚子と正晃で三本ずつ分け、別皿に取った残りの三本は友里子がまったく手を付けていない。

「瑚子、ママの分は冷蔵庫に入れとくけん、隠れて食べたらでけんぞ」

「うち、そがん食い意地の張っとらんし」

「信じて良かとか?」

 瑚子は二人分の空き皿をシンクの桶に入れた。洗剤を一周かけてから水を貼っているので、皿を離した指に泡がまとわりつく。

「てかお父さん、いつんなったらラップばかけるとの上手うもぅなると? 自分の指ば包んでも美味しかなんて、ママ言わんばい」

「どうも、化学製品は苦手かとさ。便利過ぎて戸惑うことの多かとって」

「過去から来た原始人みたいのごたる。今の時代、お金は石でできとらんとばい。キャッシュ・レスって言うと! うちは使つこうたことなかけど」

  瑚子は泡を流し、両手をタオルで拭いた。テーブルの上に疎らに置かれた皿を正晃の手の届く範囲にまとめ、湿ったクロスで使用前の状態にリセットした。

「瑚子、ちゃんとママがやっとるコトば見とるな。綺麗好きやけん、ママ後で大喜びするぞ」

「喜んでもらわんば困るばい。陸上とか奏真館への編入とかで今まで大変やったっちゃけん、今のうちに休んどかんば。来年は大学受験でまた忙しぅなるし? うちも片付けぐらいどがんかして覚える間だけでも、ママちょっとは休めたと思うばい」

「今日だけじゃなかとか。ママ、いつから元気の無くなったのうなったとか?」

「今週はずっとあがん調子じゃなかったかな? うち止めたとけど、ママ強がってケーキ作り始めたけん。教わるふりして手伝ったけど、お父さんが来るまでずーっとハラハラしとったとばい。案の定、ケーキ食べんかったし。ここ三日くらいは夜トイレに起きるたびに吐いとったよ。うちに気付くまでトイレのドアば開けとって、よっぽどきつかったとかなぁ」

 正晃が込めた力で、冷蔵庫の扉は閉まると同時にマグネットが二つ落ちた。

 瑚子が小学校一年生のころから、給食の献立表や授業参観のお知らせプリントなどを頻繁に張り替えていた。

 パフェとプリン・ア・ラ・モード型のマグネットは腐敗しない代わりに、磁力がお情け程度に低下していた。

「瑚子、皿ば洗う前に全部平らげときなさい」

「お父さん?」

 正晃はリビングから離れた。木造の階段が軋み、瑚子が濡れた手でマグネットを拾ってもその場で滑り落ちた。

 無機物の悲鳴を完全に無視した地鳴りは、これまで感じたことがなかった。

 正晃の性格を考慮すると、確認するまでもなく瑚子が無知を装うのが最善であった。それでも瑚子は冷蔵庫に背を向けた。

 トビヒ族の力が覚醒しかけて以来、これまで気付かなかったことが瞼の裏で模られるようになった。これから夫婦間で何が起こるのか、数学のテストよりも分かりやすい。

「お前がこの家に入るとき、約束しただろう。私たちの間で子どもは作らないと」


 瑚子が階段を駆け上がったころには、ことがすでに進んでいた。

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