第18話 緑の空
現在の日本ではデザイン重視の登山ウェアが客層を広げて販売されている。
一方で登山の知識がないまま赴き命を落とす人間は後を絶たない。
実際に自分の足で感じ、ニュースで耳にする程度の情報が正しいと思えなくなった。
「お父さん、こっそり運動ばしよったろ。
「そがん見えるだけまだ良かか。脚力に恵まれとっても、人間の生活ばしとったらさすがに年ば取るとの早かばって」
瑚子と正晃はベテランの登山家すら近づかないほど険しい山中へ進んでいた。歩道整備どころか途中で二、三回見かけた熊ですら奥から遠ざかる。
「ねぇ、熊って本当に人ば襲うと?
「人間やったら襲う。腹の飢えとってもトビヒ族のことは分かるとたい。特に瑚子、お前のことはな」
「は? なしてうち? 学校に通っとるってことは、人間に生まれたとやろ」
「人型だ。私たちがトビヒ族の次期族長候補として生まれるんは聞いたな?」
とりあえず、の返事を木の枝で消そうとしたが、重心で折れるどころか枝が瑚子の足を包むように受け入れた。
正晃の後に同じ枝を踏むと乾いた棒のままだが、行く先々で瑚子が踏む枝は潤い
「大事かこととに『とりあえず』は無かろうが。お前がいわゆる最終候補になりかけたと言うとに。そん足が証明しとる」
「は? こがん
「瑚子、そい他のトビヒ族に言うたらでけんぞ」
正晃は立ち止まり、瑚子が隣に並ぶまで待った。瑚子は視線に従い正晃の横まで前進したが、瑚子一人分の距離を縮めようとしなかった。
正晃は諦め、これまでの半分の幅で歩き始めた。
トビヒ族の次期族長候補から最終候補に残るのは、完全に覚醒した者のみ。
踏む先々で緑を生やし、足に宿る力を自己調整できた者。
本来の姿を得て、心身に負担をかけず人型との使い分けができる者。
二つの力を得たトビヒ族は地上の杜を守り、人型のトビヒ族をも慈悲で見守る。
「私は二つとも力を得んかった。族長になりたかった訳では無かけど、こいで本当にトビヒ族と呼べるのかと悩んだ時期もあった」
正晃は足元を指差した。瑚子が見ると、確かに正晃の体重に従い折れた古い枝が散るだけだった。
一方で瑚子の足元には木枯らしの時期とは思えない濃緑の発芽が足元に七本あった。
「そんならこん目は」
そうだ。力が覚醒し始めたけん、コンタクトが裸眼の熱に耐えられんごとなった」
「ってことは、こん眼鏡ば持っとったのは」
正晃は頷いた。
「お前のお祖母さんも、最終候補の一人やった。お前の本当のお母さん、
瑚子は正晃の声に集中していたので、自身と垂直の空すら見えない濃緑に気付かなかった。
「え、何? もう夜? お父さん、早よ帰らんば」
「瑚子、自分のガラケーば見てみんね。電波の届かんとは思うばってん、一応外の時間軸と同じやけん。今までで一番
「杜? こがん不気味かところが……?」
瑚子はガラケーの時刻を確認した。十四時五分、自宅では洗濯物が干物になっているはずだった。
長崎市はなぜか毎年おくんちが終わらないと寒風が来ない。
枝が見えないほどの木々は黒に緑のアクリル絵の具を一滴垂らした色で塗りつぶされていた。本来大気は無色だが、瑚子と正晃を囲む世界は通販の安物服の定番色、オリーブ・グリーンだった。
「ホラー映画のロケ地の間違いじゃなか? 漢字ば彫った長方形とか十字架の墓石とか見当たらんし、そもそも日本の雰囲気じゃなかたい。ほら、こがん霧のごたると、明らかにハリー・ポッターの世界たい」
瑚子が人差し指でなぞると、虫取り網のように粗い目の白い霧が体温で溶けた。
腰に冷えを感じ、瑚子は内またで尿意を消そうとした。
「瑚子、日本はあくまで人間が治める国名だ。杜は私たちトビヒ族本来の住処であり、人間が介入できる域ではなかと。人間の世界に慣れ過ぎたお前には気味悪かやろうけど、覚醒したトビヒ族はいずれ
正晃は肩甲骨に右手を軽く当て、瑚子を進ませた。瑚子は土で躓かないよう、踵のみ滑らせる。
「お父さんさぁ、前から思っとったけど、長崎の生活楽しぅなかと? 人間とかトビヒ族とか、そがん気にすっとやったらなしてママと再婚したと?」
正晃はビーズ・クッション大の毬藻もどきが見えるまで、無言を通した。毛深い腕で霧を払うと、瑚子の足元に佇む毬藻の正体が判明した。苔に覆われた岩だった。
「うそ、普通岩とか石ころって植物の成長ば妨げるとやろ。長崎に住んどってもそいくらい分かるばい」
「ここには幹子と一緒にお義母さん、
テレビで見るお洒落な芸能人の花壇が苔岩を囲み再現してあった。当時覚えられなかった名前のハーブ、日の当たる所でしか咲かないイメージの花が領域を混同していた。
「幹子が亡くなって以来私の実家に行っとらんけんお前は覚えとらんやろうが、私は高校ば卒業するまで佐世保に住んどった」
「え、ママも佐世保よね?」
「ママは覚醒せんかったトビヒ族の遠戚の友人の娘やけん、紹介された。私は最初、縁談ば断わった。お前ば育て上げるために仕事もせんばし、私一人では十分に家庭に目ば向けるとの難しかことは分かっとったが。そいけんって人間の、十以上も年下の娘ばわざわざ苦労かける不甲斐ない男になりとうなかった。最終的にはお前をトビヒ族の親戚に預けることも考えた」
「でもママは……」
「最後の最後まで、私はママに縁談を断った。でもお前を一目見たママは自ら私との入籍を望んだ。まだ裸眼で生活ばしとったお前のこと、何も気にせんで。私の世界はそこから真逆に変わった。私たちの裸眼を口外しないことを条件に、再婚を受け入れた」
「世界って、そがん大げさでもなかろうもん」
「瑚子、今の時代留学生がおるぐらいやけん、どの学校にハーフの子どもがおっても大して珍しぅなかろう? やけど私が子供のころはそがんことなかった。戦後、日本は世界の水準に追いつこうと経済を急成長させたが、その反面でやはり外国人への敵視や排他思想が
なして、とは言えなかった。正しい理由が広まっていないだけで、瑚子の生活圏でも酷似したことが定着している。
「唯一、私という思考個体を受け入れてくれたが……あのころの私は彼を完全に受け入れていなかったかもしれん。トビヒ族と人型、日本人と外国人。曖昧な位置づけで悩んどったけん、どちらにしても人間に変わりのなか彼を無自覚に傷つけとったやろうな。友里子のおかげで少し変われた自分を見せたかけど。今生きとるやろうか?」
「お父さん……」
瑚子から離れた友人の代わりに呼んでみる。ハナサキ族のついでにトビヒ族を憎むチョウは、今何をして過ごしているだろうか。
亡き叔父の実家に居候している身として、恨み言を共有して陰気な休日を過ごしているのだろうか。
瑚子が自ら連絡を絶った真奈美は、陸上を続けているだろうか。
中等部からの進級が多い聖マリアンヌでは瑚子にべったりだったので、外部入学の真奈美が今さら友人を作るのは難しいはずだ。
瑚子は気付かないふりをしていたが、真奈美は陸上部員以外の生徒とは関わろうとしなかった。
「お父さん、さ」
「お前まで暗い顔するな。あいつが父親の母国に移った後、連絡ば取っとらんだけやけん」
正晃は袖で絞り出た涙を拭った。
「お父さん、友達
「……瑚子、今の話ちゃんと聞いとったとか?」
木々で風が遮断された杜の中で、墓石を覆う花の茎が揺れた。
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