第9話 2019年10月15日ー運命の秒針

 二日前のチャリティー・コンサートでは、後半の頭に起きた拍手喝さいの余韻が終盤まで続いた。瑚子の記憶でも利矢単独の演奏がぬるま風に揺れる風鈴の音色として今でも残っている。

「そいとに、人ん事ばブス、ブスって……自分の方がよっぽど性格ブスたい」

 午前五時三十分、瑚子は洗面台の受け皿に下腹部を当て、鼻と鏡面との距離を人差し指の爪一つ分まで詰めていた。

 火の通った香りがデコルテに触れる髪の延長戦となり、友里子がキッチンに立っていることが視界に入っていなくても瑚子に伝わった。

「今日は鮭かぁー。って、もう! またずれた。そいけんコンタクトなんか好かんとって」

 瑚子が使用するのは、瞳孔を囲む白目の部分が半濁になっている。コンタクトの中心が瞳孔と隙間なく重ならなければ、視界全体が濃霧の中になってしまう。

 瑚子にとってこの手間は、期末テストの全教科試験を受ける約十時間と同じリズムの秒針とほとんど変わらない。眼球に異物をあてがう行為そのものは、十二年間繰り返しても生姜の葛湯のように体が受け付けない。

 小学生までは洗面台の前で正晃と並んで立っていたが、瑚子が横目で見る限り正晃の指には罪悪感が涙一滴ほども感じられなかった。むしろコンタクトを装着するまで、洗面台の前でイースター島のモアイ像となり一ミリも動かなかった。

『ねぇーお父さん、ミカちゃんもホナミちゃんも男子も、クラスの皆は目が黒かよ。隣のクラスに一人か二人茶色か目の子もおるけど、ばしとるとは私だけばい。なして?』

 瑚子の裸眼を知る保育園から同じ小学校に上がった生徒はいなかったので、外観でからかれることはなかった。それでも集団行動と意思同調の傾向が強い公立学校に通っていたので、自分自身に違和感を抱くのは自然な流れであった。

『瑚子、お前のクラスに青とか緑の目の子がいたらどう思う? お父さんかお母さんのどちらか、それか両親とも外国の人だと知っていたら、それで納得するやろ。そいけど私たちのは、外国とか日本とかって問題ではなかと……そうさな、瑚子が高校ば卒業するん頃にはもう少し事情の分かるやろ。そいくらい難しかとさ』

『ふーん? でもママはなんも言わんよ。コンタクトば取ってお風呂に入った後も、ほんとに何も。目ばちゃーんと見て、私の髪にドライヤーばかけてくれるよ』

 反論したが、正晃は幼く柔らかい髪をひと撫でして洗面台から離れた。

『お、今日はさばか。今日の卵焼きにはひじきの入っとるやろか。瑚子、今週の日曜日はママにやるカーネーションば買いに行かんばな。ちゃんと『ありがとう』ば言えるか?』


 正晃のコンタクト・レンズ・ケースが裸眼の視界に入り、中学生になってから一度も父と花屋に行っていないことを思い出した。

 母の日の前日は家族三人でケーキを食べていたが、日曜日は瑚子の遠征や試合で終わっていた。ケーキの用意も陸上のサポートも、すべて友里子一人の負担であった。

 友里子は日頃より夫である正晃より瑚子を優先していた。顔には不満が書かれていなかったが、同部の保護者の誰とも関わりも見られなかった。正晃とは一回りほど年が離れていたことが理由であることを、瑚子は生徒の声掛けで予測できた。

『瑚子のお母さんって、ウチのお母さんよりっかね。肌も綺麗きれか』

『うん?』

 聖マリアンヌ女学園高等部にて真奈美と出会うまで、同部やクラス・メイトとは互いの領域に入らない程度に、支障なく接していた。

 校外で時間を共有する機会は合宿や遠征に留め、真奈美と肩を並べて羽を伸ばすときでさえ互いの自宅を行き来することは一度もなかった。

 村雨家も例外なく、友人を招く側として接する保護者が母親である。真奈美と親しい関係を続けたいがため、一ミリ大ビーズ一粒分であっても関心の芽生えを避けた。


 友里子と瑚子は血が繋がっていない。


 認印に等しい迷いも濁りもない正晃の声を聞いて十年経つが、幼い瑚子は言葉を知るより先に感付いていた。

 友里子と瑚子の違いはあぐら鼻と鷲鼻だけではない。

 正晃の証言によると、出産直後に息絶えた女性は瑚子と同じ目をしていた。


 ――瑚子の両裸眼には、左右一本ずつもえぎ色の線が染み込んでいる。

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