第10話 2019年10月16日ー黄昏の行方

「いやぁ~、美少年の影響力ラブ・エネルギーは凄かねぇ」

「チョウさん、違うとって! あがん男に好かれたって嬉しくもなんも無かけん」

 校内組織に縛られず帰りの電車を待つ日常が戻った。瑚子は同じく手の空いたチョウを連れ、通学路と反対方向のドラッグ・ストアの商品棚に沿って周遊していた。

「良かたい、照れんちゃ。そいにしても光栄なこったい、他でもない村雨のお姫様にお願いされたとけん」

「そがん言うチョウさんの方がずっと美人やしセンス良かたい。その長か髪も似合におうとるし、うちと同じ制服ば着とるとは思えんくらい一般人とは違うもん」

「違いとは、このことやろか?」

 チョウは瑚子の目下に両手を伸ばした。聖マリアンヌ女学園在学時、真奈美にさえなかった行動に悲鳴が吸収された。

「いやぁ、だけの私のむねよりこっちの方が可愛かね。いかにも、今後の育ち方は私の腕次第って感じで」

「チョ、チョ、ウさ、ん」

 チョウとは諫早市外で行動をともにしたことがなければ、奏真館でも瑚子の領域を守っていた。それに加えこの日の目的はランジェリーではなく、薄く色づくリップ・クリームであった。

 女子校の校則は男女交際に関して特に厳しく、共学の教員は生徒の身なりに目を光らせている。保護者である友里子と違い、チョウは女子校特有の美的感覚を持ち合わせていない。

 制服がコスプレ化することで教員の鷹の目に留まらないこと。中途半端な効果の日焼け止めクリームの影響を直に受けた肌が改善して見えること。

 唯一親しいチョウであれば二つの条件を満たすと踏み、登校時上履きをすのこに落とすより先に瑚子は呼び止めた。

『良かよ。バスに乗り遅れん程度なら』

 チョウのホーム・ステイ先は母親の実家であり、祖母と伯母夫婦、従弟の五人で暮らしている。通学時間は往復で三十分程度ではあるものの、大人三人が心配性であるため放課後外出は事前の連絡が欠かせない。

『女性軍は別に気にせんで良かけど、伯父さんがね。日本だと婿養子って立場も考えモンよね』

 祖母との通話を終えスマホを耳から離すと同時に、ホーム・ルームを控えた担任が教室に入った。教卓に出席簿を置き、生徒は順に着席した。奏真館では授業中と犯罪関与に繋がる使用以外で、スマホを禁じられていない。家族への連絡であればなおのこと、自分の都合で慌てて通話を絶つ必要もない。

 公然で瑚子のバストを掴み引く両手は、スマホをカバンにしまうのと同じくらい自然な動きだった。

「そがん驚かんでも……て、ちょ、危なかっ!」

「ひゃ!」

 引き締めたい気持ちに反して、腰に力が入らず膝に余分な力が入る。タイル床にキスをしようとする後頭部を制御できず、ぬるま湯程度の温もりに沈んだ。

「す、すんませ……ひっ」

つらどころか、モラルまでなっとらんとか。ブス」

 瑚子の頭部を受け止めたのは、利矢の胸板だった。焦点が合うだけで上半身が無色の鎖で骨が搾り取られてしまう。二度目の面識であっても、別人との初対面が繰り返されているとしか思えなかった。

「あ……あ、ぁ」

 瑚子が第三者に会話を持ちかけたのは、十七年生きて両手の指が余るほど。

 包容の遺志がない相手であれば、片手の指でさえ天を仰ぐ。

「――自分で謝ることもできんとか。頭まで残念とか、マジでブス過ぎやろ」

 利矢は、瑚子が抱く自分への印象を掠れ声で聞き取った。視界に瑚子はすでに無かった。

「や、村雨さんはわるうなかとです。今回は私が。本当ほんとすんま」

「来い」

 利矢は瑚子の左腕を掴んだ。左肩に触れていたチョウの顔と瑚子の左半身は、空気の含まれた畑土と収穫を迎えたゴボウのようにあっけなく離れた。

 瑚子の左腕に右手の爪が当たるが、利矢は無言でチョウを拒んだ。

「え、ゃ、ちょっと」

 生ぬるい鉄筋がシャツの袖に食い込み、瑚子を逃さない。正晃以外の男性が優しくないことを初めて知った。

 ハンド・ベルのソロ演奏でさえ息が聞こえなかった。利矢が瑚子をドラッグ・ストアから連れ出したが、ウォーミング・アップにしては物足りなかった。


「や、か、帰らん」

「言っとくが、お前をどがんかしようなんて悪趣味ば持っとらんからな、俺は。村雨瑚子」

「なして名前ば……?」

 腕を掴まれてから両踵が地に着くことを許されなかった。告知なく立ち止まれば、傾度に満たないコンクリートの凹凸であってもバランスが保てない。

 利矢の肩甲骨に瑚子の額が埋まった。

「知らんとでも思ったとか、ブス。陸上部のある学校におったら、部外者でも名前くらい知っとるぞ。お前が放課後、未練たらしく校庭ば見とったことも」

なんそぃ――」

 両手で背中を押し直立を図るも、利矢が右肩を回したので瑚子の両足に力が入った。

「その様子だと、引退したとは家族の意思やろ。ま、妥当な判断ではあるな。短距離選手だったら、転校したくらいで雲隠れなんか出来んやったけん、幸運と思えば?」

 瑚子は直立の軌道に沿ってシャツの襟を両手で引き寄せた。利矢の眉間には皺が一本もなく、上前歯の先端一ミリも残さず唇に隠れている。

「撤回して。うちはなんも悪かことしとらん! 両親だって、ニュースに出るようなことなんて一つもしとらんけん、よ謝罪ばしてよ! 早よ、早よぉ!」

「やめろ、誰かに聞かれでもしたらどがんすっとか」

 瑚子の鼻頭が赤化する。家族に対して第三者の定めた枠に収まらないと判断されたのは初めてではないが、言葉として明確に非難されれば本来の性格に反してでも拳に力が入る。

「お前、まさかなんも知らんとか? 信じられん、まさか家族にが混じっとるとか」

「人間? あんたこそ脳みその残念かたい。髪の毛から足のつま先まで、どがん見たってうちは人間やろ」

 瑚子は実をつけ始めたブロッコリー型の髪を左手で丸めた。

「お前――いや、村雨、こっちだ」

「人ン話ば聞いて」

 利矢は瑚子の手首を掴み、密度の低い髪の塊を崩した。そのまま自分の左胸に引き寄せ、瑚子のバランスを前進に矯正した。

「俺ん家に連れてってやる。ありがたく思え」


どうしてなしてそうなるのそがんなると!」

 瑚子の両踵が再度浮いて四歩進んだところで、利矢の意図を察知した。

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