第8話 2019年10月13日午後ー鐘の翼

 諫早市立ホールにて、奏真館高等学校チャリティー・コンサートが開幕した。

 コーラス部合唱が午後一時を知らせ、ソプラノとテノールそれぞれのソロ・ステージ、吹奏楽部ソロと全体演奏の順で前半が進んだ。

 午後二時、観客の休憩時間として閉幕し、瑚子はローファーがワックスがけの木版を絞らないよう両足の力を抜いた。

 二十八人の女子生徒は二人一組で、椅子と譜面台をバック・ヤードに運んだ。チョウに並ぶ瑚子の背後には四ペアの男子生徒がカウンター・テーブルとクロスを脇に抱えていた。

「あの作業があるけん、休憩時間ば入れとるとさ」

 滴る声が誰にも消されないよう、チョウは瑚子の耳孔に触れる距離で唇を弾いた。

「次って、ハンド・ベル? やったよね。なんか、男子だけピリピリしとらん?」

「あー、うん。こういうときだけは男子、ご愁傷様よね」

 見慣れた生きる能面がなければ、ベストを着用した制服が中世フランス貴族のジャケットに見える。瑚子は原作漫画を読んだことがないが、ドラッグ・ストアの化粧品コーナーでフェイス・パックのパッケージを二、三回見て覚えている。

 カウンター・テーブルを覆うクロスは皺がなく、気休めのフェイス・パックより金銭的なハードルが高い。瑚子は交互に左右の頬で力み、肌の乾燥を確かめた。

 聖マリアンヌ女学園の陸上部時代、日焼け止めクリームの化学成分と汗が混ざり、完全に紫外線を防げなかった。友里子の勧めで洗顔後の化粧水と乳液は五百円玉大を超える量を使用していたが、陸上を辞めた今でさえ殻をむいたゆで卵には到達したことがない。

「誰か、あがんクロスのごと、うちの肌ば治してほしかぁ」

「ちょっと、村雨さん」

 チョウに左ひじを引かれ、瑚子は初めてよそ見で歩いていたことに気付く。譜面台の脚が何かにぶつかり、瑚子が掴んでいた軸が回転した。四本の脚が風車となり、瑚子の右足にも当たる。

「あ、すんませ……」

 振動先に振り返り、吐き出すべき息が瑚子の喉を貫く。


 この人、


 瑚子の垂直な目線に触れる肩、ワン・サイズ大きいシャツが隠せていないコンクリート鉄筋が束になった両腕、女性用スキニー・ジーンズのモデルを務められる両足。

 下瞼が痙攣するまで視界のみ地震を起こし、最後に指で押さえず見上げる。

 瑚子にはない喉仏を通過しても、直感を疑わなかった。

「――おい」

 こげ茶色の前髪が揺れ、横転したエッフェル塔型の目は頭部が持ち上げられていた。

 頬は冷暖房を点けられない不安定な気候と真下に浴びた照明でさえ薄く染まらない。瑚子と並んで肌を比べると、バニラとチョコの二色ソフト・クリームに見える。

「聞こえているのか、おい」

 濁りのない寺の鐘で呼ばれ、瑚子は譜面台の軸を自分の胸元に引き寄せる。

「怪我は」

「がさつに扱うのは自分のつらだけにしろ、ブス」

「な! なん――」

 唇の両端に圧がかかり、頬の内壁が瑚子の舌を揉む。

「ちょっと村雨さん、まだお客さんのるけん! 騒いだらでけんって」

 傾いた背中を柔らかい山が受け止め、チョウが激昂の声を制したことを悟る。

「すんません、気を付けますんで」

 チョウは肘の内側で瑚子の右肩を囲い、舞台裏まで引きずった。

 当人は譜面台の脚が触れたズボンを正さず、ステージの中央に進んだ。


「っは!」

 粉雪より細かい埃が宙を舞うが、瑚子は構わず舌の付け根を露わにする。

「はい、ぅ堪えました。譜面台は私が片付けとくけん、今のうちにお茶でも飲んどかんね」

 握力が緩んだのを見計らい、チョウは脚が床に触れないよう譜面台を手元に引き寄せた。

 瑚子はカバンから水筒を取り出し、半分入っていた麦茶を飲み干した。唇にまとう水滴をシャツの袖で拭い、チョウの背中を睨んだ。

「ちょっと、なしてうちが引かんばやったと! チョウさんだって女の子やけん、あがん最低なコトば言われたら嫌やろうもん」

 チョウは瑚子の前に立ったまま、椅子と譜面台を女子生徒から受け取り、単独で整頓する。手ぶらになった生徒のうち一握りは瑚子を視界に入れないよう小股で離れる。使い始めて一か月目の教科書をめくる音の足さばきは、ことの一部を見聞きしていたことを証明している。

なん黙っとると。確かにうちのよそ見が悪かけど、ちゃんと謝ろうとしたたい」

 トイレ、と呟いたところで、軽い打撃音が瑚子の耳孔で溶ける。かき氷で冷えたガラス容器をステンレスのスプーンで触れるときに似ている。

なん?」

「――どぉ、ちっとは落ち着いた? イライラが世界一似合わん村雨さん」

 泡のないボディ・タオルで肌を擦る麻痺に似た痛みは、チョウの声で緩和した。雨の降り始めを知らせる細かい冷感は炭酸が抜けた水に近い。

「こいがハンド・ベル? もっと重か音のイメージやけど」

「本来はね。でもの演奏ば聞くと、雑念なんかどうでも良ぅなるやろ」

 瑚子は隙間が黒ずんだ木板がきしまないよう、足の力を抜いて舞台裏の幕をめくった。〇.五ミリ芯のシャープ・ペン本体よりも細い光の中で、白い手袋をはめた男子生徒が両手で揺らすハンド・ベルを変え続けていた。

「うっそ、一人で……腕が保つと? ってか何者なにもんなん、あいつ」

 推定百七十五センチの細身は括弧の右側に見えるよう、全身の筋肉が無理なく伸びている。胸板の伸縮もなく鼻腔の呼吸はハンド・ベルの音色がなくとも無音だと見て分かる。

「気になる? 奏真館の芋畑唯一の美少年やけんね。女子校出身の乙女には刺激が強すぎたやろか」

「茶化さんで、チョウさん」

「見惚れとったくせに」

 瑚子は反論できず両手で幕を握り、皺に顔を埋める。チョウは瑚子の左肩を抱き、右耳の軟骨に空気の鉛を落とす。

「彼は雪平利矢ゆきひらとしや。二年音楽科で、去年実力だけで部長に抜擢されたクール・ビューティ―。私ら普通科の生徒にとっては、声をかけられることすら恐れ多か存在」

「だけんって『ブス』とか言うて良かわけなかやろ」

 瑚子の顔面が沸騰したのは、これまで他者に容姿に関して貶され慣れていなかったためだけではない。

 瑚子に見えたように、利矢もまた見抜いていたと信じていたからだ。


 純日本人にはあり得ない、を。

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