第12話 明けぬ夜の始まり

「母さん、ただいま」

 ガラス張りの引き戸を開け、利矢は敷居に腰を掛けた。瑚子の目前で、友里子が気に入って録画する朝ドラが再現されている。二段式の敷居は二十センチずつ、踵を上げたその場で五、六人目のお産が完了するには十分な高さだ。

 中央から双方に開くげた箱は、こげ茶色の木目調に合わせたちりめんの梅花が置かれている。朝ドラではげた箱が飾り棚として家に溶け込んでいるが、雪平家ではオルゴール付きの置時計がない。入学式の文字と並んで映る少年の姿も、額縁の類も一つもない。

「え、と。お邪……魔、しま、す?」

 瑚子は両親の親族と関わった記憶も、同級生の家に上がった経験もない。利矢とは親しみがない上に、異性の家に入る際の作法も心得ていない。自分のカバンを両手で握り、硬直した両ふくらはぎでローファーを引きずる。

「おい、よ扉ば閉めろ」

「ふぇ! えっ!」

 サンダルに履き替えた利矢は、瑚子の背後に左手を差し込んだ。鍵が落ちる音臀部が中央に力を寄せ合い、太ももは隙間を埋めようと膝が力比べを始めた。

「ったくブス・ノロ……あ、母さんただいま」

 利矢の低い声は小学一年生から十一年間の平和学習で擦りこまれた原爆の爆音に等しかった。瑚子以外の者に聞こえないようにするためだと、スリッパの音で察した。

「おかえり、利矢。そこの方はそこんがたは?」

 瑚子の顎が首に吸収された。女性は女子制服ではなく、コンタクトの奥から視線を一ミリもずらさない。利矢の家までもが瑚子の存在を良しとしないと分かる以上、声を詰まらせてまで名乗る必要はない。

「母さん、事情の変わった。村雨――こん女は家族から何一つ知らされていない。自分のコトば本気で人間だと思い込んどる」

なんやて? あんた、詳しいコトば訊こうか。よ上がりんさい。利矢、鍵ば閉めたね?」

「うん、ちゃんと人間どもが盗み聞きできんようにしとる」

それでいいそいでよか

 女性は腰に当たるエプロンの結び目を玄関に向けた。分別があれば使用する度に洗濯しているはずだ。全面が白いエプロンのリボン部分のみ裁断したような皺が合わせて六本を超えている。両手の引力が水圧に勝っているのだと思った。

 友里子は頻繁にエプロンのアイロンがけを省略するが、正晃の白髪一本分より深い皺を作ったことは一度もない。

「靴も脱がんで何しているのなにしとん? まさか私まで人間だと思われとっと?」

「……違うとですか」

ば前にして、ようそがんこと言えるね! コンタクトばしとる以上、家族ん中でも一人は必ず知っとるはずとに。あんたがってコトば」

「母さん、まだ玄関から離れとらんけん。村雨、いい加減動け。俊足のトビヒ族らしくなかぞ」

 利矢は瑚子の鳩尾に左肩を食い込ませた。瑚子は土足のまま持ち上げられ、施錠された引き戸が視界に入った。


 日の入りと揺れる影が、守られた世界を施錠した。

 鍵は砂となり、二度と雨水で固まらなかった。

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