第34話―黒い渦、白い気流

 すべての雨が空から降るとは限らない。

 ときには地から、温かく、酷な色の雨が噴き出すこともある。


「お前、何やってんだよ?」

 田中大輔の握る木枝は確かに息のあるものを貫き、瑚子の世界ヴィジョンは赤く、秒を追うごとに酸を含んだ。

「ママ、なして……」

 友里子が左腕で瑚子の右目を多い、額を左寄りの鈍色額に重ねていた。右腕を四本足で立つ背中に回し、鈍色の体毛に五本指を掻いていた。

「おい友里子、こんなバケモン庇ったところで俺には一円も入らないんだぞ。お前はガキの世話があるから、今後は仕事できる時間にも限られてくる。お前がくたばったら誰がこの家の面倒ごとをやるんだよ?」

 友里子は両腕へ力を振り絞り、瑚子の左耳へ額を寄せた。出血が酷く、唇の振動が不安定だった。

「逃げ……て。光樹もいっ……ただ、し。て、生き……て」

 鈍色にかかる吐血が広がった。友里子は二度と瑚子を見てくれなくなった。

「ちっ、つまんねー女を嫁にしてやったのに、恩を仇で返しやがって。これだから田舎モ」

 大輔の背を受け止めていた大木に円弧を描きながら枝が増えた。ミニ・トマトの茎に生える棘もどきの根が産毛に見えるほど気味が悪い生え方だった。

 百本の細い枝は一定の高さで生え揃い、すべての枝先が大輔の首を貫いた。瑚子の体毛が脈打ち硬直して一秒後の出来事だった。

 大木そのものが瑚子グリーン・ムーンストーン感情やみを代わって具現し、を離さない。

 棘のある酒焼け声も四肢の意思を失った物体と向き合うと、瑚子の中で破裂した憤怒は老廃物として気化した。

 瑚子は十八年生きて初めて人間を殺めた上に、第三者の生を奪った手応えなど何も感じてない。

 友里子の血を吸ったために、蚊は瑚子の平手で潰された。暗愚な蚊は偶然にも成人男性大の体躯だった。視界の情報はその一つだった。

 頭皮がつるまで瞼で力んでも、これまで瑚子と深く関わり、不気味に腐敗した心身の手により理不尽な最期を遂げた人間とは同じ種族とは思えない。

 瑚子はこのとき初めて、トビヒ族に害をなす人間を処分するのが当然という同胞の主張に納得した。

 決して過剰な自尊心が芽生えたわけではなく、事実容認という冷静な情報処理だった。

 瑚子は血が付着した鈍色の体毛を人型に変えた。

 視線が高くなると友里子の左肩が床に着き、ハナサキ族の陽子から借りた洋服が書の作品に変わった。

 ただし赤ワインに墨汁を五滴ほど垂らした色の筆跡は審査員に見せられない。

 無我で動く四肢までも声高に否定されれば、瑚子までも芯から染まった殺人鬼になってしまう。

 部屋の奥に進む瑚子は、人間として培った良識が内部の深部に引き込まれようとしていた。


『愛の殉者と暗愚の極みの血を受け継ぐ命は、いずれトビヒ族わたしに罰せられる』


『我々の世界を汚すちりは早めに掃いておくと、今後同胞を統括する手間を最小限に抑えられるというもの』


 自我から慣れ親しんだ方言が抜けている。


『さあ、早く』


『ぐずぐずするな、グリーン・ムーンストーンわたしのためだぞ』


瑚子わたしとは血の繋がりもなく、所詮は下種の人間だぞ』


『人間には慈悲など不要、早くしろ』


 顔面を歪めて大きく開口しかけた光樹の前に立ち、部屋の壁に這う蔦状の枝が先端こうべを垂らす瞬間だった。


 八月の長崎市でも体験したことのない乾いた熱風が窓ガラスを溶かし、天井と壁を塗り替えた。

 十七度に設定していたエアコンは電力を制御できず、送風扇が硬直してしまった。

 熱風の侵入は光樹が横たわっていた和室に留まり、二つの遺体は最小限の損傷で済んだ。

 一方で瑚子の四肢は小刻みに震え関節さえ動かせなくなっていた。

 熱風の侵入から三秒も経たず瑚子の良識は内部との境界を出入りし始め、光樹を捕らえる視界が分裂しつつあった。


 瑚子がこれまで経験した日常生活では起こり得ない寒暖差で、一時的にとろ火が爆発した。

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