第33話―無数の秒針
「友里子、そいつ誰?」
生活による腐敗臭こそ塵一つ鼻腔に入らなかったが、玄関から奥行きに至るまで氷の雨が二度と止まないかもしれない。
友里子の現夫・田中
「村雨瑚子ちゃんよ。ほんのちょっとの間やけど、迷惑
「村雨って、お前が出て行った所の娘かよ? 何、今でも縁があるとか絶対正気じゃねぇだろ。しかも
眼鏡を紛失し裸眼を晒せない以上、初対面の瑚子が快く受け入れられないことは想定内であった。
瑚子が舌根と体内から喉を抑えたのは、実際に目の当たりにしたワン・シーンを現実として受け入れたくないからではない。
友里子と光樹を守るために瑚子自身も雨の一滴になるべき理不尽を体内に入れる痛みを耐えるためだ。
「はじめまして、村雨瑚子です。ママ……いや友里子さんの旦那さんはきっと素敵な方なんやろうなって思ぅとったら、いつン間にか我が儘ば
「ああ、それね。へぇ、なかなかセンス良いじゃん? お前にしては」
友里子のためを思い大輔の機嫌取りをしてみるが、慣れないことも相まって逆に友里子が気落ちし口を噤んだ。
瑚子にとって、二人の
それでも正当な手段が取れない十八歳の瑚子がこの瞬間だけでなく、
唯一の救いは夢の国に遠出している光樹の寝息だった。
「ナントカちゃんだっけ、標準語を聞くのは初めて? 俺さ高校卒業してからずっと東京生活だったから。そりゃ向こうに慣れるまでは大変だったけど、今じゃ長崎弁話す方が恥ずかしいっつーか、わざわざ自分から馬鹿な田舎者と言いふらすようなモンじゃん?」
「そういうモンなんですね、知らんかったです。今まで普通に方言ば
「一度九州から出ないと、方言の羞恥なんて一生痛感できないモンだからね。そういう俺も実家の両親が心配で最近戻ってきて、まぁ……贅沢な文句は言えないけど、こうして家庭持てて落ち着いたし? 色んな意味で幸せかもね」
瑚子には生まれ育った県に対して良し悪しの基準を持ち合わせていないが、大輔が友里子を貶す材料の一つに挙げていることは理解できた。
「瑚子ちゃん、光樹のベッド出したらタクシーば呼ぶけん」
友里子は大輔の背後の氷雨に打たれていた。光樹を起こさないためだとしても、声が過剰にかき消されていた。
「ママ、どがんしたと? いつも用意周到なのに。あんとき、そがん急に陣痛のきたと?」
氷雨は友里子の足音だけはそのまま残していた。家族への尽力の一環として、村雨家では常に整理整頓していた。
小学生の瑚子が図工の作品やプリントを持ち帰っても、家の各収納場所に紙の雪崩ができたことが一度もない。
代わりにデジタルカメラを携帯し、友里子は物の在処で戸惑ったこともない友里子は、田中家内で小刻みにフローリングの木琴を打っている。
「友里子、お前は何忙しそうにしているんだ?」
大輔は瑚子に背を向けた。
「ベビー・ベッド、どこにしまったと? ソファーだと光樹が落ち着いて眠れんよ」
「あんなクソ邪魔なモンとっくに捨てさせた。ガキなんてそこら辺でも寝転がるだろ。大体アレがあると気分が白ける――」
一つも植物を置いていない室内の壁が、床が、柱までもが数えきれない腕を持つ人面樹に豹変した。
瑚子が狭量だから血脈の氾濫が鎮まらないのではない。久々に他の人間に晒す裸眼が絶望と焦点が合うと、四肢が勝手に目覚めてしまった。
人間を強打できる芯の硬い枝で限られた空間は、バラエティ番組に出演できそうな汚部屋ではなかった。
友里子が入院していた四十日間、定期的に手入れされている。
「何だ! この薄汚い生き物は、しかも俺の家が……あのガキ自分だけさっさと逃げて、どこから連れ込みやがった!」
「
大輔の両足は力が抜け、幹根になりかけているフローリングの波に臀部の裂け目が食い込んだ。
瑚子は大輔に詰め寄り、背中が幹に触れると右足の蹄を両足付け根の中心と垂直になるよう構えた。
瑚子の視線が低くなったこともあり、簡単に大輔を見下ろせる。
「この
氷雨が吹雪に悪化し、光樹が無理やり現実に引き戻された。複数の気が乱れた密室に耐えられなくなった。
光樹の悲鳴は吹雪の風速を上げ、聴覚と視覚で友里子の矛先が読めなくなった。
「あの
大輔は手に届く範囲で最も太い枝を折った。空気に触れたばかりで剥き出しの濃黄の棘を、人参色の角と同じ高さに上げた。
瑚子が臭素の圧をかけると、大輔の武器は小刻みに震えもえぎ色の色彩への命中率が怪しくなった。
女癖が悪く自己愛が
重々理解した上で、顔面を一切防御しなかった。
「くたばれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
枝はハンバーグに不要な材料まで混ぜ合わせる音を立て、肉汁が大輔の冷や汗と交わった。
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