第31.5話―愛が迷える行き先

 新型感染症の渦中だった人間が安価の使い捨てマスクを購入できるようになるころ、空の穴では一人の人間が有名になっていた――雪平利矢を含むハナサキ族の最終候補衆ではなく。

 改姓・田中たなか友里子ゆりこ、十年以上も村雨家を支えてきた女性だ。

 トビヒ族の父子との初対面でさえ二歳の裸眼を遺伝子の突然変異としか認識しなかった。

 友里子の種族における知識が皆無だったからに過ぎないが、仮に浅い知識があるとしても他の人間であれば同じ国籍であることも人間として暮らしていることも受け入れるはずがない。

 独身時代の友里子には同じ人間に偏見を抱いた過去が無く、当然のように村雨瑚子の母になることを望んだ。

 遠戚の紹介であることすら武器に変えて粘り、瑚子の実父・正晃が折れて友里子を家族として受け入れた。

 友里子の家族愛は、瑚子が手のかからない歳に達しても衰退するどころか経年で深くなった。

 人間であることも国籍も共通の家庭には決してあり得ない理由で、瑚子は初潮よりも先に村雨家内の血縁関係を確信した。

 友里子と正晃はこの事実に触れる機会を生米一粒分まで減らし、コンタクトの装着義務以外で裸眼に触れなかった。

 瑚子が独立し生家を離れるまで、あるいはウェディングドレス姿を見納めるまでは友里子と互いに思い合う日常が続くと誰もが思い込んでいた。

 村雨家の運命が大きく変わったのは、不変にめぐり続けるはずの七月だった。

 長崎市在住の少女が自ら産み落とした胎児を遺棄した。当時十五歳である点にのみ着眼すれば、社会の一員としての未熟さと性的好奇心の早熟さで男女問わず卑下の対象で終わるはずだった。

 話が飛躍したのはメディア業界人の本性を見抜けない住人の証言だった。それ以来、アナウンサーの須子見を含む業界人は生物学上あり得ない少女の裸眼と人体から生まれた異形に沈着な睨みを利かせてきた。

 瑚子の素顔を世間から守るため、正晃が性急な転校を独断した。

 家長としても父親としても妥当な判断だと理解していたが、友里子の中で疎外感が募った。

 ニュースがきっかけで、仮に近い将来、瑚子に好きな相手が現れたとしても胎内で突然変異が起こる可能性が砂粒一つ分くらいはあると思えるようになった。

 だが予測はあくまで遺伝子上の問題であり、裸眼の色彩が特殊であっても瑚子自身は友里子の娘に変わりなかった。外ではおとなしくも家族思いで世の理不尽を許さない、あくまで真っ当な人間に過ぎなかった。

 その瑚子さえも友里子を惑わせる日が来た。諫早市の私立・奏真館高校へ転校した最初の秋だった。

 同級生の家から帰宅した瑚子は、これまでの一日二十四時間の間で七日一六八時間が流れる早さで眼圧が強くなった。

 友里子に対してはいつまでも甘えたい幼さと自立に向けた分別で揺れ動く、高校生らしい精神的成長期のピークを迎えていたが、正晃を見る目は傍から見ても全身が痛み痺れるほど人間離れしていた。

『あの子の色彩はますます光がつよぅなりました。貴女ので火傷するごたるまではいかんかったけど、いつの間にかコンタクトから眼鏡に替えたとです。それでもあの光ば完全に抑えられんくて、いつも頭痛を堪えとるとを隠して……毎日顔ば見とったら分かるとに』

『貴女にとって、お嬢さんはあくまで人間なんやね。一番気が立っとった状況で距離を詰められても、私の目に驚かんかった訳たい』

 友里子はしばらく入浴できないため、髪は汗でアフリカンヘア並みの束が無数に出来上がっていた。ファンデーションは皮脂でリキッド状になり、素肌が水分を補う勢いでリキッドを吸収していた。

 ハナサキ族の陽子は女性が他人に見られたくない姿の一つを前に、見る側として気後れしなかった。陽子にとって、無事に初産を終えた母親は種族分別の対象外だ。

 見られる側としての友里子もまた、陽子に対して〇.一グラムも羞恥心が沸かなかった。報道の対象となる危険を顧みず産気づいた人間に寄り添った相手に恥じることこそが羞恥に落ちる。

『いっちょん驚かんかったわけでは無かですよ。私があの子に助けてもらえる理由なんかどこにも無かとに、ましてやあの子を怖か思いばさせたらでけんとにってずっと思いよったけん、予定よりも早く破水になって貴女にまで手間ばかけてしもうた。そっちの方ではかなり驚いたばって』

『そいは何度も言ぅたでしょう。私には息子が二人も居るし、回数と時系列では先輩やけん。ここに居るとは一介の母親が二人、後輩に弱音を吐かれてこそ先輩冥利に尽きるってモンたい……息子さんの父親に関しても』

 陽子の色彩は狙いを定めていた。燃やす対象は友里子でも別室の息子でもなく、今後母子を半永久的に支配しかねない背後だ。

『あの子は曲がったことが許せんときだけ雄弁になります。自分から他の子に声をかけることすら滅多になかったとに、家庭環境ばベラベラ喋るなんて考えられません。雪平さんはあくまで同級生の保護者、ましてやお子さんは異性で学科も違う。なしてそこんまで知られんばならんとですか?』

 卑下という意味でまったく不愉快だったわけではないが、友里子は何もかも読まれている不気味さが強かった。

 それまで陽子の色彩は色が異なるだけの突然変異であり、何処か海外の血が混じっていれば先祖返りも十分あり得る程度の認識だった。

『失礼ですが、貴女は霊能力者か何かですか? 否、貴女は本当に人間ですか?』

『戸惑うのは無理も無かばって、霊能力者は心外ですね。言っておきますが、私はスピリチュアルなんていっちょん興味の無かけん。妄想の対象として人為的にでっち上げられたモンなんてなおさらです』

『私だって占いの類なんて信じとらんです。でもあの子に何かしないとせんといまの姓が違うとにも驚かんですよね? まさかあの子に酷かことしとらんでしょうね。貴女の息子さんも同い年でお互い思春期やけん』

 揺らめく無色の炎が友里子の圧に跳ね返された。

 陽子の元・夫でさえ妻子を自分と同等の命として扱わなかった。第二子が生まれるまでは人型に生まれた利矢を可愛がっていたが、その過去さえも初めから無いものとした。

 ハナサキ族に劣る友里子の眼圧は、過去の拒絶とはまったくの別物だった。もはや陽子を真っ当な人間として見ていないのは腑に落ちているが、瑚子をあくまで人間の娘として守る対象であることは変わっていなかった。

『誤解せんで欲しかけど、我が家は娘さんに傷一つ付けとらんです。ただ彼女の父親に代わって教えたけど。避けられない宿命ってヤツばね』

『それは父方の血筋ということですか。でもそいはあの人の責任であって、貴女方が出しゃばるモンでは無かでしょう。私は確かに血縁関係の無かけん、その点だけはどがんしても力になれん。その代わり将来辛かかもしれんあの子の宿命とやらを、私が代わってやることだってできたかもしれんでしょう?』

『やけど貴女は他の男と情ば交わした。そこんまで娘さんのコトば受け入れ取って、なしてあの家から離れるようなことしたと? 良い歳した大人やけん、こうなるコトば分かっとったやろうに。まぁ、相手がご主人だった人より貴女を大事にしてくれそうな人やったら、私がこがんして出産の立ち合いまでせんかったとやろうし、そもそも娘さんが助ける前にに襲われることなんて無かったとに』

『そいけんなして要らん情報ば……』

 別室から別の赤ん坊の鳴き声が届くと、陽子は自分の目を指さした。

 それだけで特別な事情であることを察したが、友里子はあえて陽子の襟を引き寄せた。

『国内外におけるすべての人類が決して貴女のように理解のある方ばかりではなか。悲しいことに私たちは眼色の異なる者同士、繋がりを頼りに守り合わなければならん。何から、は言わんでも分かるやろう? 私たちが最も恐れとったヴィジョンの序章がテレビで幕ば開けたとやけん』

 友里子は頷いた。アナウンサーが告げた超常現象の一部が出産を控えた自分の前で起こったからだ。

 当時の友里子が正常な精神状態であったのであれば、瑚子が四つ足のトビヒ族と比べ物にならない太い蔦を生み出した。しかも自然学ではあり得ないコンクリートの中から。

『そいでも私の娘です。佐世保の実家に戻って初めて気付きました。血縁やあの人が頑なに黙秘した事情も私が気に病むことなんて無かったって。一時的でも自分勝手に孤独ば感じとった私を受け入れる他の男なんて要らんかったって。でもこの命も捨てられんかったどっちつかずの女なんて、ばちが当たって当然です』

『そん罰がいつか娘さんに巡ってくることは考えんやったと? ご実家のお母さんを頼らず一人で重か荷物ば抱えた結果、娘さんは完全にこの世界で生きられんごとなったとに? 父親と違って、もはや宿命から逃れられんごとなったとに?』

『あの子が幸せに生きていける方法は残っとらんとですか? 貴女の言う罰とやらは私が全部引き受けますけん』

『田中さんが? 仮に娘さんの幸せのために辛い運命ば背負ったとして、残された息子さんは不幸になっても良かとでも? そがんコトば知ったら、彼女は捕らえられるかもしれん危険ば冒してでも貴女たちの元へ駆けつけるやろう。そがんなったら……共倒れにしかならんたい』

 別室でお乳を求める声で友里子の耳と肩が震えた。陽子はベッドを浮かせられるほどのため息をつき、パイプ椅子から立ち上がった。

『ではこうこがんしましょう。彼女はいずれ貴女に会いに来るでしょう。でもへ長居はさせんで、タイミングはすべて私が執る。私がすべての同類の目となり、貴女方母子に限っては彼女の世界にとって無害であることを証明すること。そうすれば貴女が知っても良かことに関して、私が明かします。彼女直々に、でないのは父親から十分な知識を受け継がれず、貴女に誤解が生じる可能性があるけん。納得してくれるやろう?』

 陽子はここで初めて、友里子に高圧的な声を放った。自分の張る乳房も気になり、友里子は頷いた。

『ずいぶんとお邪魔したね。ここまで体力の消耗したとは初めてやろうに、すまんかったね。息子さんがお腹空かせてしもうた』

『はい、きっと光樹みつき強い人間になれるやろうね』

 陽子がベッドへ振り向くと、友里子は同等の立場として色彩を射止めた。

『光る樹です。きっとあの子と同じ目にはなれんやろうけど、眩しい多幸がこころとからだに宿るようにって意味です。良かセンスでしょう?』




、こン子の名前すら考えるのも面倒くさそうやったけん。私が特権ばもらっちゃいました』

 陽子は生まれて初めて、自分が女であることが悔しくなった。



 ハナサキ族の一員として、若きグリーン・ムーンストーンの世界を守る術があったかもしれない、と。

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