第30話 2020年9月1日―守るべき存在
「お久しぶりです。お変わりが無かごたるで」
「そちらも。以前は娘がずいぶん世話になりました」
熟年二人の声は木の葉の摩擦音と鈴虫の鳴き声が最小限まで削り、女声の顔は普段から身に着けているサングラスで新月の闇に溶け込んでいた。
「それにしても村雨さん、コンタクトだけではかなり不用心なのでは?」
「この状況下で慌ててサングラスば
男声は瑚子の実父、村雨正晃。対峙するのはかつて陸上選手としての瑚子を指導していた百武佐奈子。どちらもトビヒ族の血が流れている。
「確かにまだ、ですね。正直
「あなたは血での分別ではなく、指導者としての自我の方が強かとですね。そいだけ彼女は魅力的な選手やったということですか」
「当然です。谷崎真奈美の走りには、瑚子さんに無かモンがありました。過去を乗り越え自分自身と向き合う覚悟、先へ進む勢い、隣の存在と笑うための優しさ。すべてが彼女の強さでした。故郷を離れる前から彼女の走りは輝きを得た原石やったとです。そいを
「なぜ娘が? いやそれ以前に、谷崎さんにはどがん過去があったとですか?」
「プライバシーに関することなのでそこんまでは言えんです。聖マリアンヌ女学園中等部に入学したばかりの瑚子さんに私がリレーを強く推した理由を、他ん選手や保護者が知らんように」
「その点については感謝してもしきれんです。一人で走っとったらメディアが黙っとらんかったですけん。トビヒ族特有の俊足ば超えられるとは、男子オリンピック選手でもそうそう
「人間の情報網はトビヒ族間のネット・ワークに匹敵するけん。普段はいがみ合っているくせに、有事の際同志との結束はダイヤモンド並みに硬く、簡単に熱する。それを知った上で、この十日ほど杜の入り口にすら寄らんかったとはなしてですか? 村雨さんに限らず同胞から離れた人間を始末し続けてきた。あなたから離れた奥さんをも手にかけようとしたっちゃけん、私ならともかく杜の同胞が受け入れんはずも無かでしょう。まして今や瑚子さんは
木の葉の摩擦音が鈴虫と佐奈子の声を溶かした。杜の入り口から一キロ・メートル離れた山中に立っていたので、佐奈子は初めから声を抑えていた。
ようやく告げられた本音は正晃に向かって流れる木の葉が代弁し、長崎弁の一つも漏らさず正晃に伝わった。
「瑚子によぅ言われとったけど、私に言わせたら、頑固にならん父親なんて不自然極まりなかですよ。娘は随分とトビヒ族ば
「—―そんならなおのこと、あなたは今すぐに長崎ば離れるべきです。瑚子さんを守るべき家はこの地に
なして、と正晃が言いかけたところで、佐奈子は真相を明かした。
「瑚子さんには、私が責任持って伝えますけん」
「おい番人、この先は諫早市だぞ。本物のテレビば見らんば状況も分からんとか、知能ブス」
「出たよ、自称お目付け役。他のトビヒ族が他所に避難しとるっちゃけん、一人伸び伸びして良かろうもん。この鉄壁脳みそが」
利矢が空の穴から直接杜へ降りる。
ハナサキ族本来の姿から人型に転身することがほとんどなくなったのに対して、瑚子は雪平家のお下がりを着て以来一度もトビヒ族本来の姿に転身せず利矢に悪態をつく。
命がたった二つしかないこのエリアではこの状態が繰り返されている。
「一日何回杜の入り口ば徘徊したら気が済むとや? あの女、お前の本当の母親じゃなかろうが」
「なして気付いとっと? うち、家の事情なんて話しとらんとに。そいに血が繋がってようがなかようが、あんたに口出しされる理由なんて無かろうもん」
「純血か混血かなんて、俺たちは見れば分かる。今まで同胞との関わりに縁がなかったお前には理解できんやろうけどな」
「そがん理解無くても困らんし。うちは
瑚子の波長には小石が神跳草に弾かれる勢いがなかった。
奏真館とは違い、瑚子がグリーン・ムーンストーンになってからは日を跨がず利矢と顔を合わせるので、その都度立腹を露にするのも面倒になったからだ。
あくまで瑚子が知る範囲ではあるが、昨年奏真館の同級生であるチョウを襲撃未遂して以来、利矢は人間に一度も
利矢に血の匂いがしない限り、瑚子が水浴びの川並みの落ち着きを装うのも悪くないという考えに至った。
「—―で? 弟が生まれる前後、あんた母親に重か荷物ば持たせとったと?」
「は? お前の話はいつも唐突過ぎる……そうやな、俺は
「クソか性格のあんたでさえそがんしとったとに、あのときママは一人で重かマイ・バッグば両手に提げとったとばい。夜遅くに、しかも臨月で。再婚しとらんならともかく、相手の男はどがん神経ばしとるとやろうか?」
「そいけんって人の家庭に首突っ込む気でおるとや? 眼鏡もコンタクトも失くしとるお前に何ができるって言うとや」
「あんたに言わせたら、うちは狂っとるかもしれんね。でもこいは情とかよりも、同じ女として見過ごせんだけやし」
瑚子は横に並ぶ利矢の羽毛を押しのけ、瑚子の膝関節まで伸びた神跳草の隙間をつま先で掻き分けた。
杜の入り口境目に瑚子のつま先が触れると、広げた翼で追いかける利矢の背後で風を落とす音が聞こえた。
「ずいぶん聞き逃せん話ばしとったなぁ、グリーン・ムーンストーン」
利矢より一回り小柄なハナサキ族一体が人型に転身した。片手の指で足りるほどしか見ていない着物と割烹着姿が、瑚子の記憶が虹色よりも鮮やかに蘇った。
「昨年以来か、それとも忘れてしもうたか? 今着とる服の送り主ば」
「母さん!」
利矢の実母・雪平陽子が杜に降り、瑚子は振り向いた。
「服とか色々助かりました。けどなしてここに? 息子さんの話だと空の穴に避難しとったとじゃなかですか?」
「その見解は間違っとらん。そいでもってあなたを引き留めた私の判断も間違っとらんよ――元運動部の小娘は皆そがん身なりに気を
陽子は瑚子のつむじから足先までの輪郭を指で辿った。伸びたまま長さを調整していない髪を模った時点で、陽子の意図を読み取れた。
「
「協力してくれるとですか? 今うちが人間の世界に戻ったら、ハナサキ族にとってメリットなんか無かやろうに」
初対面で友好的な印象でなかったため、瑚子は好意を素直に受け取ることも、不信と驚きが混入した歓喜を腹の中に留めてしまった。
陽子はこの反応を想定していたので、生え揃えた眉が一ミリも震えなかった。
「この件で借りば作っとっても今代のグリーン・ムーンストーンが恩ば返すとは初めから
「クリア・サン……?」
「ハナサキ族の長の呼称よ。初代ハナサキ族族長の御名を代々受け継いどる。そいで行くと?」
瑚子は頷き、陽子を水浴びの川へ案内した。
「あの御方が? 俺聞いとらんばい」
利矢は翼を閉じたまま杜の木々に同化した。
陽子が提案した条件は三つ、明かされた事実が一つ。
瑚子の耳に届いたのは、日本エリアの杜からトビヒ族が一体残らず去った日だった。
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