第36話―灼熱の日陰

「こいつは返さんばでけん。らん世界に」

 利矢の意向を問いただずとも瑚子の同意を互いに察知した。少なくとも人間の血とバケモノの名残が密集した部屋に放置するべきではないことを。

「待って、その前に光樹が余計苦しぅなる! あんたに抱かせるわけにはいかん」

「こいつの寝息が聞こえんとか?」

 光樹を包む腕のみ、雪解けの小春日和に安定していた。下唇で上唇を揉む寝顔はこの部屋に着いてから始めて見た。

 例え利矢が乳児の扱いを得ていなくても、安定した空間にさえ包まれれば血縁のない光樹が落ち着くのは自然なことだった。

「そいともこのままミルク作りやおしめ替えやらでちんたらする前に弱らせるのか? 警察が土足で上がって来てみろ。育児の『い』も知らん奴だったら、そいこそこいつの衰弱の原因にしかならんぞ」

「そんならどこに連れて行くと? 今ほとんどのバケモノの引きこもっとるけん、交番にしたって人間オッサンしからんやろうもん」

 光樹の細い寝息が日差しと交わった糸となり、感情の針を一本ずつ溶かしている。

 瑚子の安定しつつある波長は声のトーンと身振りにも影響していた。

 利矢に右腕を掴まれても、無意識に身構えなかった。

「ついて来い」

 かき氷にする前のブロック氷が線香花火を消すように、左右で体温の異なる腕が完全に瑚子の自我を取り戻してくれた。


 窓枠を越え、木造やコンクリート・アパートの屋上を綱渡りしていると、ランドセルを背負う子どもどころかスーパーへ戦利品を求める主婦すら一人も出歩いていなかった。

「あんた、こがんクソ暑いぬっかとによぅ巣穴から出てきたね。靴ば履いとらんかったら、うちでさえ足の骨まで溶けてしまうばい。四十度後半ぐらいあるっちゃない?」

「人間に見られんごとするには、こいぐらいがベストやろう。五十度超えたらさすがに赤ん坊ば庇いきれん」

「あんた、今までは不気味な氷男やったたい。気候ば操ってまで、不気味な外道ば極めたか理由なんてあると? ってか光樹もよく嫌がらんね」

 人間の生活をしていたころは、パチンコ狂いの親が炎天下の車内に乳児を放置、脱水症状で命を落としたニュースを飽きることなく見聞きしていた。

 車内環境が利矢の生み出した熱気とほぼ変わらないとすれば、光樹は過去の被害児と同じ状況であっても不思議ではない。

 光樹の寝顔は利矢の肩と背中に阻まれて視認できない。両足に重力をかけて声を確認してみるが、利矢に腕を引かれるだけだった。

「速度を落とすな! 今の俺はお前の俊足を利用して、腕力を脚力に変換できる。そいでもこいつをはよぅ届けんばことには変わらん。そいこそミルクやらおしめやらで足止め食らうぞ」

「そがん言うなら行先ぐらい言わんね。うちだってAIじゃなかけん、永遠に走っていられるわけ無かやろう」

 瑚子が求める答えは利矢の肉声ではなく、細い木々で囲まれたコンクリート建ての家屋が示した。

「こいつの新しい家だ」

 屋根にすくんだピンク色のラインが一本、全体はクリーム色の児童養護施設だ。

 入り口付近には、長崎県内ではありふれたツツジの垣根が苔岩のように並び、瑚子は異常気象の中で唯一、人間味を感じた。

「そいけど、うちらは職員に顔の見せられんばい。どがんやって光樹を中に入れると?」

「ここの入り口だけ冷房に近か気温ば維持しとった。こいつが大声で泣けば職員が気付くやろう。放置なんかお前は不本意やろうが、これこいしか方法の無か」

 利矢はツツジの垣根を脇目に振らず、日陰のコンクリート敷居に両膝を落とした。

「待って、何その右腕? ってか羽? そこだけ転身しとっと」

 利矢は縮小したハナサキ族本来の翼で光樹を包んでいた。元来の白金が強い日差しで以前より色素が薄くなっている。

「この方が体温調整しやすかし、お前の暴走で落とさんごとなるけん。子どもは体温が高い。こいつは人間やけん、なおさら俺らより汗もかくけん滑らないようにしないとすべらんごとせんば

「詳しかね。お兄ちゃんやけん?」

 瑚子には答えず、利矢の羽をコンクリートの緩和剤にして光樹のお包みごと滑らせた。

 誰かに抱かれている感触が光樹から抜けた瞬間だった。



「光樹!」

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