第32話 2020年9月10日―目覚めの月

(何があっても絶対に怒鳴ったりしたらダメでけんよ。世の中のすべての大人が瑚子ちゃんみたいなのごたる天使じゃなかけんね)

(心配しないでせんで良かよ、もう十八歳のオトナになっているんだからなっとるっちゃけん。何よりママと光樹の安全がかかっとるせんね)

 退院の日、友里子と瑚子は互いの汗を吸えるほど肩を合わせ声のトーンを抑えていた。

 友里子に抱かれた光樹が掴む瑚子の人差し指は、慈しみを全身の皮膚に伝達していた。

 手荷物を持っている陽子から詰まり物を除去する音が聞こえないので、瑚子の装いは不自然ではないはずだ。しかし実際は全身の血はマグマの濁流と化していた。

 病室を去る瞬間まで、友里子は母乳が蒸発しかねないほど田中家の作法を瑚子の身に染み込ませた。

 光樹の父親の性格に関して、友里子は一度も明確な言葉を使わなかった。それでも自分自身に関連しない憎悪に疎い瑚子でさえ、臨月までの友里子の生活背景が浮かび上がった。

 公立小学校を卒業した後、瑚子が性格の深層に触れた男性は実父の正晃、奏真館での同級生・利矢とわずか二人だった。

 身近な存在が異性の性悪の基準だったため、行動の見える二人の方が格段に善心者だと判断できたことがいまだに受け入れられずにいる。

 瑚子の感情の分岐点を二桁の年数分見てきた分、友里子は外面で抑えている本心に圧をかけた。

(瑚子ちゃんだけが私の頼りやけんね。こいが出来て一人前大人になったら、自分に有利なコトの増えるし何より心の傷ば最小限に抑えられるとばい。自分のコトも考えて行動できるごとなる練習ばい)

(そがん言うママがいつまでもコドモ扱いしてどがんすると? 瑚子姉ちゃんの威厳もかかっとるとに)

 瑚子に同意する「あ語」が細く伸びると、陽子は引き戸に力を込めて看護師に知らせた。

「タクシーば待たせたら申し訳なかですよ。車内でのできたら大ごとやけん」

 陽子は陣痛に耐える友里子に同伴したので、見える範囲でタクシー業界の現状を把握している。

 この年は新型感染症で生活必須に携わる業界以外すべての経済打撃が強く、感染拡大予防の一環としてタクシー業界も例外なく窓の換気が義務化した。

 ただでさえ世界規模のクラッシャーが世間を騒がす前から、全国各地で日常的なタクシー乗客層が狭く限られ人件費と経費削減がドライバーに圧をかけていた。

 ましてや諫早市は長崎市に比べて農業地域が広く、所得に関わらず軽トラックや軽自動車がスマホと同等の生活必需品である。年々雨季が短く水不足が深刻化していることで諫早市全体で経済の巡りの鈍化に加え、当時の二人はもれなくサウナに身を投じた。

「うわ、それならそんならだいが運転ばするすっとですか?」

「光樹くんと田中さんの安全ば守るためには、ドライバーさんを人間に留めておかんばねぇ? 瑚子さん」

 陽子は片手に友里子の手荷物を持ち、もう片手で瑚子もうもくの腕を引き始めた。

「田中さんはゆっくり降りてきて良かけんね。体力の無か光樹くんを熱中症にしないようにせんごと

 瑚子とすれ違いで看護師が友里子母子と距離を詰めた。陽子が事前に母子の誘導を依頼していたからだ。

(少しでも異質だおかしかと思われたら、何を置き去ってでも一瞬で逃げ切らんば)

 氷の吐息が瑚子の耳孔を突き抜けた。

 陽子が純粋に友里子の世間体と瑚子グリーン・ムーンストーンを案じているわけでないと気づいた。瑚子の「察し」より確実な経路で「入手」した上で、陽子自身の安全保障確保と人間界からの完全撤退を宣言している。

 実際に陽子はタクシーのトランクに友里子の荷物を入れるだけで、タクシーのドアが閉まるのを見届けた。


 車内では友里子の沈んだ気が瑚子の素肌を刺し続けた。

 家族への尽力を心底の喜びとするはずの母親が不安に満ちている。

 それこそが人間界において最大の異質だが、瑚子はこまめに発散できていない力を体幹に留めることに意識を傾けた。

 病室よりも狭い車内ではあらゆる想定内の空調事情であっても、他者の習慣に馴染みのない臭いが充満しやすく、臭刺激は鼻腔に収穫したての大根をねじ込む痛みに等しい。

 例えば仮にドライバーが独身であれば、炊飯に似た光樹のうんちでさえ乗客を降ろさせる理由になりかねない。

 産婦人科の立地を把握しているだけでは必ずしも乗客の母子に寄り添う素振りができるわけでも、が乗車する可能性も考えられない。

 人間の姿で生まれた瑚子が人間の振りをするだけで気疲れするなど、利矢に出会うまで想像もできなかった。

「お客さん、すぐに戻って来るくっけん、こんまま待っとってくださいよ」

 タクシーのトランクが開き、母乳の染みついた甘い匂いが離れた。瑚子と反対側の乗車ドアが開き、友里子と光樹が一足先に降りたからだ。

 その後ドライバーの階段を降りる音が聞こえた。長崎市内にありふれた石段や実家の木段とかけ離れた足音はタクシーのもう一方の乗車ドアまで忙しく辿り着いた。

 田中家の敷居を跨ぐまで、ドライバーは吐息を抑えているつもりだったが瑚子には本音を聴き破られていた。

 約一週間でも、人前で盲目を装う間は吐息の振動や波長で人間の本音を読めるようになった。

 瑚子に腕を貸している中年は身体障碍への偏見よりも、乳児を抱えた女性に同行する瑚子への疑心が強い。

 この年世界規模で新型肺炎の感染が拡大した疲弊を超えるほどの感情が、瑚子の右手に介入した。

 田中家の玄関が閉まっても、瑚子の心身ではドライバーの自己基準への抵抗細胞が勇み声を上げていた。


「友里子、そいつ誰?」


 抵抗細胞の二十四時間営業が始まった。

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