探偵はフィンランドに憧れる

 深夜の大浴場は、思っていたよりも人が多かった。ホテルに宿泊している客の他にも、長距離トラックの運転手が立ち寄りで利用しているようだ。サウナ室はどうだろうと覗いてみると、こちらはほとんど人がいない。龍二と竜太郎は、早速最上段へと腰掛けた。


「義父さん、随分空いてますね。日本人は皆お風呂好きですけど、サウナはそこまでじゃないんですかね」

「湯船に比べたら、そうだろうね。サウナは元々はフィンランドあたりが発祥と言われているんだ。今から6,000年も前からあったそうだ」

「そんなに前なんですか」

「ああ。その頃は洞穴を利用していたらしいね。今のようなサウナ小屋の形式が産まれたのは、2,000年ほど前と言われてるんだ」

「それでも2,000年前ですか。凄いなあ」


 2,000年前と言えば、日本で言えば弥生時代くらいに当たる。その後、現在主流の乾式サウナが日本に紹介され、広がりはじめたのは随分後で、1964年の東京オリンピックの頃だそうだ。まだ60年も経っていない事になる。


 それにしても、竜太郎はこんな事を良く知っているものだ。さすがサウナ・スパ健康アドバイザーの資格を持っているだけある。龍二は感心していたが、なんの事はない。「60」という数字が自分の年齢に近かったため、覚えてしまっただけとの事だった。


「龍二君、サウナの聖地とも言われるフィンランドではね、水風呂が無いサウナも結構あるそうなんだよ」

「えっ!? 水風呂が無いんですか」


 すっかり水風呂好きになっている龍二にとっては信じられなかった。水風呂こそがサウナの醍醐味であるのに、それが無いとは驚きだ。それでサウナの聖地を名乗るのは、ちょっとどうなんだろうかフィンランド。


「フフフ、でもね龍二君。代わりのものがあるんだよ。なんだと思う?」

「水風呂の代わり……? シャワーじゃないですよね」

「それはね、海なんだよ」

「海!」

「サウナで温まって、バルト海で冷やすんだよ」

「バルト海!」


 水風呂ではなく、海で冷やす。しかも、フィンランドといえば北欧の極寒の地。おそらく水温は一けた台シングル。限りなく0℃に近いだろう。


 龍二は夢想した。サウナ小屋で温まってドアを開ければ、目の前に広がるのはバルト海。その冷え冷えのシャングリラに向かって、一本の橋がかけられている。蒸されたおじさん達は、タオルいっちょで湯気を上げながら、その橋を一歩一歩渡っていくのだ。約束された安息の地へと。そしてざぶんと飛び込むのだ。ああ、正に夢のようだ。


 海が水風呂とは、なんとも壮大なスケールではないか。フィンランドさん、疑ってすみませんでした。やはり貴方は聖地でした。


「さらに凄いのはね、龍二君。サウナに入る前には、屋外の雪の中にビールを突っ込んでおくそうなんだ。なぜだと思う?」

「ビールをですか。なぜって、冷やしておくためですかね」


 龍二の答えを聞いて、竜太郎はフフフと不敵に笑った。


「それが違うんだよ龍二君。冷やし過ぎないようにするためなんだ。フィンランドでは外気温が氷点下になる事も珍しくない。だから、そのまま屋外にビールを置いておくと、凍ってしまうんだ」

「ええっ! じゃあ、凍らせない為に雪の中に入れるんですか」

「その通り。そして、水風呂から上がって休憩しながらビールを飲むんだ」


 冷やすためではなく、むしろ温めるために雪に埋める。なんて事だ。水風呂にしてもそうだ。極寒のバルト海とはいえ、それでも水だ。凍結はしていないということは0℃近辺なのだろう。単純な温度だけでいえば、氷点下の外気の方が低いのだろう。むしろ水に入った方が温度が高い。クラクラする話だ。果たしてこの水風呂は冷たいのか暖かいのか。冷たさの概念がちょっとわからなくなる。最高だ。


「最高じゃないですか。フィンランド」

「ああ、いいよね」


 竜太郎と龍二は恍惚とした表情で蒸されていた。夢の聖地、フィンランド。いつか行ってみたい。そして、バルト海で冷やされてみたい。龍二が球の汗をかきながら考えていると、竜太郎が立ち上がった。


「さ、バルト海とはいかないけど、そろそろ水風呂に行こうか」

「はい。夕方には入れませんでしたものね」


 2人は並んで水風呂に肩まで浸かった。大きな木の湯船の水風呂は、シングルとまではいかないが、良く冷えている。疲れが一気に吹っ飛んで、爽快感がやってくる。気持ちいい。なんだか頭の中がクリアになっていくようだ。


 これでビールでも飲めれば言うことなしだが、今日のところは、明日に備えて我慢した方がいいだろう。いや、そもそもビールでは水分補給にならないか。でも、風呂上がりの一杯目に飲むのは美味しいんだよなあ。今日ももう少しで飲めたはずなのになあ――。龍二がそんな事を考えていると、隣で眠るように水風呂に浸かっていた竜太郎が目を開いた。


「龍二君、どうやらわかってきたようだね」

「ええ。いいですよね。フィンランドにビール」

「そうではなく、今回の事件だよ」


 そう言うと、竜太郎は高らかに宣言した。


「ととのいました」


「ええっ!? 義父さん、わかったんですか」

「ああ。すべての事件の答えは、サウナが教えてくれる」

「サ……サウナが? とにかく、事件の謎がわかったんですね」

「そうだ。それはそれとして」

「はい」


 探偵はすっくと立ちあがると、くいっと顎をしゃくった。


「まずは水分補給だ」

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