探偵は謎をととのえる

「この事件の鍵は、“なぜ、裕子さんが浴槽で魚と一緒に冷やされていたか”です」


 探偵は、大理石の椅子に座ったまま、そう切り出した。


「被害者が浴槽で発見された時には、魚と氷が一緒に入れられており、蛇口からは水が出されていました。また、羽賀さんに関しては、昨夜、近隣のコンビニで大量のロックアイスを購入した事が分かっています」

「だったら、亜紀がやったんじゃないですか」

「ええ。ロックアイスを入れたのは亜紀さんです。しかし、浴槽に被害者と魚をいれたのは別の人物です。この魚は、水と一緒に氷漬けにされ、冷凍庫に入っていたものでしたね」

「はい」

「ではなぜ、発見時には氷漬けではなく、魚だけの状態だったのでしょうか。亜紀さんが浴槽へと入れたとすると、溶けるのが速すぎるのです。少なくとも、魚は別の人物がもっと前の時刻に浴槽に入れたとしか考えられません」


 竜太郎はそこで一息ついて俊之を見つめ、さらに言葉を続けた。


「おそらく羽賀さんは邸内を荒らしまわりながら、復縁を迫るために俊之さんを探していたのでしょう。だが見つけたのは裕子さんだった。――-いや、裕子さんの遺体だった。そこでこう思ったのです。『俊之さんが考え直し、私の為に邪魔な女を殺してくれたのだ』と」


 俊之は青い顔のまま黙って聞いている。


「狂喜乱舞した羽賀さんは、遺体の周りに溶けかけの氷が浮いているのに気づきました。さらに、蛇口からは水が出ている。それを見て彼女は、なんらかの意図で俊之さんが遺体をのです。そして、こう思ったのです。『今度は私が手伝う番だ』と。彼女は手助けをしようと氷を買い込んで戻ってきたのです。そして、工作をしているうちに警官に逮捕されました。つまり、彼女は裕子さんを殺害などしていないのです」


 羽賀は逮捕時に、しきりに「俊之の手伝いをしただけ」「俊之を守る」と繰り返していた。彼女にとってそれは虚言ではない。嘘偽りのない言葉だったのだろう。


 それまで黙って聞いていた俊之が、首を振って口を開いた。


「例えそうであったとしても、私が裕子を殺した事にはならないじゃないですか。他の誰かが侵入して裕子を手にかけたとか。亜紀はそれを見て勝手に勘違いしたんですよ。第一、私は昨日、早朝から家を空けていました」

「ええ。その通りです。しかし俊之さん、早朝に家にいなくても何も問題ありません。それは関係ないのです。なぜなら、裕子さんは昨日殺害されたのではありません。それ以前に既に殺害され、冷凍されていたのです」


 竜太郎が断言すると、俊之の肩がびくん、と揺れた。


「なぜ、裕子さんは浴槽に氷と一緒に入れられていたのか。それは、冷やしていたのではありません。氷水解凍されていたのです。むしろ温められていたのですよ。凍結を防ぐために雪中にビールを埋めるのと同じようにね。さらに言えば、犯人は凶器を消し去ろうとするために、氷漬けの魚も浴槽に入れたのです」


 俊之は膝に置いた両手にぎゅっと力を入れ、館内着に皺ができるほど掴んでいる。それでもなお、良太路に反論する。


「冷凍? ビール? それに凶器? 何をわけのわからないことを。第一、ひと一人を冷凍するなんて事、どこでやるというんですか。馬鹿馬鹿しい」


「ええ、普通の家庭ならできません。しかし、俊之さんならばできますよね。ある程度の数の鱒をまとめて冷凍加工する設備があるのですから。そう、この岩盤浴施設の部屋と同じような大きさの、冷蔵、いや、冷凍すら可能な倉庫を持つ岩田養鱒場であればね」


「た……確かにウチには、この部屋くらいの冷凍倉庫はあります。でも、だからといってそこで裕子を凍らせるなんてしていません。たとえ冷凍していたとしても、それを私がやった証拠があるんですか。誰かが侵入して裕子を撲殺し、倉庫に放置したかもしれないじゃないですか。そうだ。そうに決まっている!」


 龍二は竜太郎に目配せをした。竜太郎の推理に基づく捜査により、冷凍倉庫からは微量の血痕が見つかっていた。すでに鑑識に回されている。明日あたりには、誰の物かは判明するだろう。その事を俊之に伝えるかどうかを伺ったのだが、竜太郎は黙って首を横に振った。


「まだ罪を認めないおつもりですか、俊之さん。もう、全てわかっているのですよ。それに、あなたはひとつ勘違いしている。裕子さんは撲殺されたのではありません」

「えっ……?」

「死因は凍死です。冷凍倉庫に放置されたことにより、命を落としたのです」

「凍……死?」

「はい。ご遺体には鮮やかな赤色のアザ、――死斑がありました。この鮮紅色死斑と言われる死斑は、一酸化炭素中毒、青酸中毒、そして、凍死の際に顕著な特徴です。私が、ご遺体が冷凍されていたのではと考えたのは、このためです。もし、挫創による出血性ショックが原因で死に至った場合、死斑はもっと暗い紫赤色になるはずなのです。彼女の死因は、凍死です」

「撲殺じゃ無くて凍死……。じゃあ、じゃあ、あの時裕子はまだ生きて……。助けられたのか……。そんな……そんな!!」


 俊之は、そう呻くように口走ると、顔を両手で覆い、肩を震わせ慟哭した。


##


「信じていただけないとは思いますが、私は裕子を愛していました」


 俊之はすっかり落ち着きを取り戻し、裕子を殺害した事を認めていた。


「でも、その愛に見合うだけの事をしてあげられていない自分にもどかしさを感じていました。こんなはずではない、そんな思いが日々募っていました。しまいには、半ば自棄になり、言い寄られるままに亜紀と関係を持ってしまったりも……。本当に私は、駄目な男です」


 自嘲気味にフフ、と笑う。竜太郎と龍二は、黙って話を聞いていた。


「3日前の事です。私は、冷凍倉庫に裕子を呼んで、なんとか現状を打開しようと改良した新商品を見せました。ええ、あの氷漬けの鱒です。より多くの水を注入し、鱒と、育った場所の水をセットにして売り出そうとしたのです。そのまま煮物や、アクアパッツァにできますよ、という宣伝文句でね。ところが裕子は、それをバッサリと否定したのです。何も分かっていない、と。そんなに袋が大きければ、一般家庭の冷凍庫に入らないじゃないか。そんな場所を取るものが売れるわけがない、と。普段家事をしないから、それくらいの事もわからないんだ、と。呆れたように。私はそれでカッときてしまい、そのまま裕子を……」


「手にしていた、氷漬けの袋で殴打したのですね」


「はい。倒れた裕子はピクリとも動きませんでした。私は……私は、裕子を殺してしまったと思いました。遺体を見つからないようにしなくてはいけない、その事で頭がいっぱいになりました。そして私はとりあえず血の付いた服を脱がせ、――そのまま放置したのです。後で考えよう。今はここに隠しておこう、と。情けない話ですが」


 凶器は凍らせた鱒と水が入った袋だった。だから、頭部の挫創の形状が、金属バットとは異なっていたのだ。龍二が山崎の報告を思い返している間も、俊之は自供を続けていた。


「1日経ち、冷凍倉庫を見に行きました。自分でもまだ信じられませんでした。ひょっとしたらあれは悪い夢で、裕子は死んでなんかいないのかもしれない。中にはいつも通りの魚しかないかもしれない。そんな期待さえ持って扉をあけました。……でも、裕子はそこにいました。当たり前ですよね。それでも踏ん切りがつかずに放置し、昨日の朝になってやっと、遺体をどこかに捨てようと決意したんです」


 裕子の携帯の利用履歴は、3日前の時点で止まっていた。3日間の間、裕子は冷え切った冷凍庫の中に放置されていたのだろう。


「……実は昨日、結婚記念日だったんです。それもあって、思い切って行動するには良い日なのかなと。でも、凍ったままの遺体を捨てたら、発見された場合、さすがに変に思われますよね。だから1日かけて解凍して、夜に十里木じゅうりぎの山の方にでも捨てに行こうと思ったんです」

「なるべく自然な遺体になるように、氷水解凍をしたのですね」

「はい。解凍する時に傷んでしまったりしたら、裕子がかわいそうじゃないですか。だから、できるだけ負担の小さい氷水解凍にしたんです。鱒の袋も一緒に入れたのはご指摘の通り、氷代わりの用途と、凶器の処分をいっぺんに済ますためです」


 自分で殺害をしておいて、「傷んでしまったらかわいそう」とはおかしな話だが、犯罪者の心理とはそういうものなのだろう。


「朝方に氷水解凍をセットして出かけ、1日静岡で仕事をしました。その帰りの電車の中、思い立って亜紀へとメッセージを送りました。裕子をどこかに埋めて、そのまま私も遠くへと行ってしまおうと決心したのです。ならばあと腐れは無い方がいい。そう決断したのですが――。あとは、ご存じのとおりです」


 俊之は自供を終えると、ぺこりと頭を下げた。そして、自嘲気味にフフッと小さく笑った。


「なんでこんな事になるのかな。新商品にしても、裕子にしても、亜紀にしても。男には決断しなくてはいけない時がある。そう思って一念発起した結果がこれです。いつも裏目に出てしまう。なんでかなあ。私みたいな駄目な奴は、決断なんかせずに、流されるまま生きていた方が良かったんですかね」


##


 俊之は待機していた中山に連行されていった。龍二は竜太郎を送るからとその場に残り、竜太郎と共に館内のカウンタバーへと赴いた。


 2人は館内着のままスツールに腰かけ、フルーツビネガージュースをオーダーする。龍二はりんご、竜太郎はぶどうを選んだ。


「義父さん、運転は僕がしますので、ビールでもいいんですよ」

「ん? ああ、いいんだ。それより龍二君。さっき彼が言っていた事だけどね」

「はい」

「家族の方を見ようともせずに、『男には決断しなくてはいけない時がある』か。あげく家庭を壊してしまうとは、勝手な奴だ。……なんだか昔の私を思い出してしまったよ」

「義父さん……」


 まだ江美が小学生の頃、竜太郎は仕事ばかりを優先し、江美の母と度々衝突していたと聞いている。そして、そのまま離婚にまで至ったとも。


 “どっちに付いて行くかって言われてね。お父さんひとりじゃ何もできないから、お父さんの方に付いて行くって言ったの。お母さんも呆れてたわ”


 江美は、そんな風に笑って話せるようになっていたが、相当苦労をしたに違いない。竜太郎もそれを分かっているのだろう。やぐら父娘おやこの仲はいいものの、どこか互いに、気を使い過ぎているような所があった。


「龍二君、江美をよろしく頼むよ。あの子は、刑事の娘として、そして妻として頑張りすぎてしまうきらいがある。たまには互いに息抜きをして、一緒の時間を作ってやってくれ」

「はい。心得ています」

「そうだ。この施設なんて丁度いいのじゃないかな。岩盤浴であれば館内着を着て、男女一緒の部屋でのんびりできる。サウナじゃそうはいかないからね。多少温度的に物足りないかもしれないが、その時は、茉祐ちゃんは私が預かろう」

「義父さん……」


 夫婦水入らずの時間を取る。簡単なようで難しい。もしかしたら岩田夫妻も、たまにはでいいから一緒にのんびり温まりながら話をしていたのだらば、こんな事件は起きなかったのかもしれない。きっと、大切なことなのだろう。もしかして、竜太郎が今日の対決にこの施設を選んだのは、冷凍倉庫を示唆するだけでなく、この事を言いたかったからなのかもしれない。


「義父さん、ありがとうございます」


 龍二が頭を下げると、竜太郎は、いや、まあなどと言ってそっぽを向いた。なんだかソワソワしているのは、きっと照れ臭いのだろう。そんな風に考えていると、竜太郎がおおずおずと切り出した。


「実はね、龍二くん。今日、この時間にこの施設を選んだのはだね」

「わかっています。義父さん、江美とのことに気を使ってくれて……」


 龍二がそこまで言った所で、館内放送が始まるチャイムが鳴った。とたんに竜太郎が「しっ!」と指を立てて龍二の言葉を遮る。


『ご来館の皆様にお知らせします。この後、19:00より、男子サウナにてロウリュのサービスを開始します。奮ってご参加ください』


 19時からロウリュ。まさか、まさか義父はこのために――。龍二が竜太郎の方を向き直ると、義父は悪い顔になってヌフフフと忍び笑いを漏らした。そうだ、そうだった。この人はこういう人だった。龍二は半ば呆れつつ、もう半分は嬉しくなった。そして龍二の良く知る義父は、館内着のポケットから1枚のチケットを自慢げに取り出した。


「龍二君。これを」

「これは! “いつもニコニコ安全に。あなたを家までお届けします”でおなじみの、あべかわ代行のチケット。まさか義父さん」

「うむ。運転は心配いらない。ロウリュを浴びたら、その後は2人でビールだ。龍二君、昨日はおあずけだったからね」

「義父さん! ……でも、でもこんな無駄遣いを江美が知ったら」


 龍二が戸惑いを隠さずに吐露すると、竜太郎が背筋を伸ばして厳かに言った。


「龍二君」

「はい」

「男には、決断しなくてはいけない時がある」

「はい」

「今がその時だ」

「お供します」


 夫婦水入らずでおそろいの館内着を着て、のんびり温まるのも大切だ。だが、男同士水風呂ありでおそろいのタオルいっちょで熱波を浴びてビールを飲むのも、それと同じくらい大切なのだ。ごめんなさい江美と茉祐。パパは今夜、遅くなります。そして2人の共犯者は、いそいそと男性サウナへと向かうのだった。

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