探偵は謎をととのえる

「冬場には、浴室で起きやすい事故があります。ご存知ですか」


 竜太郎の問いかけに、中井は首をかしげる。


「ヒートショックです。脱衣所や浴室がまだ温まっていないうちに入浴しようとすると、部屋や浴槽内のお湯との温度差が大きくなり、急激に血管の拡張や収縮が起き、血圧が大きく変化します。その結果、失神や脳梗塞、心筋梗塞が引き起こされるのです。程度が軽くても、転倒したり、湯船で溺れる危険性がある健康障害です」


 そうなのだ。日本では、年間1万9千人もの人がヒートショックによって命に係わる事故を起こしている。これは、交通事故による死亡件数よりも、はるかに多い。ある意味、冬場の浴室は、道路よりも危険なのだ。


「ところで事件が起きた晩の18時頃、星山さんは打ち上げの途中で浴室に向かいましたね。かなりお酒を飲んだ状態で。そして、その後に浴室から大きな音がした。そうですね」

「はい。紘一さんが確認に行きました。足を滑らせて頭を打っただけとの事でした」

「それが、少し違ったんですよ。星山さんは浴室内でヒートショックを起こし、意識を失って転倒した。紘一さんはそれを見つけ、ある企みを実行に移したのです」


 中井の膝の上に置かれた両手が、ぎゅっと握られた。彼には何が起きたのか、わかっているのだろう。


「紘一さんは星山さんを救護せず、そのまま浴槽内に放置しました。そして、大した事はなかったとリビングの皆に報告し、自分はその場から離れたのです。あなたが数時間後に再現して見せたような、アリバイ作りのためにね。つまり、星山さんがそのまま溺死する事を見込んだ上で、現場を離れたのです」


 中井の体が、びくりと大きく震えた。しばらく黙っていたが、やがて、ぽつり、ぽつりと話し始めた。


「そうです……。そうなんです。あいつは、先生をわざと放置したんです。私が気付いたのは剣持さんを送った後の、21時近くの事でした。外から見ると、2階の浴室の電気が点けっぱなしになっていたのです。流石に長風呂すぎるだろうと、念の為に見に行ったら先生が……。慌てて浴槽から引き上げましたが、もう息はありませんでした。どうしていいか分からなくなり、とりあえず寝室のベッドまで運びましたが、そこで、何か違和感を感じたんです。紘一さんは大したことないと言っていたはずなのに、なぜこんなことになっているのか、と」

「これは事故ではないかもしれない、と思ったわけですね」

「はい。そして救急車を呼ぼうとした時、ちょうど紘一さんが帰宅しました。玄関まで行くと、期待と不安が入り混じったような、妙に浮ついた様子で、いきなり『典子はどうしてる?』と聞いてきたのです。その時、私は確信しました。ああ、、と」


 中井は憎々しげに言葉を吐き捨てた。龍二が中山に調べさせたところ、紘一の東京での事業は資金繰りに困っていた。金が必要になった紘一は、あわよくば典子が死亡し、その遺産を相続する事を狙ったのだろう。昨晩も、溺死すればそれでよし、しなければ、また別の機会を狙えばいい、くらいの気持ちの行動だったに違いない。


「私が『もう寝室でお休みになっていますよ』と言うと、あからさまにがっかりした様子でした。私は気持ちを押し殺し、飲みなおしませんか、と誘ったのです。結果を待つ緊張感から解放されたためか、すぐに乗ってきましたよ。どんどん酒を飲ませ、泥酔したのを見計らって、浴室へと運びました。あとは、探偵さんの推理通りです。先生にも力を貸していただいて、あいつを浴槽内へと閉じ込めてから遺書を書き、陽斗君を迎えに行きました。そして翌日、家に入って真っ先に浴室に向かい、桶をどけ、先生を浴槽へと横たえてから作業場へ向かい、遺書を発見したと声を上げて陽斗君を呼んだのです」


 すべてを話し終えた中井の顔は、汗まみれではあるが、どことなくスッキリとしていた。その中井に向かって、竜太郎が問い掛ける。


「ひとつ、教えてください。中井さん。あなたは紘一さんを憎んで殺害しました。その動機は復讐でしょう。しかし、そんなあなたが先ほどは、お二人を殺害したのは自分だと言い張っていた。まるで紘一さんを守るかのように。殺すほど憎んでいたはずの相手を、なぜ庇うような真似をしたのですか」


 中井は軽く首を振った。


「紘一さんを庇う? 違います。私が守ろうとしたのは、あんな奴なんかじゃない。先生です。先生が女手一つで仕事に子育てに臨まなくてはならなくなったのには、私にも責任の一端がある。そのために、先生は随分ご無理をされて、世間からの謂れのない誹謗中傷にも耐えてきた。それなのに、一回りも年下の財産目当てのクズに騙されて結婚し、殺害されたなんて知られたらどうなるか、お分かりでしょう。先生は亡くなった後でも、なお、奴らの格好の餌食になる。そんなのは私には耐えられなかったんです」


「だから、心中したように偽装した、と」


「はい。先生は、騙されてなどいなかった。ちゃんと添い遂げたのだと示したかったのです。先生は……先生は、あんなクズが殺していい人ではありませんでした。世間の連中に弄ばれていい人でもありませんでした。それを防ぐためなら、私が殺人の汚名を被ることくらいなんでもありません。私はもっと、もっと早く先生を守るべきだったんです。いえ、まだ間に合います。探偵さんの推理は、あくまでも憶測だ。たとえ裁判になったとしても、お二人を殺害したのは私だと主張しますよ。それが……それが真実なのです」


 中井は肩を震わせていた。その顔は今や涙交じりの汗でぐちゃぐちゃだ。竜太郎は、そんな中井の肩に手を置き、諭すように語りかけた。


「確かにあなたがそうすることで、ある意味、星山さんは守られるのかもしれません。でも中井さん、それは嘘です」

「わかっています。しかし……」

「あなたはそれでいいかもしれない。でも、陽斗君はどうでしょう」

「陽斗君……」


 中井は虚を突かれたように押し黙って項を垂れた。その背中に竜太郎が語り掛ける。


「陽斗君を、嘘にまみれたままにしていいのですか。中井さんがその主張を続ければ、彼は中井さんを母の敵と思い、紘一さんを憎いながらも母と添い遂げた男性と思い、そして星山さんの事は、自分を見捨てて死を選んだ女性だと思ってしまうでしょう。この先ずっと、そんないびつな嘘の世界を信じたまま、生きていかせるつもりですか。憎まなくてもいい相手を憎み、でっちあげの嘘に縛られて苦しむ道を歩ませてしまっていいのですか。真実はまったく違うのに、嘘で塗り固められた世界に彼をひとり置き去りにして」


「それは……」


「いいですか中井さん、人間だれしも、いい加減で、歪な所はあります。もちろんこの私にも。でも、だからと言って、それを隠して嘘の土台を作ってしまうと、その先はどんどん歪になってしまいます。まったくととのわなくなってしまいます。中井さん、世間の声は確かに煩い。でも、そんな物はいいじゃないですか。亡くなった星山さんも、そんな物は割り切っていたはずです。それより、未来を生きる陽斗君の事を考えて下さい。そして、同じく未来を生きる、あなた自身の事も。あなたは罪を償い、生きるんです。陽斗君の唯一の、家族としてね」

「探偵さん……」


##


 中井は翌朝には出頭すると約束し、サウナ室を出て行った。逃亡の恐れはないだろうが、念のため中山に監視させておこう。龍二がそう考えてサウナタイマーを見ると、ちょうど時計の針が1周する所だった。サウナ室内に入ってから12分。竜太郎も龍二も、額や肩に球の汗ができていた。


「義父さん、お疲れさまでした。そろそろ我々も出ましょうか」


 龍二は腰を上げたが、竜太郎はその場を動かずに切り出した。


「龍二君、星山さんが中井さんを独立させたがっていたというのは、本当かい」

「え? ええ。ただ、切り捨てたがっていたというのはちょっと違いますね。どちらかというと、中井さんを一本立ちさせたかったというのが本当の所のようです」


 竜太郎が動かないので、龍二はしぶしぶ腰を下ろして剣持から聞きこんできた話を説明した。中井は20年近く前の学生時代に典子の所にアルバイトとして訪れ、そのままなし崩し的に就職し、公私に渡り、今日まで手伝いをしてきたそうだ。


 典子としても、悪いとは思いつつもなんだかんだと頼ってしまい、中井を星山家に縛り付けてしまってきたとの思いが強かったらしい。そんな中井に報いるために、独立した事務所をプレゼントするつもりだったのでは、と剣持は語っていた。


「そうなのかね。学生時代から。……20年近く前と言うと、丁度、陽斗君が産まれた頃と重なるね」

「え? 陽斗君は今度大学入学ですから18歳。そう言われると、そうですね」


 竜太郎は妙に含みを持たせて、殊更にゆっくりと話している気がする。それにしても、熱い。この話の着地点はどこなのだろうか。


「中井さんは先ほど言っていたね。『私にも責任の一端がある』と。それはひょっとして、学生時代に過ちを犯し、星山さんとの間に陽斗君を……」


 竜太郎はそこで一旦言葉を切った。そして、ちらりと龍二の方を見た。まるで龍二の様子を窺うように。


「そんな。では陽斗君の父親は……」

「まあ、それは本人たちにしかわからない事だろうけどね」


 世間的には、典子は子供の父親はわからないと豪語していた。当時、奔放すぎて自分でも誰が父親かわからないため、「父親」欄は空欄のまま戸籍登録をしたのだと、何度も話のタネにして笑い飛ばしていたほどだった。


 だが、もし真実が、竜太郎がほのめかした通りなのであれば、それは、まだ学生だった中井をおもんぱかっての事だったのかもしれない。中井を縛り付けたくないがために。しかし、その意図に反し、中井は中井で責任を感じて星山家を支えようとしていたのかもしれない。互いに歪なまま、20年近くもの間、そんな危うい土台の上で。


 だから中井は、あんな行動を取ったのかもしれない。ひょっとしたら陽斗は陽斗で、薄々事情を把握していたのかも……。龍二は熱さでフラフラしてきた頭で、そんな事を考えた。そろそろ限界だ。


「それはそうと、義父さん、そろそろ……」

「思えば、陽斗君をドライブに誘ったことにしてもそうだよ」

「義父さん?」


 竜太郎は、龍二を無視して話を続ける。ひょっとして竜太郎も熱くてぼぅっとしているのだろうか。いや、目の輝きは相変わらずだ。むしろ輝きを増しているようにも思える。まるで楽しんでいるかのように……楽しい?


「単にアリバイを作るだけなら、どこか人の多い店にでも行くだけで良かったはずだ。陽斗君を泊めなくてもね。そうすれば、もし、心中ではないと判断された場合でも、真っ先に疑われるのは一緒の家にいた陽斗君だ。自分からは嫌疑を逸らせる。でも、そうしなかった。わざわざ静岡まで連れ出し自宅に泊めてまで、陽斗君のアリバイを作ったんだ」

「かもですね」


 熱さのために、龍二の返答も適当になっている。


「ま、それも全て、私の憶測に過ぎないけどね。それはそれとして、龍二君、最近那須先生はどう? 元気にやってるかい」

「ええ? はい。お変わりありませんけど」


 竜太郎はツヤツヤした顔で、楽しそうに龍二を見ている。事件には関係ない話題まで持ち出して、まるで悪戯をする子供のように。そこで龍二はハッと気づいた。ひょっとして、竜太郎は適当な事を言って、話を長引かせようとしているだけなのでは。単に、熱がっている龍二を面白半分で見ているだけなのでは、と。


 その気持ちが顔に出たのを気取ったのか、竜太郎はヌフフフと笑って舌を出した。子供か。もう限界だ。付き合ってられない。龍二は「お先です」と声をかけてサウナ室を出た。


 熱い。とにかく一刻も早く体を冷やしたい。猶予など無い。冷たい物が必要だ。冷たい物。冷たい物。――あるじゃないか。


 龍二の目の前では、水風呂が優しく手を広げていた。申し訳ないが、マナーなど気にしている場合ではない。龍二はためらいなく水風呂にざぶざぶと入り、膝を抱えて座り込んだ。たちまち、冷水が火照った体を抱きかかえて冷やしていく。足先から腿、脇腹に胸に腕、そして首筋があっという間に冷え、全身を爽快感が包んだ。なんだこれは。なんなんだこれは。これが、これが水風呂か。もっと味わってみたい。龍二は思わずそのまま体を後ろに倒し、ざぶんと音を立てて水風呂に潜った。顔と頭皮を覆う冷たい水が、今まで味わったことの無いほどの爽やかな感覚を運んでくる。気持ちいい。ただただ気持ちいい。


 顔を上げた龍二を見下ろしていたのは、ツヤツヤのお肌で嬉しそうに笑っている竜太郎だった。その顔を見て龍二は思った。ひょっとして、これが狙いだったのでは、と。わざとサウナ室に長く留め、水風呂に入るように仕向けたのでは。


 だが、龍二には、タオル一丁で微笑む義父が、本当はどう思っているかはわからなかった。陽斗の父親が、本当は誰かはわからないように。人生は本当に歪で、わからない事ばかりだ。だが、分からないなりに、ととのえながら進むしかない。


 それでも龍二は、一つだけ確信していた。サウナに来たのに水風呂に入らないのは、人生の半分を損している、と。

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