刑事は足で捜査する

 その日の朝、龍二は、部下の中山なかやまと鑑識の山崎やまざきと共に、現場へと向かっていた。110番に「家人が2人、死んでいる」という通報があったのは午前8時頃。それからすぐに所轄の警官が駆け付け、変死の疑いがあるとの事で県警にも連絡が入ったのだ。


 静岡市から富士宮市へと、第2東名を東へ向かう車中、中山が興味津々といったように尋ねて来た。


「水田さん、亡くなったのは、あの星山ほしやま典子のりこっていうのは本当なんですか」

「ああ。本当だ」


 星山典子は、名の知られた翻訳家だ。15年ほど前に翻訳した童話が大ヒットし、その後、映画化された事により、一躍、売れっ子の翻訳作家へと躍り出た。


 メディアに取り上げられるようになると、仕事ぶりに加え、明るく豪快な人柄と、シングルマザーながら女手一つで仕事と育児を両立させているという話題性もあり、さらに人気を得た。最近ではタレント活動も活発になっている。


 少々奔放すぎるがため、人気が出るに従い、毀誉褒貶きよほうへん様々となり、度々週刊誌やネット上を騒がせていた。が、それすらも、彼女の魅力の一つになっていた。


「自宅兼事務所の浴室で、夫と一緒に亡くなっているのを発見された。遺書も見つかったらしい」

「ええ? それって自殺、いや、心中ってことですか」

「かもな。それを今から確かめに行くんだ」


 9時過ぎに現場に着くと、既に2階建ての大きな一軒家の周囲には、所轄の捜査員たちの手により立ち入り禁止のテープが張られていた。玄関脇には表札に加え、「ステラ翻訳事務所」と小さな看板が掲げてある。龍二たちは番をしていた制服警官に声をかけると、2階にある浴室へと向かった。脱衣所を抜けて浴室へ入るなり、中山が感嘆の声を上げる。


「いやあ、広い風呂場ですね。見て下さい、窓から富士山まで見えますよ」


 広々とした浴室は、ちょっとした旅館の貸切風呂のようだった。大きな檜造りの浴槽は大人2人が一緒に入って手足を存分に伸ばしてもまだ余裕がありそうだ。その傍らには、いくつかの木の桶が。おそらくは檜を使っているのだろう。寿司桶のような、大きなサイズの木桶まで揃っており、なんともいい雰囲気だった。


 さらに浴槽に面した壁面はガラス張りになっており、真正面に富士山が聳え立っている。これなら湯に肩まで浸かりながら富士を眺める事ができるだろう。なんという眼福。別の壁面には、これまた大きな画面を持つモニタまでもが埋め込まれていた。


「うわ、TVまでありますよ! 凄え」

「はしゃぐな中山。まずは仏さんからだ。ヤマさん、どうですか」


 山崎は、既に浴槽の脇に屈みこんで検視を始めていた。浴槽内に横たわるは、互い違いに向かい合うように並んでいた。湯船の中には、まだ生ぬるさの残るお湯が張られたままだ。


「今は引き上げられて顔を出しているが、発見時は2人とも湯船の中に沈んでいたそうだ。この分じゃ2人とも、溺死だろうな」

「何か不審な点は」

「そうだなあ。奥さんの方は後頭部にかなり新しい打撲痕があるな。だが、これは死因とは関係ないだろう。軽いみたいなもんだな。その他は……っと、水龍スイリュウちゃん、もう少し時間をくれ」

「わかりました。お願いします。我々は諸々確認してきます」


 龍二は中山を連れて浴室を後にし、1階のリビングへと向かった。そこでは、2人の男性が悄然とソファでうなだれていた。スラックスにワイシャツ、セーターといった出で立ちの30代なかば程の男性と、チノパンにパーカーを着た青年。男性の方が龍二の姿を認め、立ち上がって会釈をすると、龍二も軽く頭を下げた。


「どうも。県警の水田です。こちらは中山」

「初めまして。中井なかいと申します。星山先生のアシスタントをしています。こちらは、先生の息子さんで、陽斗はるとくんです」

「お疲れの所恐縮ですが、事情を伺わせてください。星山さん達を最初に発見したのは、お二人ということでしたが」

「はい。朝の8時頃でした。自宅兼事務所のこちらに出勤して声をかけたのですが、返事がありません。おかしいな、と思って陽斗君と手分けして探していると、書斎のPCに表示されている遺書を見つけまして。それで慌てて浴室に行ったら、あんな事に……」


 1時間ほど前の事を思い出したのか、中井の顔がさっと蒼ざめた。


「それで通報を。ところで、なぜ、中井さんと陽斗さんはご一緒だったんですか。つまり、陽斗さんは、昨日はご自宅でお休みになっていなかったのでしょうか」


 中井は陽斗の顔を伺い、少し迷っているようだった。すると、陽斗が立ち上がって説明を始めた。


「昨日は中井さんの家に泊まりました。たまに泊めてもらうんです。その、あの人が来てるときなんかは特に」

「陽斗君……」

「いいよ、中井さん。どうせわかる事だから。俺、あの人と折り合いが悪くて」


 陽斗は悪びれる風でもなく、肩を竦めて見せた。


「あの人、というのは、星山さんと一緒に亡くなっていた紘一こういちさんですか」

「はい。ちょっと合わないというか、そういう所があって。気を使うのもバカバカしいんで、中井さんの家に逃げ込ませて貰ってます。お袋、なんであんな奴と……」


 星山紘一は、2年ほど前に星山典子と結婚した実業家だ。結婚当時、典子は43歳、紘一は30歳と、かなり年の差があった。人気翻訳家が若い実業家と結婚し、婿に向かえたという事で、ちょっとしたニュースになっていたのを覚えている。


 陽斗の対応を見かねたのか、中井がフォローするように付け加えた。


「紘一さんは普段は東京に住んでまして、静岡にはあまり帰ってこないんですよ」

「財産目当てだからね。お袋の事とかどうでもいいんだよ」

「陽斗君!」


 なかなか複雑な事情があるようだが、立ち入る事ではないだろう。龍二はあくまでも事務的に対応することにした。


「では、お2人が今朝こちらに来るまでは、屋内には星山さんご夫婦しかいなかった、という事でしょうか」

「そう……なりますかね」

「最後に星山さんと紘一さんの姿を見たのは、いつになりますか」


 中井はこめかみ辺りに手を当てて、記憶を手繰っているようだった。


「たぶん、最後にお二人を見たのは私ですね。あれは、夜の10時ごろになるでしょうか。昨晩、というか、昨日の夕方から、ここでちょっとした仕事の打ち上げがあったんです。打ち上げといっても、先生ご夫婦と私、それと、出版社の担当編集の剣持けんもちさんの4人だけのこぢんまりした物ですけど」

「なるほど。その場には陽斗さんは同席されていなかったんですか」

「はい。俺は友達と一緒にカラオケに行っていました」

「わかりました。打ち上げと言うのは、何時から始めたのでしょうか」


 龍二がメモを取りながら訊ねると、中井は話を続けた。


「ええと、確か夕方5時ごろでした。場所はこのリビングです。その後、1時間程して先生が風呂に入ると言い出して部屋を出ました」

「ほう、18時ごろという事になりますね。打ち上げ中に風呂とは。急な話ですね」


 中井と陽斗は顔を見合わせて苦笑している。先ほどの外泊の件と言い、この2人は随分と仲が良いようだ。


「先生はいつもそうなんですよ。思いついたら即行動と言うか。それに加えて、お風呂も大好きでしてね。随分とこだわって、浴室を作って貰ってました」

「ああ、拝見しました。お気に入りというのも納得です」

「ええ。富士山が良く見えるようにわざわざ2階に浴室を作ったり、モニタを嵌め込んだり。あのモニタは先生の仕事部屋のPCと繋がっていて、DVDや各種の映画チャンネルをあの場で見られるようになっているんです。よく翻訳前の映像を、お風呂に浸かりながらご覧になっていました」


 どうやら典子にとって浴室は、趣味と仕事を兼ねた特別な部屋だったらしい。それにしても、羨ましい限りだ。竜太郎が知ったら何というだろうか。ふと、そんな考えが龍二の頭によぎったが、いかんいかんと振り払って質問を続ける。


「では、昨日も何か映画をご覧になってたのでしょうか」

「さあ、そこまではわかりません。いちおう、地上波も入りますし、その場で録画もできるようにはなっていますので、何をご覧になっていたかまでは……」

「そうですか。いや、すみません。話が横道に逸れて。それで、18時頃に星山さんが部屋を出てからは、どうされたんですか」


 龍二が話しの方向を修正すると、中井は再び額に手をやった。


「ええと、そうだ。先生が浴室に行ってすぐに、2階で大きな物音がしましてね。紘一さんが見に行ったんですよ」

「ほう。何だったのですか」

「どうも先生が浴室で足を滑らせたらしく、頭を軽く打ったそうです。恥ずかしいから見に来なくていいと怒られたと、紘一さんが笑いながら降りてきました」


 なるほど。典子の頭のこぶはその時にできたのだろう。龍二は先ほどの山崎の言葉を思い出し、メモに書きつけた。


「その後、3人で話していたのですが、やはり剣持さんと私の話題が、仕事の話中心になってしまいましてね。紘一さんが気を利かせたのか、タクシーを呼んで外に飲みに行かれたんです」

「ほう、それは何時ごろですか」

「7時前だったと思います。先生がお風呂に行ってから、割とすぐでしたから」

「あいつが気を利かせるわけないじゃん。きっと、お袋がいなくなったのをいい事に、他の女のいる店にでも行ったに決まってるさ」


 よほど折り合いが良くなかったのか、陽斗が横から口を挟んできた。中井は困り切った様子で眉根を寄せて黙っている。ともかく、確認を進めよう。


「それでは、19時には中井さんと剣持さん、そして、星山さんが家にいたわけですね。その後はどうなったのでしょうか」


「あ、はい。8時30過ぎまで剣持さんと仕事の話をしてから、剣持さんがお帰りになるということで、駅まで送り届けることにしました。一応2階の先生には声をかけたんですが、返事はありませんでした。先生は、風呂に入っている時は基本的に返事を返しませんし、そのまま勝手に部屋へと帰って休んでしまう事も多かったので、そんな所だろうと思って、特に気にせずに駅へと向かいました」


「なるほど。その時、玄関の鍵はどうされましたか」


「はい。私は鍵を持っていないので、少々不用心ですが、開けたまま出ました。往復で10分程度ですので。戻ってきて片づけをしていると、紘一さんが帰ってきました。時間は、ええと、9時過ぎでしょうか。それから紘一さんと少し話をしましたが、10時になったので、今度は陽斗君を迎えに行きました。それが最後ですね」


「送り届けたり、片づけをしたり、随分と行ったり来たりですね」

「ええ。私以外は、皆さんお酒を飲んでましたからね。片付けも送り迎えも、一番下っ端がやるわけです」


 中井は悪びれるわけでもなく、にこやかに笑った。すると、陽斗が横から口を挟んできた。


「下っ端とかそういうんじゃないんです。中井さんは、星山家にとっては、家族の一員みたいなものですから。あんな奴よりもよっぽどね」


 紘一の事がよほど腹に据えかねていただろうか、それとも、そんな紘一と共に心中までした母に裏切られたような気持になっているのだろうか、陽斗の舌鋒は苛烈なままだった。龍二は陽斗に対してひとつ頷くと、中井の方へと向き直った。


「では、22時の時点では、星山さんご夫婦は健在だったわけですね」

「だと思います。その後、陽斗くんを迎えに行って、そのままちょっとしたドライブに出かけたんです」

「ほう。どちらまで」

「静岡市の梶原山かじわらやま公園というところまで」

「梶原山ですか。随分と遠くまで行かれましたね」

「はい。実は最近、陽斗君の静岡の大学への推薦入学が決まりまして。夜空が綺麗でしたし、ちょっとしたデートスポットを教えるつもりで足を延ばしたんです」


 確かに梶原山公園は、静岡市内でも有数の夜景スポットだ。夜ともなれば、大学生がドライブに繰り出すのも珍しくない。ムードも良く、何より無料だ。お金のない学生にとっては、ありがたい場所なのだろう。


 現場から梶原山公園までは、車で1時間弱。夜景を見て往復したとすれば、所要時間は3時間ほどといったところだろうか。龍二が、なんとはなしに試算していると、山崎が部屋に現れて龍二を手招きした。


「何かわかりましたかヤマさん」

「死因はやはり2人とも溺死だ。だがな、死亡推定時刻がな。ちょっと妙なんだ」

「妙と言いますと。昨晩から今朝にかけての間じゃないんですか」

「いや、それは間違いない。だがな、どうも2人の間のズレが大きいんだ。旦那の方は昨晩23時前後なんだけどな」

「はい」

「星山女史の方は、昨晩19時前後なんだ。誤差はあるにしても、ちょっと離れすぎてるんだよな」

「どういう事でしょうか」

「わからん。念のため、浜松医大の那須なす先生の所に回すよう手配しておく。そのつもりで進めてくれ」

「わかりました」

 

 死亡推定時刻に約4時間もの差異がある。どういうことだろうか。確かに、心中事件の場合、片方が先にこと切れてしまい、もう片方はなかなか死ねないという事はありえなくはない。溺死という方法であれば特にそうだ。


 しかし、星山典子の死亡時刻が19時前後と言うのはおかしい。ずいぶんと早すぎる。これは心中ではないかもしれない。おそらくは、事件だ。だとしたら――。


 もう少し調べる必要がありそうだ。龍二は不安げな顔を浮かべている2人の男の方へ振り返った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る