探偵は謎をととのえる

 竜太郎は龍二を先導するかのように、ずんずん水風呂へと歩いていく。痛んでいたはずの膝を気にするそぶりもない。心なしか、いつもよりしゃっきり背筋が伸びているようだ。


「さ、まずは汗を流そう」


 竜太郎は水風呂の水を桶に汲むと、ざんぶと頭から勢いよくかぶった。それも1度だけではなく何度も。その姿は、水垢離みずごりの荒行でもしているかのような神々しさまである。桶を置くと、ざぶざぶと水風呂に入っていき、肩まで浸かって目を閉じた。


 犯人の件はどうなったのだろうか。龍二はそっちの方が気になっていたが、とりあえず自分も水をかぶってみた。


「冷たッ!」


 水は思った以上に冷たかった。これを義父はあんな勢いでかぶっていたのか。信じられない。龍二は、そろりそろりと手足に水をかけてみた。火照った体には気持ちいいが、やはり冷たい物は冷たい。この温度の中に浸かるのは、ちょっと無理そうだ。


「義父さん、僕はちょっと遠慮しときます」


 そう竜太郎に声をかけたが、目を閉じたまま軽く頷いたのみだった。龍二は試しに水風呂に足先を入れてみたが、あまりの冷たさにすぐにひっこめた。これは厳しい。竜太郎はよくあんな気持ちよさそうに浸かっていられるものだ。大体、冷え性ではなかったのか。龍二は半ば感心し、半ば呆れて竜太郎を見た。竜太郎は、それを知ってか知らずか、ゆっくり目を開くと、バシャバシャと冷水を顔にかけた。


「よし、これくらいでいいだろう。龍二君」

「はい、いよいよ犯人を教えてくれるんですね」

「そうだね。だが――」


 竜太郎は水風呂からゆっくり上がると、露天内に置いてあるデッキチェアに深々と腰掛けた。


「ふう……やはり探偵が推理をするのは、安楽椅子の上と決まっているからね」

「はあ。そうですか。それで、犯人は誰なんですか」


 龍二が尋ねると、竜太郎はゆっくり目を閉じた。そして、しばらく何も言わずにそのままゆっくり呼吸をしている。あれ? これ普通に休憩してませんか。


「義父さん?」


 声をかけても返事をせずに、胸を上下させている。どういうつもりなのだろうか。もしや、眠りの小五郎方式だろうか。と、いうことは龍二がコナン君役となり、結局自分で推理しなくてはいけないのだろうか。そんな事を考えていると、突然、竜太郎がカッと目を見開いた。


「ととのいました」


 探偵は安楽椅子の上で高らかに宣言した。タオル一丁で。しかし、今、はだかのおじさんの脳内には、サウナと水風呂を経て休憩したことにより、多量の血液と酸素が一気に流れ込んでいた。そしてフル回転する準備がととのった探偵の灰色の脳細胞が、今度こそ淀みなく推理を披露する。


「氷だよ。龍二君」

「え、さっきのロウリュ後の奴ですか」

「いや、違う。事件の方だよ。サウナの世界でも氷は愛されているが、ミステリの世界でも同じように愛されている。トリックに氷は付き物だ。かの江戸川乱歩も、ミステリのトリックを収集・分類した作品である、“探偵小説の「謎」”の中で、氷に関するトピックのみを、他の物とは別に章を割いているほどだ。書かれたのは1956年。私が産まれるよりも早い。そんな時代から個別にまとめが成される程、愛されているのが氷なんだよ」


 竜太郎は、そこまで一息に言うと、ぞろりと顎髭を撫でた。


「氷自体が凶器となったり、自然に溶ける性質から時限トリックの装置となったり。さらには法医学系の知識が進んだ現在では、死亡推定時刻をずらすための冷却装置としての用途まである。言わば、トリック界のスーパースターが氷だ」


「はあ、それで、今回の事件との関係は」


「今回の事件のポイントは、誰が、どうやって毒物を被害者だけに飲ませたのかだ。お茶会の時に隙を見て毒物を入れたのだとすれば、それが可能だったのは被害者の両隣の人物の可能性が高い。だが、それは被害者の視線を考えると難しいだろう。ならば、毒物は別の時点で用意されたと考えるのが自然だ。時限装置付きのトリック。つまり、氷の出番だ。毒物は氷に仕込んであったんだよ」


 竜太郎は真相に近づいているようだ。龍二は嬉しくなったが、それを顔には出さずに問いかけた。


「でも、被害者のグラスには特に氷は残っていないようでしたよ。アイスティーと言っても、氷を入れない場合もあるのでは。それにお義父さん、氷に毒物を仕込んだとして、溶け出す前に飲まれてしまったら意味がありませんし、そもそも、アイスティーでなく紅茶の方を選んだらどうするんですか」


 龍二の問いを竜太郎は笑顔で受ける。


「皆が飲んだ紅茶は同じポットから注がれた。ホットの紅茶も、アイスティーも一緒のポットから。そうだったね」


「はい。現場には背の高いティーポットがひとつあるのみでした」


「ということは、ポットの中には熱い紅茶しか入っていなかった事になるね。アイスティーが入っていたとしたら、その場で急に温めることはできない。でも、逆は可能だ。アイスティーを作るには、グラスを氷で満たし、そこに熱い紅茶を注いでかき混ぜればいい。ロウリュ時のサウナ室の空気のようにね。そうすれば、グラス内の温度は均一化して冷える。じゃあ、その時、氷はどうなっている?」


「溶けている……でしょうね」


 龍二はサウナ室で顔に当てていた氷を思い浮かべた。あの氷も、直ぐに溶けてなくなってしまった。竜太郎は満足そうに頷いた。


「そうだね。特に紅茶は沸騰させた熱いお湯を使うのが最もおいしいとされている。ということは、100℃近い液体を注ぐわけだ。グラス内の氷なんて一気に溶けてしまう。つまり、毒が溶け出さないなんて事態にはならないんだよ。この手順でアイスティーを作るためにグラスに氷を入れるのを、怪しむ人はいないだろう」


「なるほど。じゃあ、普通の紅茶を選ばれた時はどうするつもりだったんですか」


「その時は隙を見てカップに氷を入れれば同じことだよ。アイスだろうが、ホットだろうが、どのみち紅茶を注ぐんだ。そうすれば氷は溶ける。だがね――」


 竜太郎はそこで一旦言葉を切った。


「だが、犯人は事件当日に毒物を飲ませなくても良いと思っていたのではないかな。被害者が紅茶を選んでいたのなら、毒物の入った氷のかけらは使わずに、そのまま製氷皿に入れて冷凍庫に戻しておけばいい」


 どうやらもう、竜太郎には犯人が解っているようだ。


「氷の特徴は時限性。毒物を中に入れた氷は、溶けた時にその効果を発揮する。犯人にとってそれは、『遠くない未来の出来事』でよかった。いつか被害者が誰かにアイスティーを作らせる。その日はいつでも良かったのだろうね。ただ、事件当日は、たまたま被害者に恨みを持つ人物たちが集まった。そこで、自分への嫌疑を薄めようとして、犯行を実行することにしたのだろう。ひょっとしたら、被害者を殺害するだけでなく、集まった一同に疑いの目を向けさせること自体も目的だったのかもしれないね。いろいろな隠し事を、明るみに出そうしたのではないかな」


「ええ、そのようでした。では、義父さん。犯人は――」


「ああ、犯人は屋敷の中で唯一家事全般を任され、自由に氷を用意し、使うことのできる人物――。つまり、D嬢だ」


 探偵の指摘に、龍二は拍手を送った。その通りだった。事件の犯人はD嬢だったのだ。竜太郎の言った通り、製氷皿の1ブロックにだけ、毒物をカプセルのように封じ込めた氷を用意していたのだ。


「だが、D嬢は、早まったのかもしれないね」

「と、いうと」

「恐らく、被害者は財産分与の件で、D嬢にもいくらかの取り分を用意していたのではないのかな。そうでなければ、いくらなんでも解雇が突然すぎるだろう」


 龍二は竜太郎の言葉に驚いた。


「実はそうなんです。そこそこのまとまった金額を、D嬢に渡すつもりだったようです。その事は、逮捕後にD嬢にも伝えたそうですが、彼女、笑っていたそうです」


「ほう、後悔はしていない、と」


「はい。『お金の問題じゃない』と。彼女は屋敷の連中に、『こうすべき』『ああすべき』と煩く言われて散々振り回され続け、相当ストレスが溜まっていたようですね。『私は私の事をこれ以上誰かに決められるのが我慢できなかった。私の人生は私が決めるんだ』と、そう言っていたそうです」


 自分の人生を自分で決める。それは当たり前の事なのだろう。当たり前だが難しい。ただ、どんな間柄であろうと、他人が一方的に決めていいものではないのも確かだ。誰であれ、人は誰かの所有物ではないのだ。


 彼女は彼女なりに、自分の人生を取り戻そうとしたのだろう。だが、その手段が犯罪というのは、間違っている。龍二はこの話を聞いたとき、そう強く思い、深く印象に残っていたのだ。


「ふむ、『私の人生は私が決める』か」

「はい」

「そういうものなのかもしれないね」

「はい。でも犯罪を犯す必要はありませんでした」


 龍二の言葉に、竜太郎は深く頷いた。


「その通りだね。……じゃあ、龍二君。私の人生も私が決めるとしようか」

「と、いいますと」

「探偵だよ。探偵、やってみるとするよ」


 竜太郎は、楽しそうにニヤリと笑った。その笑顔は、かつて事件が解決した時に見せていた、懐かしい顔だった。龍二はなんだか嬉しくなった。


「わかりました。乗り掛かった舟という奴です。僕も協力しますよ」

「ああ、頼りにしてるよ」


 探偵と刑事は、がっちりと握手した。お互いタオル一丁で。


「ところで義父さん、安楽椅子は書斎じゃなくて、になるんですか」

「そう……なるかな。書斎寒いしね」

「……ですよね。あの椅子どうします」

「どうするって、置いておくよ。推理には使えないが、いい椅子だろう」

「はい。羨ましいくらいです。ちなみに、お値段はどれくらいしたんですか」


 竜太郎は悪い顔になると、そっと龍二に耳打ちした。マジですか。その金額に、龍二は思わず声を上げそうになった。これは江美にはとても言えない。黙っておこう。目の前の探偵は、あっと言う間に共犯者にもなっていた。

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