探偵は聖地を前にする
「義父さん、着きましたよ。ここです」
「お疲れ様、龍二君。ここがあの……」
静岡県警捜査一課の刑事、
2人がやってきたのは、静岡市の
刑事と探偵が緊張した面持ちで訪れる場所といえば、事件現場――、と言いたいところだがそうではない。2人の目の前にどっしりと佇んでいる年季の入った白壁の建物は、老舗のサウナ施設だった。
「龍二君、ここに噂の水風呂があるんだね」
「ええ。日本一とも言われる水風呂が」
なんの事は無い。冷え性でサウナ好きの竜太郎が、非番の龍二を誘ってサウナにやってきただけなのであった。だが、2人が緊張するのも無理もない。目の前の施設は、全国のサウナ好きから愛され、一目置かれる、押しも押されぬ有名店。サウナ好きにとって聖地のひとつと崇められている施設なのだ。平日の午前中というのに、既に先客の車が何台か停まっているのは、既に巡礼者が訪れているのだろう。
「僕は市内に住んでいるのに、全然知りませんでしたよ」
「龍二君。私もだよ。40年近く県警に勤めていたのに、サウナなんてまるで気にも留めずに仕事ばかりしていたからねえ。いやあ、灯台下暗しという奴だね」
竜太郎は今でこそ、隠居した少し体の大きい冷え性お爺ちゃんだが、以前は県警捜査一課で
現在では、県警を定年退職し、富士山麓の富士宮市に隠居して、探偵業を営んでいる。かつて犯罪者だけでなく、署員たちまで震え上がらせた現役当時のやる気はどこへやら。趣味半分でのんびりと営業し、ご近所の皆様の依頼や、依頼の体をした茶飲み話に花を咲かせていた。――もっとも、たまに龍二の抱えている事件に頭を突っ込んでは、解決してしまう事もあったが。
竜太郎は恐る恐るといった様子で建物を見上げ、玄関前まで歩いて行ったものの、そこでぴたりと足を止めて龍二を振り返った。
「龍二君、お先にどうぞ。なんだか緊張してきたよ」
「ええ? ただのサウナじゃないですか」
「いいからいいから。ささ」
竜太郎は龍二の後ろに回って背中をぎゅうぎゅう押す。子供か。そう思ったが、実は龍二も少し緊張していた。妙に身構えてしまい、ぎくしゃくしながら扉に手をかけたその時だった。龍二のスマホがけたたましい着信音を立てた。
着信画面を確認すると、捜一の後輩である中山からだった。ひょっとしたら何か事件が起きたのかもしれない。龍二は眉間にしわを寄せて竜太郎に画面を見せると、渋い顔のまま電話に出た。
「こちら水田。何かあったか」
『あ、先輩! 大変です! 出頭してきたんですよ!』
中山の声は、妙に興奮をしている様子だった。
「出頭してきたって、誰が。事件なのか?」
『そっしーです! あの元アイドルで結婚して電撃引退した! いやあ、俺、ファンだったんですよね~』
その名前なら芸能界の事情には興味の無い龍二でも知っていた。
「そうなのか。で、何でまた出頭してきたんだ。事件か」
『夫を刺したとか言って出頭してきたんですよ』
「何!? じゃあ殺しなのか」
『いやあ、まだわからないんです。これから出頭してきた南署の方で事情聴取をするそうなので』
「は? じゃあ何でわざわざ俺にそんな報告をしてきたんだ?」
『ちょっと凄くないですかこのニュース』
龍二は大きくため息をついた。やれやれだ。
「はしゃぐな中山。じゃあ何か。お前は単に自慢したくて非番の俺に電話を? 応援が必要とかじゃ無いのか?」
『はい。応援はいいです』
「……切るぞ」
龍二は中山の返事を待たずに電話を切った。
「龍二君、何か事件なのかい。それなら残念だけど私だけで……」
「いえ、事件には事件らしいですが、応援は必要ないようです。えーっと、その、とりあえずの連絡のようなものでした」
「そうなのかい。なら、いざ日本一の水風呂へと……」
と、そこでまた龍二のスマホが鳴った。着信画面を見ると、また中山からだ。
「なんだ中山、まだ何かあるのか」
『先輩! 出頭してきたんですよ!』
「それはさっき聞いた。しつこいぞ」
『いえ、違くて、そっしーの夫を殺したという容疑者が』
「だからさっきと同じだろうが。切るぞ」
『違うんです。そっしーとは違う、別の人物が出頭してきたんです』
「何?」
『しかも、凶器だという血痕の付着した刃物を持参して』
「どういうことだ。同じ人物を殺したという容疑者が、2人名乗り出てきたという事なのか」
『はい。2人とも南署で身柄を確保しているそうです。先輩、どうしましょう』
「わかった。直ぐに向かう」
龍二が電話を切って竜太郎の方を見ると、竜太郎は無言で頷いた。
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