探偵は聖地を前にする

「義父さん、着きましたよ。ここです」

「お疲れ様、龍二君。ここがあの……」


 静岡県警捜査一課の刑事、水田龍二みずたりゅうじは、義父であり、県警OBであり、そして探偵でもあるやぐら竜太郎りょうたろうと共に車から降りた。竜太郎の顔は心なしか強張り、緊張している様子が窺える。龍二もごくりと唾をのみ、思わず身震いした。その理由は、3月のまだまだ肌寒い気温のせいだけではなかった。


 2人がやってきたのは、静岡市の敷地しきじ地区にある、とある施設だった。敷地地区は南北に長い静岡市の中でも、やや海岸側に位置する。市街の中心である静岡駅からは、車で15分ほどの距離となる。


 刑事と探偵が緊張した面持ちで訪れる場所といえば、事件現場――、と言いたいところだがそうではない。2人の目の前にどっしりと佇んでいる年季の入った白壁の建物は、老舗のサウナ施設だった。


「龍二君、ここに噂の水風呂があるんだね」

「ええ。日本一とも言われる水風呂が」


 なんの事は無い。冷え性でサウナ好きの竜太郎が、非番の龍二を誘ってサウナにやってきただけなのであった。だが、2人が緊張するのも無理もない。目の前の施設は、全国のサウナ好きから愛され、一目置かれる、押しも押されぬ有名店。サウナ好きにとってのひとつと崇められている施設なのだ。平日の午前中というのに、既に先客の車が何台か停まっているのは、既にが訪れているのだろう。


「僕は市内に住んでいるのに、全然知りませんでしたよ」

「龍二君。私もだよ。40年近く県警に勤めていたのに、サウナなんてまるで気にも留めずに仕事ばかりしていたからねえ。いやあ、灯台下暗しという奴だね」


 竜太郎は今でこそ、隠居した少し体の大きい冷え性お爺ちゃんだが、以前は県警捜査一課で辣腕らつわんを振るっていた刑事だ。その手腕から、「筋読みの櫓竜ロウリュウ」の通り名で呼ばれ、その名声は県内に轟いていた。


 現在では、県警を定年退職し、富士山麓の富士宮市に隠居して、探偵業を営んでいる。かつて犯罪者だけでなく、署員たちまで震え上がらせた現役当時のやる気はどこへやら。趣味半分でのんびりと営業し、ご近所の皆様の依頼や、依頼の体をした茶飲み話に花を咲かせていた。――もっとも、たまに龍二の抱えている事件に頭を突っ込んでは、解決してしまう事もあったが。


 竜太郎は恐る恐るといった様子で建物を見上げ、玄関前まで歩いて行ったものの、そこでぴたりと足を止めて龍二を振り返った。


「龍二君、お先にどうぞ。なんだか緊張してきたよ」

「ええ? ただのサウナじゃないですか」

「いいからいいから。ささ」


 竜太郎は龍二の後ろに回って背中をぎゅうぎゅう押す。子供か。そう思ったが、実は龍二も少し緊張していた。妙に身構えてしまい、ぎくしゃくしながら扉に手をかけたその時だった。龍二のスマホがけたたましい着信音を立てた。


 着信画面を確認すると、捜一の後輩である中山からだった。ひょっとしたら何か事件が起きたのかもしれない。龍二は眉間にしわを寄せて竜太郎に画面を見せると、渋い顔のまま電話に出た。


「こちら水田。何かあったか」

『あ、先輩! 大変です! 出頭してきたんですよ!』


 中山の声は、妙に興奮をしている様子だった。


「出頭してきたって、誰が。事件なのか?」

『そっしーです! あの元アイドルで結婚して電撃引退した! いやあ、俺、ファンだったんですよね~』


 その名前なら芸能界の事情には興味の無い龍二でも知っていた。十代田そしろだ小弓こゆみ。通称「そっしー」。5人組のアイドルユニットの一人としてデビューし、人気絶頂のタイミングで電撃的に結婚を発表して引退した。半ば伝説になっている元アイドルだった。


「そうなのか。で、何でまた出頭してきたんだ。事件か」

『夫を刺したとか言って出頭してきたんですよ』

「何!? じゃあ殺しなのか」

『いやあ、まだわからないんです。これから出頭してきた南署の方で事情聴取をするそうなので』

「は? じゃあ何でわざわざ俺にそんな報告をしてきたんだ?」

『ちょっと凄くないですかこのニュース』


 龍二は大きくため息をついた。やれやれだ。


「はしゃぐな中山。じゃあ何か。お前は単に自慢したくて非番の俺に電話を? 応援が必要とかじゃ無いのか?」

『はい。応援はいいです』

「……切るぞ」


 龍二は中山の返事を待たずに電話を切った。


「龍二君、何か事件なのかい。それなら残念だけど私だけで……」

「いえ、事件には事件らしいですが、応援は必要ないようです。えーっと、その、とりあえずの連絡のようなものでした」

「そうなのかい。なら、いざ日本一の水風呂へと……」


 と、そこでまた龍二のスマホが鳴った。着信画面を見ると、また中山からだ。


「なんだ中山、まだ何かあるのか」

『先輩! 出頭してきたんですよ!』

「それはさっき聞いた。しつこいぞ」

『いえ、違くて、そっしーの夫を殺したという容疑者が』

「だからさっきと同じだろうが。切るぞ」

『違うんです。そっしーとは違う、別の人物が出頭してきたんです』

「何?」

『しかも、凶器だという血痕の付着した刃物を持参して』

「どういうことだ。同じ人物を殺したという容疑者が、2人名乗り出てきたという事なのか」

『はい。2人とも南署で身柄を確保しているそうです。先輩、どうしましょう』

「わかった。直ぐに向かう」


 龍二が電話を切って竜太郎の方を見ると、竜太郎は無言で頷いた。

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