探偵はサウナで謎をととのえる
「1週間ほど前の事でした。あの2人が、私がいないと思ってバルコニーでコソコソと話をしていたんです」
小弓は多少は落ち着いたようで、椅子に座りなおすと、ぽつぽつと語り出した。
「これ以上希美に何かあったら、引き離すしかないとか。シッターを間に入れて見張らせようだとか。しまいには、離婚して希美は引き取った方が希美と私のためかもしれないとか。冗談じゃないです」
語気を強め、両手をぐっと握りしめる。その姿に自分で気付いたのか、軽く頭を下げた。
「吉良とは、『好きな事をしていいから結婚しよう』と言われたから、結婚しました。やっとアイドルじゃない私になれる。いろんなことを我慢しなくちゃいけない『そっしー』じゃなく、自由な十代田小弓、いえ、吉良小弓になれる。そう思ったのに……、結局彼が期待するのは、『そっしー』でした」
竜太郎と龍二は黙って話を聞いていた。確か、小弓が結婚・引退したのは3年ほど前。彼女が20歳になったばかりの頃だったはずだ。各種メディアで盛んに取り上げられていたのが、まだ記憶に新しい。
「それでも、希美を授かって、ママになって。これで私も周りも変わるんだ、って。自由になるんだって。でも、何も変わらない。相変わらず、周りは腫れもの扱いでニコニコしているだけ。生活している実感が、どんどんなくなっていくんです。そのうち、新浜先生も加わって、ごっこ遊びのような日々が続くばかりで……。それで、私、ある時キレて、手を上げてしまったんです。自分でも信じられませんでした。なんてことをしたんだろうと。全身からサッと血の気が引きました。でも――、それでもあいつは、『いいんだ。わかっているから』とか言って作り笑いをしてるんです。目の奥は怖がっているくせに、探るみたいに。そこで、私の中の何かが壊れました」
小弓は顔をわずかに歪めて小さく笑った。
「私は思いました。ああ、この人は駄目だ、って。ただ優しいだけの私のファンだ。所詮は他人なんだって。ならいい。適当に『復帰するのもいいかもね』なんて言ってあしらっておけばいいんだって。それでもまだ、私には希美がいる。血の繋がった希美さえいればいい。2人でのびのび暮らそう、そう思ったんです。
なのに……なのに希美も煩いくらいに私にママを求めて束縛してきたりして。怒ったら怒ったで、吉良と同じあの目で様子を伺いながらも、決してそれを止めないんです。ああ、希美もか、って思いました。どうしてわかってくれないんだろう、私はこんなに苦しんでいるのに。どうして皆私に役割を押し付けてくるんだろう、誰も私の事なんてわかってくれないんだ。そう思うとなんだかもう、歯止めが利かなくて、……つい手が。すみませんでした」
小弓は深々と頭を下げてから顔を上げた。
「でも、それでも私には希美が必要なんです。吉良が別れる気ならそれは構いません。でも、希美だけは駄目です。希美は誰にも渡さない。私の子供。私の物です。手が出てしまったのだって。愛情からです。そうです、ママの事をわかって欲しいだけなんです。……躾、そう躾なんです! 叩いている私だって、辛かったんです。離れるなんて考えられない!」
肩を震わせて小弓は訴える。
「だから、バルコニーでの2人の話を聞いて以来、私はずっと、機会を
そこで大きく息を吐くと、話を続けた。小弓の声は、感情を抑えた調子を取り戻している。
「ドアから追い出されたのは計算外でした。深い傷を負わせた手ごたえはあったので、しばらく公園で様子を見ようと。救急車が駆け付け、ああ、失敗したかと思ったのですが、とにかくは自首をして正当防衛を主張しておこう、と。これが私の知っている事すべてです。新浜先生が包丁を持っていたのは、なぜだかわかりません」
龍二は竜太郎の方を伺った。新浜には既に推理をぶつけ、詳しい事情は聞いている。それを説明しようかと伺ったのだが、竜太郎に目顔で制された。
「彼は、いや、彼らは、刺されてなお、貴女に罪を着せないための工作を行ったのです。吉良さんは貴女を家から閉め出すとすぐに、事情を知る新浜さんに連絡しました。あなたの指紋の付いた凶器を始末して欲しいとね」
新浜が凶器を所持していた理由。それは、新浜が加害者という理由ではなく、被害者から受け取ったからだ。つまり、吉良と新浜は、小弓を庇うという一点において、協力関係にあったのだ。
「吉良さんは凶器をタオルでくるみ、バルコニーから落としました。まるで水風呂へと注ぐ天然水のように。連絡を受けてかけつけた新浜さんがそれを拾い、あなたの指紋を消し去った。当初の目論見では、『突然暴漢に襲われた』という筋書きで誤魔化すつもりだったそうですよ。だが、果たせず吉良さんはそのまま息を引き取ってしまいました」
事件現場のキッチンで、バルコニーまで続いていた血痕。あれは傷を負ったまま凶器をなんとかしようとした吉良の痕跡だったのだろう。龍二は冥福を祈るかのように軽く目を閉じた。
「そして、凶器を診療所に隠した新浜さんは、心配になって様子を見に来た。そこで、貴女がフラフラと南署の方へ向かうのを見つけたそうです。慌てて行ってみたものの、既にあなたは署内に通され、ロビーでは皆がなにやら、『自首らしい』『誰かを刺したらしい』と、ザワザワしている。驚いた新浜さんは、凶器にあらためて自分の指紋を付け、自分が犯人だと名乗り出たのです。貴女が正当防衛を主張する事を目論んでいたとは知らず、自分が罪を被るためにね」
それまで黙って聞いていた小弓が、声を上げて笑った。
「何それ。本当いつも的外れでおせっかい。私のため私のためとかいいながら、結局余計な事ばかりする。黙って死ねば良かったのに。ねえ、探偵さん、私ってかわいそうだと思いませんか。最愛の夫も、ファンも、誰も私の事、わかってくれていないんです。どうしてわかってくれないんでしょう。教えてくれせんか?」
小弓は挑むかのような眼差しのまま、それでも、口元に微笑を浮かべて竜太郎を真っすぐ見ている。
「そうですね。……小弓さん、正直を言うと、私はあまりいい夫でもなければ、親でもありません。あなたより勝っているところがあるとすれば、40年近く長く生きていることくらいです。
それだけ長く生きての経験から言わせてもらうとね、私の事を全てわかっているなんて人は、1人もいないんじゃないでしょうかね。私は随分と周りの人に恵まれている方だとは思いますが、それでも、です。
人の心というのは本当に難しい。おそらく、人間っていうのは、そういう風にできているんですよ。きっと誰かが、100%自分の事を理解してくれているはずだというのはですね、幻想です。分かってくれない、のではありません。どんなに近しい人でも、分からないのが当たり前なんです。世知辛いですね」
竜太郎はにこりと微笑んで、しかし、決然と言い切る。
「だからといって、命を奪ったり、理不尽な暴力をふるっていいわけじゃありません。夫にせよ、ファンにせよ、そして、もちろん子供にせよ。
小弓さん、家族や、そして子供であっても、それは決してあなたの物などではありません。『ひとりの人』なのです。ただのファン、自分の子供、貴女が思っている役割と違う。だから切り捨ててもいいし、叩いてもいい。それでは駄目です。ひとりの人として付き合い、分かりあえなくとも、分かり合おうと尊重する、そして、ゆっくりと関係を築いていく。それしかないんじゃないでしょうかね。なかなかに大変な事ですが。
小弓さん、希美ちゃんを大切に思うのであれば、きちんと罪を償い、そして体調と心を整えてください。その上で、『あなたの物』などではなく、ひとりの人として向き合ってください。さもなければ、同じことを繰り返してしまうだけですよ」
小弓はがっくりと項垂れると肩を小刻みに震わせた。
##
待機させておいた中山が、ギクシャクしながら小弓を連行していく。その後ろ姿を見送りながら、龍二は竜太郎に尋ねてみた。
「義父さん、さっきの話なんですが」
「うん」
「人と人は分かり合えないってのは、本当にそう思っているんですか」
「ああ。本当に思ってるよ。難しいものだよ」
「義父さんみたいなベテランでもですか」
「ふふ、そうだね。60年生きてきたけど、まだまだ分からないことだらけだよ。がっかりさせてしまったかい?」
「いえ、むしろ――」
龍二はいったんそこで言葉を切った。目の前の義父は、のんびりと椅子に巨躯を収めている。ひょっとして竜太郎は、龍二が何を考えているのか知っているのではないか。そんな思いがふとよぎる。いや、それも幻想なのだろう。龍二がニヤリと笑うと竜太郎もつられるようにヌフフフと笑った。
「――むしろ安心しました。それなら僕がいろいろな事がわからなくても、まあ、仕方ないかなって」
「おいおい、私のせいにしていろいろと有耶無耶にする気じゃあないだろうね」
「どうでしょう。ああ、でも、江美の事に関しては情報を共有していきますのでよろしくお願いします」
「うむ。そこは念入りに協力しよう。頼むよ、龍二君」
「はい」
刑事と探偵は、がっちりと握手した。龍二は改めて思う。日々の事件にしろ、生活にしろ、とかく人生はわからないことだらけだ。わからなくて、モヤモヤして、身動きがとりづらくなる事には事欠かない。それでもなんとかして、やっていくしかない。時に立ち止まり、時に休み、そして時に後戻りしながら。
「本当に大変だ」
思わず口に出してしまったが、竜太郎はちらりと龍二を見るだけで、何も尋ねては来ない。
「龍二君、いろいろと大変な時にお勧めの施設がひとつあるんだけどね」
「なんですかそれは」
「サウナと言うんだがね」
「そんなものが。そういえば、水風呂と言うのも良いらしいですよ」
「うむ。では、行こうか」
「お供します」
かくして今日も義父と義理の息子は、いそいそとサウナ室へと向かうのだった。お揃いのタオルいっちょを肩にかけて。
―とりあえずは、了―
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