探偵は特別ご優待券を引き当てる
「龍二君、本当に体が浮くよ! 手を離すと流されてしまいそうだ」
「そんなに凄いんですか。塩の湯」
「ああ。本物の死海もこんな風なのだろうね。おほっ、バランスが!」
無事に年も明けた1月の初頭。義父は、4歳になる孫の
正直、某フライドチキンチェーン店の立像にも似たデカい爺ちゃんが、尻を丸出しにしてはしゃいでいるのはどうかと思う。が、しかし、普段、寒くて膝が痛いとばかりこぼしているのに比べれば、楽しそうで何よりだ。
随分頼りないお爺ちゃんに思えるが、実はこの竜太郎、県内では名を知られた探偵でもあるのだ。
県警捜査一課の刑事である
富士山麓の富士宮市にあるこのホテルの最大の売りは、温泉だ。日帰り温泉としても営業する程力を入れているだけあって、広々とした浴場は天井も高く、湯に浸かっているだけで開放感がある。白湯にはバイブラや打たせ湯のスペースが設けられ、その他にも、炭酸泉や水風呂、そして、竜太郎がはしゃいでいた塩の湯もあった。
さらに露天スペースには、草津の湯や、漢方の各種生薬を漬け込んだくすり湯、ジェットバスなども用意されている。大きな建物の多い幹線道路沿いの施設のため、露天から富士山が見えないのは残念なところだが、それを差し引いても十分おつりがくるほどの充実ぶりだ。
そんな充実した施設で2人が落ち着いた先は、しかし、サウナだった。サウナだけでもドライサウナと「釜風呂」と名の付いた湿式のサウナがあるが、龍二たちは、40人ほどは入れる大きなドライサウナのひな壇に、仲良く座って蒸されていた。
「義父さん、水風呂を見ましたか。かなり大きくて良く冷えてそうでしたよ」
「ああ。木桶の水風呂とは珍しいね。楽しみだ。それにしても龍二君、あんなに水風呂を敬遠していたのに、まるで別人のようじゃないか」
「いやあ、慣れたら本当に気持ちよくて。今じゃ水風呂無しは考えられないです」
竜太郎はうんうんと嬉しそうに頷いている。
「温めて、冷やす。いわゆる
「はい。でも義父さん、健康云々より、単純に水風呂が気持ちいいんです。特に、長く浸かった時に、体の周りがほんのり暖かい膜につつまれるようなあの感覚……」
「ははは。すっかり水風呂にハマっているようだね」
龍二は照れ笑いをして頭をかいた。元々龍二は、サウナには来ても、水風呂は敬遠していた。しかし、竜太郎に水風呂を勧められて――というか、半ば騙されて入ったところ、すっかりハマったのだった。竜太郎の言うような身体をととのえる効果もあるのだろうが、精神的にも何かリフレッシュできる所も気に入っていた。
日々の事件や複雑な悩み事は一旦置いておき、熱いだの冷たいだのしか考えずに汗をかき、蒸され、そして冷える。そんなシンプルな時間を過ごすことで、頭をいったんリセットする。サウナには、そういった効果もあるのかもしれない。
「よし、それじゃあお待ちかねの水風呂に行こうか」
「はい」
2人が水風呂に向かうと、既に1人の先客が入っていた。施設や時間によっては、水風呂待ちの列ができることもあるが、ここは広々とした水風呂のため、そんな心配も無用だ。だが、先客は気を使ったのか、軽く会釈をして水風呂から上がろうとした。すっと立ち上がり……立ち上がろうとして、そのままフラフラと倒れこむように水風呂内に手を付いた。龍二と竜太郎は慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか」
「ああ、すみません。立ち眩みがして……」
「貧血をおこしたのでしょう。そこのベンチで少し横になりましょうか。龍二君、そっちを支えて」
2人は水風呂から抱きかかえるようにして男を出すと、洗い場に置いてあるベンチの上へと寝かせた。
##
しばらく桶で足の位置を高くして休ませていると、落ち着いてきたのか、男は体を起こして、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました。だいぶ楽になりました」
「いえいえ、大した事がないようで良かった。この分では大丈夫ですね」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「なに、風呂場ではたまにある事ですよ。お気にせずに」
男は20代半ばほどだろうか。美形と言って差し支えない容貌ではあるが、まだ少し顔色が悪いようだ。もうしばらく休んでいくとの事だったので、龍二と竜太郎はその場を離れ、着替えを済ませて部屋へと戻った。
「しまった。義父さん、水風呂に入るの忘れてましたね」
「そういえばそうだね。まあ、人助けをしたと思えばいいじゃないか。どうせ一泊するんだ。また夜にでも入りに行けばいいさ」
「それもそうですね。茉祐が寝たらまた来るとしますか」
「そうしよう。さ、それより食事だ。今日は車じゃないからビールも飲めるぞ」
サウナ後は、体の中の水分が不足しているためか、1杯目の飲み物が異常においしく感じる。フルーツ牛乳もいいが、やはりビールか炭酸水が最高だ。ビールが水分補給になるのかどうかは微妙なところだが、最初の一杯としては、最高においしい選択肢だろう。ああ、早く飲みたい。あのシュワッとしたのど越しを味わいたい。龍二の喉ははやくもゴクリと音を立てていた。
江美と茉祐とも合流し、浴衣のような、甚平のような館内着を着て2階のお食事処へと向かう。海の幸に山の幸、よりどりみどりのメニューが揃っていたが、まず注文するのは生ビールだ。もちろん茉祐に飲ますわけにはいかないので、オレンジジュースも注文した。江美がパラパラとメニューを捲り、上機嫌で尋ねてくる。
「食べ物はどうする? 私はお刺身の盛り合わせにしようかな。茉祐もつまめるし。お父さんたちは?」
「私も魚がいいかな。そうだ龍二君、ここ富士宮市は
「いいじゃないですか義父さん。じゃあ僕もそれにします」
さっそく茉祐の分のお子様プレートと併せて注文した。サウナの後は五感が冴えているためか、ご飯も非常においしい。ましてや今日はビールまで飲める。普段は運転をする龍二としては、めったにないチャンスだ。サウナ後にビール&サウナ飯。最高じゃないか。これなら水風呂に入れなかった分のマイナスも帳消しだ。
――そう考えていたその時、龍二のスマホが鳴った。おそるおそる表示を見ると、そこには県警の後輩である「中山」の文字が。心配そうに江美が尋ねる。
「パパ、まさか」
「ああ、事件らしい。あああ、俺のビールにお魚が……ええい! もしもし。富士宮で事件だと? なに?魚? わかった。すぐに向かう」
中山からの連絡を切る頃には、目の前のテーブルにはビールと刺身が運ばれていた。龍二は恨めしそうにそれらを見つめる。
「龍二君、行くのかね」
「はい。丁度この近所で事件が起きたそうで、向かってくれとのことです」
江美の方をちらりと見ると、心得たもので茉祐を抱き上げて耳を抑えた。
「被害者が死亡しているのが発見されました。恐らく、殺しです」
「そうかね。魚がどうとか言っていたようだが……」
「はい。被害者なんですが、冷やされていたそうなんです。――魚と一緒に」
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