探偵は特別ご優待券を引き当てる

 龍二りゅうじの目の前では、義父の竜太郎りょうたろうがうつ伏せになって湯舟に浮かんでいた。浴槽のへりにあるパイプを掴んだままプカプカと、楽しそうにはしゃいでいる。


「龍二君、本当に体が浮くよ! 手を離すと流されてしまいそうだ」

「そんなに凄いんですか。塩の湯」

「ああ。本物の死海もこんな風なのだろうね。おほっ、バランスが!」


 無事に年も明けた1月の初頭。義父は、4歳になる孫の茉祐まゆばりに楽しげだった。大きく違うのは、竜太郎は60歳、身長は190cm近く。さらに体重は100kgを越そうかという巨漢だという点だ。


 正直、某フライドチキンチェーン店の立像にも似たデカい爺ちゃんが、尻を丸出しにしてはしゃいでいるのはどうかと思う。が、しかし、普段、寒くて膝が痛いとばかりこぼしているのに比べれば、楽しそうで何よりだ。


 随分頼りないお爺ちゃんに思えるが、実はこの竜太郎、県内では名を知られた探偵でもあるのだ。


 県警捜査一課の刑事である水田みずた龍二は、そんな竜太郎に誘われて、妻の江美えみと娘の茉祐と共に、とある大きな温泉付きのホテルへと来ていた。義理の親子とはいえ、探偵の下に刑事が来るとは、何か事件でも起きたかといえば、そうではない。竜太郎が年始の商店街の福引大会で、1泊お食事つきの特別優待券を引き当てたので、一家揃って遊びに来たのだ。


 富士山麓の富士宮市にあるこのホテルの最大の売りは、温泉だ。日帰り温泉としても営業する程力を入れているだけあって、広々とした浴場は天井も高く、湯に浸かっているだけで開放感がある。白湯にはバイブラや打たせ湯のスペースが設けられ、その他にも、炭酸泉や水風呂、そして、竜太郎がはしゃいでいた塩の湯もあった。


 さらに露天スペースには、草津の湯や、漢方の各種生薬を漬け込んだくすり湯、ジェットバスなども用意されている。大きな建物の多い幹線道路沿いの施設のため、露天から富士山が見えないのは残念なところだが、それを差し引いても十分おつりがくるほどの充実ぶりだ。


 そんな充実した施設で2人が落ち着いた先は、しかし、サウナだった。サウナだけでもドライサウナと「釜風呂」と名の付いた湿式のサウナがあるが、龍二たちは、40人ほどは入れる大きなドライサウナのひな壇に、仲良く座って蒸されていた。


「義父さん、水風呂を見ましたか。かなり大きくて良く冷えてそうでしたよ」

「ああ。木桶の水風呂とは珍しいね。楽しみだ。それにしても龍二君、あんなに水風呂を敬遠していたのに、まるで別人のようじゃないか」

「いやあ、慣れたら本当に気持ちよくて。今じゃ水風呂無しは考えられないです」


 竜太郎はうんうんと嬉しそうに頷いている。


「温めて、冷やす。いわゆる温冷交代浴おんれいこうたいよくや、交互浴こうごよくと呼ばれる入浴方法だね。血行や血圧、それに自律神経がととのって、体に良いんだよ」

「はい。でも義父さん、健康云々より、単純に水風呂が気持ちいいんです。特に、長く浸かった時に、体の周りがほんのり暖かい膜につつまれるようなあの感覚……」

「ははは。すっかり水風呂にハマっているようだね」


 龍二は照れ笑いをして頭をかいた。元々龍二は、サウナには来ても、水風呂は敬遠していた。しかし、竜太郎に水風呂を勧められて――というか、半ば騙されて入ったところ、すっかりハマったのだった。竜太郎の言うような身体をととのえる効果もあるのだろうが、精神的にも何かリフレッシュできる所も気に入っていた。


 日々の事件や複雑な悩み事は一旦置いておき、熱いだの冷たいだのしか考えずに汗をかき、蒸され、そして冷える。そんなシンプルな時間を過ごすことで、頭をいったんリセットする。サウナには、そういった効果もあるのかもしれない。


「よし、それじゃあお待ちかねの水風呂に行こうか」

「はい」


 2人が水風呂に向かうと、既に1人の先客が入っていた。施設や時間によっては、水風呂待ちの列ができることもあるが、ここは広々とした水風呂のため、そんな心配も無用だ。だが、先客は気を使ったのか、軽く会釈をして水風呂から上がろうとした。すっと立ち上がり……立ち上がろうとして、そのままフラフラと倒れこむように水風呂内に手を付いた。龍二と竜太郎は慌てて駆け寄る。


「大丈夫ですか」

「ああ、すみません。立ち眩みがして……」

「貧血をおこしたのでしょう。そこのベンチで少し横になりましょうか。龍二君、そっちを支えて」


 2人は水風呂から抱きかかえるようにして男を出すと、洗い場に置いてあるベンチの上へと寝かせた。


##


 しばらく桶で足の位置を高くして休ませていると、落ち着いてきたのか、男は体を起こして、ぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございました。だいぶ楽になりました」

「いえいえ、大した事がないようで良かった。この分では大丈夫ですね」

「はい。ご迷惑をおかけしました」

「なに、風呂場ではたまにある事ですよ。お気にせずに」


 男は20代半ばほどだろうか。美形と言って差し支えない容貌ではあるが、まだ少し顔色が悪いようだ。もうしばらく休んでいくとの事だったので、龍二と竜太郎はその場を離れ、着替えを済ませて部屋へと戻った。


「しまった。義父さん、水風呂に入るの忘れてましたね」

「そういえばそうだね。まあ、人助けをしたと思えばいいじゃないか。どうせ一泊するんだ。また夜にでも入りに行けばいいさ」

「それもそうですね。茉祐が寝たらまた来るとしますか」

「そうしよう。さ、それより食事だ。今日は車じゃないからビールも飲めるぞ」


 サウナ後は、体の中の水分が不足しているためか、1杯目の飲み物が異常においしく感じる。フルーツ牛乳もいいが、やはりビールか炭酸水が最高だ。ビールが水分補給になるのかどうかは微妙なところだが、最初の一杯としては、最高においしい選択肢だろう。ああ、早く飲みたい。あのシュワッとしたのど越しを味わいたい。龍二の喉ははやくもゴクリと音を立てていた。


 江美と茉祐とも合流し、浴衣のような、甚平のような館内着を着て2階のお食事処へと向かう。海の幸に山の幸、よりどりみどりのメニューが揃っていたが、まず注文するのは生ビールだ。もちろん茉祐に飲ますわけにはいかないので、オレンジジュースも注文した。江美がパラパラとメニューを捲り、上機嫌で尋ねてくる。


「食べ物はどうする? 私はお刺身の盛り合わせにしようかな。茉祐もつまめるし。お父さんたちは?」

「私も魚がいいかな。そうだ龍二君、ここ富士宮市はますの養殖が全国一なんだよ。ここはご当地グルメということで、鱒の海鮮丼なんてどうかな。サーモンみたいにプリプリで美味しいぞ」

「いいじゃないですか義父さん。じゃあ僕もそれにします」


 さっそく茉祐の分のお子様プレートと併せて注文した。サウナの後は五感が冴えているためか、ご飯も非常においしい。ましてや今日はビールまで飲める。普段は運転をする龍二としては、めったにないチャンスだ。サウナ後にビール&サウナ飯。最高じゃないか。これなら水風呂に入れなかった分のマイナスも帳消しだ。


――そう考えていたその時、龍二のスマホが鳴った。おそるおそる表示を見ると、そこには県警の後輩である「中山」の文字が。心配そうに江美が尋ねる。


「パパ、まさか」

「ああ、事件らしい。あああ、俺のビールにお魚が……ええい! もしもし。富士宮で事件だと? なに?魚? わかった。すぐに向かう」


 中山からの連絡を切る頃には、目の前のテーブルにはビールと刺身が運ばれていた。龍二は恨めしそうにそれらを見つめる。


「龍二君、行くのかね」

「はい。丁度この近所で事件が起きたそうで、向かってくれとのことです」


 江美の方をちらりと見ると、心得たもので茉祐を抱き上げて耳を抑えた。


「被害者が死亡しているのが発見されました。恐らく、殺しです」

「そうかね。魚がどうとか言っていたようだが……」

「はい。被害者なんですが、冷やされていたそうなんです。――魚と一緒に」

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