来ないのは朝と待ち人 Ⅰ

「んー……」


 目が覚める。少し肌寒い風が開け放していた掃き出し窓からふわりと舞い込んで、布団からはみ出た私の足首を冷やしている。だけど我慢できない程じゃない。シーツの感触を手足と頬で感じてみると、この寒さと布団の暖かさのコントラストが素晴らしい気さえしてくる。

 そうして私は、いつもの布団の上で寝ていることを自覚する。寝ぼけた声を出しているけど、頭は覚醒していた。


「……起きなきゃ」


 今日はすっきりと目覚められた方だと思う。時計を見ずとも、微風にはためくカーテン越しの日差しと鳥達の鳴き声で、すぐに早朝だと判別が付いたのだから。


 伸びをして意識を覚醒させると、二度寝をしてしまう前に布団から出る。

 最近、やけに眠かったり、反対に全然眠れなかったりする。睡眠に対する身体の反応はその日によってまちまちだ。これは坑道から僅かに漏れ出ているというガスの影響らしい。誰かが言い始めて、みんなが噂して、次第にそれはここでの常識となり、当たり前のこと過ぎてもう誰も言わなくなった。

 ガスが体に及ぼす影響は様々で、さらに人によって傾向も違う。睡眠という項目一つ取っても、ずっと寝不足だったり、一日のほとんどを寝て過ごすことになる人もいる。つまり、一日というサイクルを狂わずに普通に迎えられる私は、あの妙なガスの影響がまだ少ない方なんだと思う。

 ちなみに、あまり深く考えずに「今日はこういう体調の日だ」と楽観的に割り切るのが、ここで楽しく暮らしていくコツだったりする。


 朝に弱かった筈の私がこんな風に毎日早起きしているのは、そして二度寝せずに活動を開始しているのは、この生活の中で自分にできそうな努力がそれくらいしかないから。お母さんはいつも「いつまでも寝てないで起きな」なんて言って起こしてくれてたけど、もう居ない。

 午前中には起きているんだから、とやかく言われる筋合いはないだなんて、随分と低いハードルを設けて自分を甘やかしてきたけれど、今になって母の言葉が身に沁みている。あの頃の私は世界で一番の幸せ者だったんじゃないか、とすら思う。


 黄色いカーテンを開けて日差しを部屋の中に迎え入れると、本格的に活動を開始する。といっても、団地の外に出ることも叶わず、連絡を取ることもできない私達にできることは、この箱庭の中でできるだけ楽しく過ごすことだけなんだけど。


 寝間着に使っている配給の短パンは存外着心地が良い。肌触りが良く、ゴムの締め具合が絶妙だった。自分に合うサイズを見かけたときには、忘れずに予備をもらっておこうと思っている。と言っても、私は平均的な体格だから、女性物であれば大体着れるんだけど。


 短パンを脱いで、繋ぎの作業着を着る。当然、こんなのは私の普段着じゃなかった。これを着るようになったのは、あの騒動から数ヶ月が経った頃。皆が自分達の置かれた状況を認識して、力を合わせて行こうと誓ってから少し後のこと。

 ジーンズなど、比較的動きやすい格好をしている日は声をかけられやすいと気が付いてからだった。着飾っている子は作業に誘いにくいのかもしれないと、思い切って配給の繋ぎを手に取ったのだ。こんな非常事態なのに、遠慮されるのはなんだか寂しいから。

 今じゃ、スカートを履いて外に出ると逆に驚かれるかもしれないってくらい、つなぎ姿が馴染んでいる。ちなみに今日のは紺。私の体に合うそれはなかなか配給されないけど、多少大きい分には適当に余った袖を折ればいいだけだ。作業着のコレクションも増えてきた。


 朝風呂にでも入ろうかと思ったけど、今日は配給物資捜索の当番だ。配給物資は真夜中から明け方にかけて、毎日ヘリで投下されている。それを探し出すのが、今日の私に割り振られた仕事。

 洗面台の鏡の前に立って歯を磨く。私は私を睨みつけながら歯ブラシを動かす。そろそろへたってきたから、これも予備をもらっておいた方がいいかもしれない。そんなことを考えながら泡を吐き出す。

 蛇口から出る冷たい水で顔を濡らすと、少しぼんやりしていた意識が完全に覚醒した。タオルで拭いて、再び鏡の中の自分と目を合わせる。ショートカットの黒髪に、猫のようなつり目。そこにいるのは私が知る私だ。あとちょっと寝癖が気になるから直そう。

 寝癖を落ち着かせて、人前に出られる姿だと自分にゴーサインを出すと、前髪の毛先を一つまみして、上手いものだと関心する。ここでは散髪も住人同士で済ませるしかない。一度、畑中のおばちゃんにやってもらったけど、あの時は酷い散切り頭になった。それを見かねた栗山さんが、ずっと私の髪を切ってくれている。栗山さんっていうのは、まぁいいや。


 あまり時間が無い。私は支度を手早く済ませると、玄関で行ってきますと言って誰も居ない室内に振り返り、静かにドアを閉めた。私の声が虚しく木霊するのは、もう慣れた。

 階段を下りて棟の出入口、今日の集合場所まで歩いていく。途中すれ違った住民と挨拶を交わして、たまに”今日もオシャレでしょ!”なんて嫌味っぽい冗談に、使い古したエプロン姿を見てから、”おばさんもね!”なんて冗談を重ねる。

 彼女は炊き出しの係なんだろう。広間に並んでいた材料から察するに、今日はカレーライスだ。早く仕事を終わらせて朝食を摂りたいな。


 到着してみると、半分くらいの人が既にそこにはいた。眠そうにしている人や、妙にはつらつとしている人。色んな人がいる中で、私は至って普通だった。


「千歳ちゃん、俺のせがれの作業着いるかい?」

「息子さんおっきいんでしょ?」

「おっきいって言ったって大したことないない、千歳ちゃんだったっけ全然着れるわ」

「着れてもちゃんと動けなかったっけ意味ないしょー」


 私に話しかけてきたのは山下のおじさん。立派な髭を蓄えた大きな口を開けて笑っている。ちょっと怖いけど、凄く優しい人だ。大きくて恰幅のいい、山男みたいな人。山男じゃなくて、本当は炭山やまの男なんだけど。

 二の腕なんか私の太ももくらいありそうだ。息子さんは確か二十歳くらいで、おじさんと二馬力で家を支えていた。彼はもうこの世には居ない。おじさんも本気で私に彼のお下がりを着せようとは思っていないだろう。

 多分、寂しいんだ。なんでもいいから、少しでいいから話題に触れていたいんだと思う。真相は分からないけど。そう思うと、ちくりと胸が痛んだ。


 雑談に興じていた私達のところまで、呻き声が聞こえてくる。ゾンビみたいな。あーとかうーとか、私達には理解できない言葉しか発せなくなった男性が、壁に背をついて、辛うじて生きていた。

 この人は最近ずっとこんな調子だ。二週間前の物資捜索当番の頃からこうだった。全身が脱力しているにも関わらず、絶対に酒瓶だけは離そうとしないのだ。


「やいや、また代田しろたさんかい。全く、朝っぱらから……よっと」


 山下さんは彼をひょいと担ぐと、中に入れてくると言って階段の方へと消えていった。お姫様だっこの要領で横に抱かれて、首をぐでんぐでんに回しているくせに、やっぱりその手にはしっかりと酒瓶が握られている。


「……あの人、もう駄目かね」

「さぁ、私には何も……家族とかは?」

「単身者だって聞いたことがあるけど、元々大人しい人だったからねぇ……誰も分かんないのさ。そもそも単身者なら一号棟の方に回されるだろうし……」


 和装の上に割烹着を身につけたおばさんは気の毒そうに目を伏せた。身元がよく分からない人がどこかで行き倒れていたり、ひどい時なんて息を引き取っていたりする。こういった事はここでは日常茶飯事だ。


 働き盛りの多くの男性が事故で亡くなった。積極的に交友関係を築いてこなかった人の中には、仕事仲間しか知り合いがいないことも多い。

 代田と呼ばれたあの男性のことを知る者は、もう誰一人生き残っていないらしい。前にテレビか何かで見たことがある。人は忘れられた時に死ぬのだ、と。

 知人が死に、酒浸りになってまともに喋れなくなり、腫れ物扱いするような視線を送られている彼は、果たして生きていると言えるのだろうか。私には分からない。

 だけど、あんな風になる前に死んでしまいたいと思う。


 山下のおじさんが戻ってくる頃には人は集まっていて、今日は当番が誰一人欠けることなく、予定通り作業を開始できそうだ。軽く肩を回す仕草を見せながら、彼は笑った。


「口ん中に飴ば放りこんだっけ一発で大人しくなったわ」

「あぁそっかい」


 当番のリーダーのおじさんは短く返事をすると、私を呼びつけた。バリケードで囲われている敷地はかなり広く、捜索は基本二人一組で行う。

 つまり、私は仕事が終わるまで、今しがた山下さんに素っ気ない返事をした彼と過ごさなければいけないことが確定したのだ。


 すごく頼りになる人だっていうのは分かるし、実際私もお世話になっているけど、包み隠さず言えば、私はこのおじさん、三國みくにさんが好きじゃない。

 ボサボサの頭、無精髭、履き古したズボンとタンクトップ姿。首からはタオルを掛けている。全体的にくたびれた様子だけど、目だけはギラギラとして、刃物のように鋭い視線で私を見下ろしている。


 動きやすさを重視したなんて周りには言っているし、自分でもそういうことにしてあるけど、私があまり素肌を晒さず、洒落っ気のない格好をすることになった理由の一つに、この視線がある。見られているだけなのに身体を這うような、じっとりとした視線から、どうにか逃れたかったんだ。


 建物からみんなが離れて、割り当てられた区域を捜索する。私達も例に漏れず歩みを進め、ぼうぼうと生い茂った草木の中に目を凝らした。この辺りは、正午を過ぎる頃には草いきれでむっとしているだろう。


「木に何か引っかかってるな……」

「本当ですね」

「俺ちょっと見てくるわ」


 そう言って中年体型の三國さんは、ぼすぼすと足音を立てて木に駆け寄った。分かっている、彼は私に良くしてくれている。いやらしい目で見られることだって、そういう生き物だと割り切るしかない。

 現に、彼は私に負担が掛からないよう、気を遣ってくれているのだ。なので嫌悪感を表に出すのは正しくないと思う。


 ありとあらゆる面で、女扱いされることに気持ち悪さを感じるなんて、私のわがままだ。この嫌悪は口では上手く言い表せない。上手く言えないなら、黙っているべきだと思う。私はスニーカーで足元の土を軽く蹴りながら、彼の動向を見守る。


 彼が手近な枝を使って箱をつっつくと、がさがさと木が揺れる。穴だらけになったパラシュートが、役目を果たせず、情けなく煽られて地面に落ちた。

 箱の大きさと落ちる音から、あれには重たいものは入っていないだろう。衣類や生理用品、木から落ちるくらい、どうということもない物が入っているはず。重たい物はあんな細い枝で止まったりしないだろうし。


 私は駆け寄り、三國さんと目を合わせた。

 彼は笑っていた。だから私も笑った。


 箱の上面には”甘味”と書かれている。私の予想は外れたが、みんなに一番喜ばれる獲物を発見できたのは嬉しい。


「毎日毎日、これがほぼ売り切れになるってんだから信じらんないよなぁ」

「そうですね」


 私は無難な言葉と表情を崩さない。あまり冷たい印象を抱かれないよう、これでも注意しているのだ。

 甘味はこの土地に取り残された、いや、閉じ込められた人達にとって、数少ない娯楽だった。中にはチョコレートや飴、蜂蜜なんかが入っている。たまに菓子パンが混じってるんだけど、これはすごく人気が高い。入っていた日には、賞味期限が短いという大義名分を胸に、多くの人が真剣な顔でジャンケンをすることになる。


「戻るか。もしかしたっけ一番乗りかもなぁ」

「そうかもしれませんね」


 山下のおじさんにはタメ口なのに、三國さんには自然と敬語を使ってしまう。きっとこれは私なりの予防線だ。これ以上踏み入らないで欲しいという、精一杯の抵抗なんだと思う。

 自分でもよくわからない、自然と使い分けてしまっているのだから。だってこういうおじさん達は敬われることをやたらと喜ぶから。

 気に入られたくなんてない。だけど、下手に目立つようなこともしたくない。私はずっと、彼らにとっての、”その他大勢”で居たいのだ。私が無難ないい子でいれば、全てが上手く回る。三國さんのような人も気持ちよく作業できる。自分の舐めるような視線をなかったことにして。


「今日の甘味の箱は一個べっこか」

「さぁ……でも昨日は二個って言ってたし、そうかもしれませんね」


 半年くらい前から、甘味の消耗は激しさを増している。月に一度、各棟の責任者達が集まって寄り合いが開かれる。みんなそれに合わせて責任者に要望を伝えたりするんだけど、”甘いものが食べたい”というのは全棟共通の要望だった。ちなみに私も要望を出した。元々好きだから増える分には大歓迎だし。


 甘い物は雑貨屋さんにもストックが少なく、備蓄分を計算に入れてもすぐに底をつくのが目に見えていたので、話し合いの末、配給のヘリに訴えることになった。

 あのときの騒ぎは私もよく覚えている。要らなくなった布を縫い合わせる作業を手伝った。大きなつぎはぎの布にみんなで乗って、マジックででかでかと【甘味】と書く。そして、炭坑作業員の予備のヘルメットに付いていたライトで、みんなの合作を煌煌と照らし続けた。

 電池も貴重な物資に変わりないけど、それよりも甘いものを摂取したい欲求が勝った。当時の住民の努力は、数日後の配給から反映されることとなったのだ。


 ちなみに、同じようにしてSOSを出すという案も出たけど、それは取りやめとなった。初めて聞いたとき、私は素晴らしい案だと思った。この山の上を通るのは何も菱井グループのヘリだけじゃない。あくまで可能性の話だけど。

 でも可能性があるなら縋るべきだと思った。だけど、一人の男性の声によって、それが愚策であることを知る。「下手に部外者に知られるようなことがあったら、俺達は殺されるんじゃないのか。物資を配給する手間も省けるし、殺す理由さえできればそっちに転がるんじゃないか」。それから私達は、二度と外に救助を求める話をしなくなった。


 物資が潤沢だと言ったけど、そんなこんなで甘味だけで見ると不足していた。多少余裕が出てきたのは最近のことだったりする。余裕が出てきた理由については非常にシンプルで、単純に消費者が減ったということ。


「とりあえず建物の入口で待機するか」

「そうですね」

「やー、千歳ちゃんと一緒にいたっけ仕事捗るわ」

「……そうですか?」


 三國さんは段ボールを抱えて歩きながら、またあのねっとりとへばりつくような目で私を見ていた。気持ち悪い。上手く言えないから、言わないけど。

 二号棟の奥、炭山やまの象徴とも言える立坑やぐらをぼんやりと見つめて、ただ前へと進む。


「どうする? まだ時間に余裕あるし、多少休憩しても」

「あ、大丈夫です! 元気だけが取り柄なんで!」


 これは一体誰なんだろう。そうやって鼻で笑いたくなるくらいの、自分とはかけ離れた誰を演じているような気持ちになる。彼の視線と同じくらい、そんな風に振る舞う自分が気持ち悪くてたまらない。


「ははは、そっかい。なぁ千歳ちゃん」

「なんですか?」


 彼が立ち止まって私を見る。言葉も相俟って、空気がさらに意味深になる。他のおじさん達とは明らかに違う顔つきで、彼は言った。


「今日だけじゃない、困った時は俺を頼ってほしい」

「はぁ……うーん、ありがとうございます」


 この言葉がどういう意味を持って発せられているかくらい、私にだって分かる。私はその雰囲気を一刻も早く破壊したくて、分かっていないような返事をしながら集合場所へと足を動かした。


 名残惜しむような足音が、少し遅れて聞こえてくる。彼は私の後ろをついてきているようだ。


「何かあったっけ隠さずに言えよ? 俺がなんとかするから」


 背に声をかけられ、私は愛想笑いでそれを流す。

 何かあったっけ、か。

 あるとすれば一つだけ。


 この環境に置かれて初めて気付いたけど、

 私は誰かに性的な目で見られることが大嫌いだ。


 死ねばいいと思う。

 正直に伝えたら、彼は死んでくれるのだろうか。



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