七人の侍と一人の愚か者 Ⅲ


 昼間には雨を降らせていた空が、今は真っ暗に澄んでいた。月灯りが周囲の小さくて白い点をぼんやりと飛ばす様子は、己が主役であると主張しているようだ。

 地べたを這ったり街灯に群がる虫達も、いつもより心なしか少ない気がする。静かな夜だ。雨が止んで出歩きやすくなったことも相俟って、私は少々浮き足立っていた。


 いつものように商店街を進んで映画館に辿り着くと、スカートのポケットから鍵を取り出す。そこで私は違和感に気付いた。


 誰かがいる。


 指先だけノブに触れたまま、動けなくなってしまった。こんな時間にここに用事がある人間は私以外に居ないはずだ。誰がいるのかは分からないけど、絶対に見つかるべきではない。私の本能がそう告げていた。

 これは私という人間が他者と関わり合いを持ちたがらないせいだけではない。それもあるが、中にいるのが悪人である可能性が頭を過ぎったのだ。もしそうだったとしたら、何をされるか分からない。それに、そうじゃなかったとしても、私の存在を知る人物は極めて少ない。むしろ私が不審者扱いされることだって考え得る。


 息を止めて動けずにいると、中から何かが聞こえた。物音と一緒に、声が飛び飛びに聞こえて、私は中で何が起こっているのかを察した。


 怒りで手が震えていると思ったのに、私の右手は寸分の狂いもなく、正確に鍵穴にギザギザの刻みがあるそれを差し込んだ。ノブを回して引くと、けたたましい音を立ててドアが壁にぶつかる。力の加減がまるでできない。

 こんな大きな音は何年も聞いていなかったと思うけど、今の私にはどうでも良かった。音に気付いたのだって、シアターの座席に重なって座る阿呆共が驚いてこちらへと視線を向けたからだ。向かい合うようにして座っていた男女。女は顔を上げて、男は首を回してこちらを見た。


「出てけ……」


 情けない。しばらく人と会話をしてこなかったせいで、こんな肝心な時だというのに、上手く声を出せない。私は座席の陰に隠れながら慌てて服を着ている男女と、つくづく役立たずな自分への怒りを、全て声量に変えてぶつけた。


「出ていけよ!」

「出てけ出てけ! 早く!」


 似たような言葉を繰り返して、男女を追い立てる。がなり立てるよう声を出し続け、建物の奥へと大股で歩いていく。女は下着を身につけてスカートを履くのがやっとだったようだ。自身のシャツを抱いて、私の剣幕に震えている。だけど、絶対に許さない。

 男の方はズボンを上げただけのようだが、どう見ても幼い。高校生か、下手すれば中学生くらいにしか見えなかった。一方で女は私と同じくらいに見える。二人がどんな間柄かは知らないが、隠れてこんなところで性交するくらいだし、きっとろくなものではない。


 両者共に、私に怯えている。その表情にまた腹が立つ。被害者だとでも思っているのか、自分達が。

 女はたどたどしく服に袖を通しながら、落ち着かない様子で宣う。


「あ、あの、私は商店街の責任者の娘で、その、ここは不法侵入とかじゃ」


 彼女の支離滅裂な弁明を強制終了させたのは、私の怒鳴り声だった。

 うるさい。耳を劈くような声が自分の中から響く。ヒステリーの典型のような声を自分が発していることが意外でならないが、それだけじゃ私は止まらなかった。


 出ていけ。許さない。消えろ。殺してやる。

 健気にも男の子が女の前に立って庇っている。それでも私は止まらない。未成年とはいえ、唆されてこんな場所で体を重ねたならそれはもう同罪だ。

 横一列に繋がった木製の座席を掴むと、意味も無く後ろへと引き倒した。私一人の力で数人分の重みを支えられるような椅子が持ち上げられるわけがない。手すりつきのそれは、コンクリートの床の上を大きな音を立てて転がった。


 椅子を倒したくらいでは私の怒りは収まらない。むしろこいつらを殺したり、死ぬまで後悔させる以外に、私の気が収まる方法があるなら誰か教えて欲しい。


「何してんの!?」


 声がすると同時に、少年に向けて振り下ろそうとしていた私の手首が掴まれる。振り返ると、そこにはキャップを目深に被った女が居た。近づいていることに全く気付けなかった。この女も二人の関係者なのだろうか。

 私は手を振り払おうとしたが、それよりも早く、女は言った。私ではなく、私の後ろにいる男女に向けて。


「あんた達が何をしていたのか、大体は想像がつく。早く出てって」


 女は私ではなく、男女にこの場から離れるように言ったのだ。一瞬、私の気持ちを汲んでくれたのかと思ったけど、そうではないことに気付く。普通に考えて、こんな危険人物を外に連れ出す訳にはいかないだろう。


 椅子と私達の間を擦り抜けるように駆け出した男女の後ろ姿を見ると、さきほどの憎しみがこみ上げてきた。あいつらは、私の大切な場所にわざわざ忍び込んで、あんな……あんな……。


「あああああぁぁぁぁ!」

「ちょ、何!? 大人しくしてって!」


 突然再び暴れ出した私に、女は驚きながらもすぐに両手首を掴むという対処をしてみせた。随分と力が強い。私は頭を振ったり、声をあげてあの男女を追いかけようとしたけど、全然敵わない。怒りで自我を失いかけている私を易々と引き留めるこの女が強いのか、そんな状態になってでも細身の女に御される自分が情けないのかは分からないけど、とにかく悔しかった。

 ドアに伸ばそうとしていた腕を強引に下へと降ろされ、気をつけの体勢にさせられる。身じろぎをしても振りほどけそうにない。何のつもりだと問おうとした次の瞬間、私は彼女に抱きしめられていた。


「なんていうか、消去法だから。分かるでしょ」


 彼女の問いに、私は答えられなかった。だけど、意味は分かる。私が暴れるから、手首を抑えるだけじゃ、足りないから。抱きとめてしまえば、全身の自由を奪える。それを覆すことは、私の筋力ではできそうにない。筋力どころか、体力も限界だ。暴れるというのは、存外疲れるものらしい。

 それを自覚すると、一気に頭がくらくらとした。私が体重を預けたことが分かったのだろう。女は私を抱いたまま、ゆっくりと適当な座席へと座らせた。

 彼女は自身の鎖骨あたりに私の顔を押し付けてじっと動かない。しばらくは離してもらえなさそうだ。嗅いだことのない他人の臭いを少し不快に感じながら、私はそっと彼女の背中に腕を回す。誰かに触れることなんて、ほとんど経験がなかった。幼い頃に家族にしたことを除けば、私は生まれて初めて、他人にハグをした。


 警戒を解くように、私を抱く腕の力が徐々に弱まっていく。それでも私は彼女にくっついたままでいた。自分でも何をしたいのか、よくわからない。もしかしたら、私はずっと誰かにこうしたかったのかもしれない。

 そうして、脳裏にナエさんの顔が思い浮かんだ。さっきの連中を見かけたときは全身の血が沸騰するような怒りが湧いたというのに、彼女の顔を思い浮かべて、今の状況を思うと、今度は酷く悲しくなってきた。

 何が決定打になったのかは分からない。他人がここに勝手に入ったことか、思い出の場所を踏み躙られたことなのか、もしかすると、私はナエさんの死から遡って悲しんでいるのかもしれない。


 気付けば私は泣いていた。子供みたいに泣きじゃくっている自分が、酷く滑稽で哀れだ。そうは思うけど、何故だか止まれなかった。私の嗚咽が映画館に響いて、ぐるぐると音が回っている。自分の泣き声に、酔いそうになりながら、声を上げ続けた。


 名前も知らない女は、静かに私の頭を撫でて、たまにあやすように背中をぽんぽんと叩いてくれた。何も言わなかった。言えなかったんじゃない、きっと。言わなかった。それを私は、女の優しさだと解釈した。


 止まらない涙の理由。もしかすると、私はこれまでの人生で泣けなかった分を今取り戻そうとしてるからなんじゃないかと思った。会社で倒れた時も、クビを言い渡されたときも、両親が死んだときも、私は涙を流さなかった。ナエさんが亡くなったときに流した涙は、百パーセント彼女の為だけに流したものだ。

 そう考えると辻褄が合う。箍が外れたみたいに溢れて止まらないこれは、私がこれまで感じてきた寂しさや悲しさ、そのものだった。


「そんなに泣いて、疲れない?」

「……疲れた」

「ははっ。じゃあ、止めたら?」


 女は私の髪に指を通しながら言う。幼い頃、母がそうしてくれたように。

 止められるならとっくに止めてる。そう言いたかったけど、私が何かを言う前に、涙は止まった。時折襲ってくるしゃっくりのような衝動をひくひくと受け止めながら、浅い呼吸を繰り返す。


 呼吸を整えながら、自分が置かれている状態を、というよりも、私がこの女性を巻き込んだという事実に気付くと、椅子に座ったまま慌てて顔を上げた。


「っと」

「わっ」


 私の顔を覗き込んでいたらしい彼女と顔がぶつかる。私の頬が彼女の口に当たった気がするけど、彼女は気付いていないようだ。私の涙が付いてしまってはいないだろうか。きっとそれは汚い。

 こんなことに巻き込んだ挙句、更に嫌な思いをさせるのは忍びない。目の前の顔をまじまじと見て、それから私のなけなしの気遣いは霧散した。


 息を飲む。初めて女性の顔をちゃんと見たけど、彼女はとても端正な顔立ちをしていた。おそらくは私よりもいくらか年下だろう。しかし、凛とした顔つきからは、私のくだらない三十年間なんかとは比べ物にならないほど、実りある人生を歩んできたであろうことが窺えた。

 そんな女性に酷く醜い姿を晒してしまったことを、今更ながらに後悔すると、また泣きそうになる。いい加減にしろ、自分を心の中で叱責していると、彼女はぽつりと呟いた。

 甘い、と。


 聞き間違えたかと思ったけど、どうやらそうではないらしい。名も知らぬ彼女は、私の頬に残る涙を指で掬うと、親指をぺろりと舐めた。私が汚いと思っていたそれを。


「……やっぱり。甘い」

「あの……」


 彼女は、変態なんだろうか。何を言っているのか分からない。彼女は確実に誤解しているだろうが、私が他人に泣き顔を晒すことなど滅多に無い、というか成人してからはこれが初めてだと記憶している。だから経験が不足している。何が言いたいかというと……涙を指で掬って舐められたことなどないのだ。どう反応していいのか、全く分からない。


「あ、ごめん。これじゃ私、変態だよね」


 うん。声に出して肯定するのはさすがに憚られたので、私は無言で彼女の言葉を受け止めた。何故ここに? 今更すぎる疑問を投げかける前に、彼女は言った。自分はそこの商店街で働く者だ、と。


「そこって……?」

「え? えぇと、雑貨屋だよ。自惚れるわけじゃないけど、一応看板娘ってことになってたから、みんな知ってると思ってた。見ない顔だけど、ここの人、だよね?」


 このやり取りに懐かしさを感じた。ナエさんと出会った頃にも、似たようなことを言われたのだ。私は、この団地の常識を何も知らない。それを再認識すると、どうにも居たたまれなくなって、小さく頷くことしかできなかった。


「私は、ゆう。栗山夕っていうの。あなたは?」

「桂沢、三笠」

「三笠さんね。聞きたいことがたくさんあるんだけど、時間はある?」


 彼女はナイロンベルトの腕時計を見ている。スポーティなそれは彼女のイメージにぴったりだった。家に戻ったってすることなんてない。それに、私も彼女に聞きたいことがあった。そうして私は、再びこくりと頷いた。

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