七人の侍と一人の愚か者 Ⅳ

 しんと静まりかえった映画館の座席に座って、私達は何も映っていないスクリーンを眺めていた。外から虫や蛙の鳴き声が聞こえる。内側から施錠しているので、先程の女が鍵を使って開けでもしない限り、人が来ることはないだろう。

 ここを訪れる時に感じた平穏というものを目の当たりにして、私は一人、気まずさを感じていた。


「で、三笠さん。あなたは、どこの人なの?」

「私は……」


 身の上話などしたくなかったが、彼女への罪悪感から、私は語った。二号棟の住人であり、普段は引きこもりで、ろくにこの団地の当番をこなしていないことも、どうしてそうなってしまったのかも。

 落ち着きなく両手を組んだり、手首を握ったりして、なんとか話した。気持ち悪いと思われるかもしれない、いや、きっと思われているだろう。何せ、大暴れした直後に泣き出して、挙げ句の果てにはもじもじしているのだ。それも年上の女が。幼稚な愚か者だと感じられる以外に、彼女の私への印象が思いつかない。

 そう思うと逃げ出したくてたまらなくなったけど、これは私に課せられた試練のようなものだろうと無理矢理自分を納得させて喋った。いや、喋ったというよりは、もごもごと口と舌を動かして息を混ぜて喉を震わせた、と表現する方が正しいかもしれない。


 だけど、私の取り留めのない、まとまりもない話を聞いて。彼女は一言、大変だったんだね、と言った。

 たったそれだけのことが、気恥ずかしくて、だけど嬉しくて、私にナエさんのことを思い出させた。きっと彼女も気になっているだろう、何故私がここの鍵を持っているのか。語らないわけにはいかなかった。


「私は、ナエさんと、友達だった」


 また妙なことを言い出したと思われるかもしれない。だけど、栗山さんはそんな気がしてた、と呟いた。はっとして顔を上げると、彼女は優しい表情で私を見つめていた。

 陳腐な言葉だけど、吸い込まれそうな瞳だった。彼女の瞳は映画館のスクリーンのように、意味のある何かを映し出しているような気さえしてくる。真っ直ぐと何かを見据えるその視線はどこか気高くて、私の脆弱な心を安々と撃ち抜くような強さを孕んでいるようにも感じられた。


「ナエさん、友達ができたって言ってたから。これ一緒に食べなよって、お煎餅あげたこともあるんだよ?」


 そう言って彼女は笑った。考えてみれば、彼女とナエさんが知り合いだったのは、当然だろう。商店街の人間はそれぞれ繋がりがあったはずだ。そんなこと、ここのことを知らない私にだって想像がつく。

 胸の中に広がるこの気持ちがなんなのか、まだわからない。だけど、確かに私は浮かれていた。生前のナエさんのことを語り合える人が目の前に居ると思うと、嬉しくてたまらなかったのだ。


「多分、それ、一緒に食べた。……ありがとう」

「どういたしまして」


 栗山さんは、そっかぁとだけ言って天井を見上げた。私も真似してみたけど、そこはコンクリートに覆われた、何もない空間だった。


「大体の事情はわかったよ。でも、三笠さんはもっと外と接点を持った方がいいと思う」

「それは……」


 彼女の言うことは尤もだった。だけど、私はその意見を受け入れられない。というより、受け入れたくない。今更他人と関わるなんて、億劫でたまらないのだ。


「そこで提案なんだけど、私のお店で働きなよ」

「え、いや……」

「大変だけどね。でも、他の人みたいに、当番に混じって色んなことをするよりも、同じところで働く方があなたには合ってると思うよ」

「そう……」

「嫌なんでしょ」


 彼女は私の心中を言い当てると、いたずらっぽく笑った。見透かされてることを情けなく思いながらも、私は小さく首肯する。


「でも、私、三笠さんのこと知っちゃったし、サボりはいけないと思うし、それに人手が欲しかったし。ね?」


 随分と強引な人だ。そうは思うけど、不思議と嫌な気はしない。それが彼女の美貌のせいなのか、彼女がナエさんの知り合いだからなのかは分からない。だけど、こんな私に手を差し伸べてくれているのだ。変わるチャンスだと思った。もう遅過ぎるかもしれないけど。


「分かった」

「本当に?」

「分かったってば」

「ふふ。じゃあ」


 栗山さんは私の頬に手を当てて微笑む。目の前にある顔は、綺麗なんだけど、少しだけ怖い。何を言われるんだろう。彼女は私の心を、不安ごと打ち砕くように呟いた。


 ——もっかい泣いて


 耳元で囁かれる言葉が頭の中で漂って消える。突拍子のない言葉に硬直しているのか、怖いはずなのに逃げ出せない。栗山さんの瞳が私を椅子に縫い付けているようだ。視線を落とすことがやっとだった。

 私の涙を口にして、甘いと呟いた時のことを思い出す。涙が甘いわけ、ないのに。


「三笠さんにお店に来て欲しいのは本当だし、これから仲良くなりたいと思うのも本当なんだけどね。どうしても引っかかるんだよ、あなたの涙の味。一体何者なの?」

「そんなの、私は普通の」

「普通の人のそれが甘いわけないじゃん。ねぇ、確かめさせて」


 彼女は真剣だった。だけど、いきなり泣けと言われても泣けない。身体の震えが自分でも分かる。気が付くと、彼女の細い指が私の首に巻きついていた。


「ちょ、ちょっと」

「ごめんね」


 言い終わるや否や、彼女は手に力を込めた。痛い、苦しい。色々な感情が私の中を駆け巡ったけど、すぐにそれらは悲しみに塗り潰された。

 信用できる人間を見つけたかと思えばこれだ。言う通りになど、したくないのに。私は涙を流していた。それでも、彼女は手を緩めようとしない。押し倒されそうになりながら、隣の座席に手を付いてなんとか体勢をキープする。

 座席を仕切る手すりが腰や背中にごりごりと当たって痛い。だけど、首の痛みに比べればささやかなものだ。私を見下ろす彼女の顔が、美しくて恐ろしい。


「かっ……」

「泣いてよ。もっと」


 彼女の声は日本の北部に位置する、この町の真冬よりも冷え切っていた。何かに取り憑かれたように私の涙を欲しているその様は、異常としか言いようがない。先程まで私の話を親身に聞いてくれていた女性とはまるで別人だった。

 恐怖、痛み、苦しさ、寂しさ。そういったものが綯い交ぜになって、頬に涙が伝う。くすぐったさを感じている暇などなかった。


 妖艶な表情を湛えた彼女の顔が少しずつ近付いてきて、私の頬を直に舐めた。首を締めていた手の力はいつの間にか緩んでいたけど、私は未だに動けずにいた。

 滑った温かい舌が私の頬を撫でて、その感触に肌が栗立つ。だけど彼女は止めようとしなかった。貴重な何かを一つの無駄もなく味わうように、丹念に舌を這わせている。


 私はなけなしの勇気を振り絞って、彼女の肩を押した。弱々しく、やめてと訴えながら。

 ようやく我に返ったらしい彼女は、はっとした表情で慌てて私を解放した。ごめんなさい、何度もそう言って、膝の上に手を置いて震えている。何が何だか分からないけど、私の取り留めのない話を聞いてくれた女性に戻ってくれたようだ。


「私、なんで……」

「私なら、その、苦しかったけど、もう大丈夫だから」


 自分の涙が彼女を狂わせてしまったらしい、そんな信じ難い事実に怯えながら、彼女がしてくれたように背中を撫でてみる。振り払われることはなかった。私がそうだったように、彼女も安心してくれてたなら、多分嬉しい。さっきは迷惑をかけてしまったし、これでチャラ、ということにしたい。


 私はもう一方の手を伸ばす。耳の下に触れて、指先で輪郭をなぞってこちらを向かせると、今にも泣き出しそうな顔をしていた。彼女もまた、見えない何かに怯えているようだ。

 目尻に溜まった涙を人差し指で救って口に運ぶ。自分がこんな馬鹿げたことを言うだなんて、思ってもみなかったけど、でも、間違いなかった。間違いであってほしかったけど、間違えようもない。私は彼女と同じように呟くことしかできなかった。

 甘い、と。


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