七人の侍と一人の愚か者 Ⅱ
時刻は深夜一時。長い二度寝から目覚めた私は、薄い色のサマーニットに黒いスラックスという、非常にシンプルな出で立ちで家を出た。涼やかな夜だけど、寒くはない。
これから仕事にでも行くのかと問われそうな
振り返ってそっとドアを閉める。黒いスプレーでバツを書かれた扉に挟まれているのが私の家。印の意味は正確には分からないが、両隣の住民は死んでしまったのだと解釈している。私の推察を裏付けるように、しばらく前から物音が聞こえない。
私の家の扉は無事だ。勝手に死んだという事にされていないところを見ると、数日に一度部屋の前に置かれる乾パンや缶詰が途絶える心配はしなくて良さそうだ。
極力足音を立てないように階段を降りていく。私の部屋は三階なので、建物の外に出るには二階分降りる必要がある。毎度の事だが、たったそれだけの運動が引きこもりには堪えた。
他の棟には行ったことがないので分からないけど、二号棟には東側と西側の階段がある。私が降りて来たのは東側で、西側の階段の近くには一号棟や商店街への近道となる扉があるのだ。商店街の奥、映画館に用事のある私は一階まで降りると、西側の階段へと向かった。
ノブに手をかけて回すと、無骨な鉄扉がゆっくりと開く。ここはいつも施錠されていない。一応鍵穴はあるけど、使用されることはないようだ。
外に出ると、なんとなしに夜空を仰いでみる。働いていた頃の空と比べると、格段に星が綺麗だった。壁に囲まれていることを考えると閉塞感は拭えないが、星々は素知らぬ顔で瞬いている。
感傷に浸りたくなるが、こんなところで長居は無用だ。すぐに視線を前に戻して、商店街の奥を目指す。夜中とはいえ、団地内に点在する街灯は機能しているし、家々の灯りもあるので、足取りはしっかりとしている。とうに灯りが消えている家も多かったが、あまり明るいと逆に落ち着かないので、小心者の私にはこれくらいが丁度いい。
虫の影に怯えながら、街灯の真下を避けるようにじぐざぐに進む。現実的な最短距離を歩いているつもりだ。蛾もガ虫も好かない、名前の知らない小さな羽虫達も。夏の夜の灯りに吸い寄せられる命に、私は決して好意を示さないのだ。
他にも灯りを避ける理由がある。私は、私の姿を明るいところに晒したくない。万が一、誰かに見られたら、声を掛けられたら。考えるだけで心臓が痛くなる。
下らないことに怯えてばかりの私が、それでも映画館に向かう理由はたった一つ。ナエさんとの思い出に浸っていたい。ただそれだけ。
私と彼女は性別以外の全てが違った。年齢はもちろん、生い立ちも、周囲からの評価も。それでも気兼ねなく話ができる間柄になれたのは、偏にナエさんの人柄の良さのお陰だ。気難しい私にも分け隔てなく接してくれ、むしろ私が周囲に溶け込めないタイプであることを察知してからは、より気にかけてくれていたように思える。
初めて彼女に会った日も、こんな夜だった。
事故後、父が死んでしまったショックから、私はどうにも落ち着かなくて、深夜に家を抜け出した。それは年単位でまともに外出をしていなかった私にとって、間違いなく大冒険だった。雑貨屋の前を素通りして、商店街の突き当たりの建物に辿り着いて、そこでようやく我に返って、帰ろうとしたところを後ろから話しかけられた。
振り返ると、そこには優しそうな小さな老婆が立っていた。被るかい、そう言って差し出された帽子を丁重にお断りして、罪悪感からその場を立ち去る機会を完全に失った。そうして映画館の中へと招き入れられて、階段を上がって映写室のドアノブに手を掛けたところで、私は彼女を止めたのだ。
そこは関係者以外立ち入り禁止だろう、と。いま思い出しても恥ずかしい。まさか彼女が関係者だとは思っていなかったのだ。ナエさんは大丈夫とだけ言って、狭い部屋に私をおいでおいでと招くと、お茶とお煎餅を出してくれた。美味しかったし、温かかった。彼女が出してくれたお茶も、彼女の優しさも。
私はそれから頻繁に彼女を訪ねた。内緒だよと言って、秘密の上映会を開いたり。私の身の上話を聞いた彼女は、自分のことのように痛ましく思い、気遣ってくれた。
彼女はおそらく、ガスとは無関係に亡くなった。確証は何もない。そういうことにしておきたいだけだ。ワケのわからない事故に彼女が巻き込まれることなく、天寿を全うしたと、信じたいだけ。
医者もいないこの団地内では、配給で届けられる風邪薬や痛み止めだけが頼りだ。ここで静かに息を引き取った彼女の死因を特定することなど、もはや誰にもできやしない。だから私は信じたいことを信じる。そうしていいって、ナエさんがあの穏やかな時間の中で教えてくれた気がするから。
私が彼女の死を知ったのは、亡くなった当日の深夜だった。いつもなら開いているはずの鍵が閉まっていた。それだけじゃない、扉の前にはたくさんの花束が置かれていた。私は嫌な予感から目を背けるように、足早に自宅に戻った。
ナエさんにとっての私は、たくさんいる仲良しの中の一人だと思っていた。知り合った当初はこの団地内での彼女の知名度を知らなかった私だけど、彼女が口にする様々な人の名前から、知り合いがたくさんいて、周囲から大切にされている人間だということは分かっていた。だから、彼女の死の数日後、ポストに投函されていた手紙に気付いた時は驚いた。
誰が入れたのかは分からない。ナエさん本人かも知れないし、使いを頼まれた別人なのかもしれない。ただ、手紙には『ありがとう』という短い言葉と一緒に、鍵が添えられていた。見た瞬間分かった、ここの鍵だと。
私は泣き崩れた。手紙はミミズがのたくったような字で書かれており、見たことのある彼女の筆跡とは似ても似つかなかった。筆を握る手が震えていたのか、手元を見る目が利かなかったのかは分からない。ただ、気力を振り絞って書かれたものであることは確かだ。
ありがとうと伝えるのも、何かをあげたかったのも、私の方だったのに。私は彼女に何もしてあげられなかった。あれほど己の情けなさを嘆いたことはない。
そういった経緯で、私は彼女から鍵を譲り受けて、それから映画館は私にとって大切な場所になった。誰も立ち入れない、私だけの場所。もしかすると私にはそんな場所が必要だと、ナエさんは考えたのかもしれない。確かめる術は、もうないけど。
私は、あの日と同じように映画館の前に立っていた。迷い子のような表情は、今もあの時も変わらない筈だ。だけど、もう母も、ナエさんもいない。
館内に入ってすぐ右、急な階段を上がると映写室だ。鍵を開けると、そっと扉を押す。お世辞にも広いとは言えない空間の真ん中にはパイプ椅子があり、私はそのすぐ隣に、膝を抱えるようにして座った。腰を下ろした所と椅子には、お揃いの柄の座布団が敷かれている。椅子はナエさんの特等席なので、私は彼女が亡くなってからもそれを守っている。
そうして身体を落ち着けて、やっと人心地が付く。ここはナエさんの秘密基地だった。背の低い茶箪笥の上にはガンガンが置かれていて、あの中には折り紙が入っている。彼女曰く、ボケ予防の手遊びらしい。手付きと出来上がった作品のクオリティからは、とてもそんな風には見えなかったけど。何をさせても卒なくこなせてしまう人というのは存在するらしい。つくづく、私と彼女は対称的な存在だったのだと思う。
顔を上げると、彼女の愛機である古い映写機が棚の上に鎮座していた。
風と共に去りぬ、ローマの休日。私はそういった、恋愛を描いた海外の作品を好んだ。今さら恋愛に憧れる気持ちなんてないけど、顔立ちのいい役者や、素敵な音楽を聴いていると、”映画を観ている”という気分を味わえる。私にとって重要なのは、ストーリーではなく全体の雰囲気なんだろう。
一方で、ナエさんが好きだったのは、七人の侍。初めて聞かされた時は、無骨な趣味に思わず笑ってしまったけど。亡くなった旦那さんが、初めて誘ってくれた映画だと教えてくれた。きっと、内容なんてどうでも良かったんだと思う。
とある深夜、二人だけの上映会で、私は初めてその作品を観た。長いので、数日に分けながら。私の隣でスクリーンを見つめるナエさんの表情は穏やかだった。人が斬り捨てられるシーンでもそれは変わらない。その瞳にスクリーンを反射させながら、彼女は夫との思い出を見ていたのかもしれない。そんな風に思った。
それをおかしいことだとは思わない。映画の楽しみ方なんて人それぞれだし。ナエさんが夫との思い出を愛したように、私にとっても、あの作品は特別なものになった。要するに、今となっては彼女と全く同じ事情を抱えてしまっているのだ。
もう一度ここで映画を観たいけど、私には使い方は分からない。下手に触って壊すのも怖い。こんなことになるなら習っておけば良かったと、いつも後悔している。
触ってみるかい? と聞かれたのは、一度や二度ではなかった。いま思えば、ナエさんはこの映写機の使い方を、誰かに継承したかったのかもしれない。消極的な私は断り続けることしかできなかった。その時に彼女がどんな表情をしていたのかは分からない。見るのが怖いから、目を背けていた。
その代償がこれだ。一緒に観ていた映画は、もう観れない。ナエさんの声も聞けない。話もできない。私には、何もできない。こうやって悲しみに暮れていても、一人で死ぬことすらできないのだ。
ぐちゃぐちゃになった心で、それでもこの場所に縋っている。
使い方が分からない映写機が私に語りかけてくるようだ。
あの日々の思い出を亡き物にしたのは、他でもないお前なのだ、と。
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