七人の侍と一人の愚か者 Ⅰ

 音楽が聴こえてくる。目を覚まして最初に認識したことはそれだ。たまたまこのタイミングで目を覚ましたのか、どこからか流れてくる洋楽に起こされたのかは分からないが、これがビートルズだということは分かった。

 布団から顔だけを出して辺りを覗う。寝起き特有の瞼の重さに逆らわずに、薄眼で周囲の景色を見てみると、カーテンを閉め切っているにも関わらず、布団と壁の境界線がはっきりとしていた。明るい、つまり起きるにはまだ早い。ろくでなしの私は、そう判断して再び布団を被り直した。


 ——もう起きたら?


 ふいに死んでしまったはずの親の息遣いを感じた気がして、寂しさと未だに振り切ることのできない自分への煩わしさが、同時に胸に去来した。

 そう、両親は死んだ。父は事故に巻きこまれて、母は階段から転げ落ちて。あとから聞いたけど、母はガスの影響により視野狭窄状態で、さらに突然意識が朦朧とすることがあったらしい。私よりも母のことを知っている知人に会うと、娘としての不甲斐なさを感じて居たたまれなくなる。

 元々母が死んだのだって、私が珍しく友達ができたと話したからだ。配給にまだスナックが余ってたと思うから、友達と分けたらいい。そう言って、気を利かせて家を出た母は、階段から落ちて死んだ。あまりにもあっけないと思った。母が亡くなった実感が湧いたのは少し経ってからだった。


 娘が友達の話をしたくらいで大げさな。そう感じる人が大多数だろうけど、私には母の喜びようも理解出来る。何故なら、その娘というのが筋金入りの引きこもりだからだ。

 そんな状態の私がどうやって友達を作ったんだとか、どんな人なんだとか、色々と思うところはあっただろう。だけど、母は人の親として当然の疑問を、私の為に飲み込んでくれた。下手にあれこれ聞き出そうとすると、私が何も言わなくなると思ったんだろう。そしてそのまま亡くなった。

 母の死後、しばらくして友達も死んで、もう私の名前を呼ぶ人はいない。日中はずっと閉め切った部屋の中にいるので、この団地に住まう人の中で、ガスの影響を最も受けていない自信がある。一番死んだ方がいい人間だというのに、皮肉なものだと思う。


 団地の長達は私を精神病だと判断して、仕事を与えることすらしなかった。私のような人間は数名いるものの、寝たきりの老人だったりする場合がほとんどらしい。つまり、私はこの団地の善意によって生かされていると言っても過言ではないだろう。

 母が亡くなったとき、やっと私の存在が確認されたのだという。母の病状がそこまで悪化していたと知らされたのもこの時だ。嫌な言い方をすれば、団地が封鎖される以前から、私は両親に黙殺されていたとも言える。

 だけど仕方がない。恥ずかしながら、私は今年で三十路になる。ろくに働きもせず、結婚もせず、傍目に見れば何か特殊な事情があるようにも見えない女が、のうのうと両親を頼っているのは異常だ。

 事情があるにはあるが、それに対して人々が同情を寄せるかどうかは半分博打のようなものだし、恐らくはほとんどの人間の目には、私達一家が「甘えている人間」と「甘やかしている人間」としか映らないだろう。というか多分、実際その通りだ。

 とっくに成人した娘を飼っていると思われるのは、さぞかし居心地が悪いだろう。だから両親の対外的な対応として、あれは仕方のないことだったと思う。その事実をなんとなく察した私が感じた寂しさは、勝手以外の何者でもない。


 健全な人達はこの時間から活動を開始するのだろう。いや、それにしてはきっともう遅過ぎる時間だ。だけど、私は再び眠りに就こうとしており、さらにその眠りが深いものであるといいと願っている。

 つくづく自分という人間はクズだと思う。だけど、どうしても日中は起きていたくない。家を出ることもなければ、誰かが訪ねてくる用事もないが、万が一何かがあって部屋に人が来た時に、居留守を使うのは嫌だ。

 健康体にも関わらず、集団生活の役割を放棄して庇護されているのだ。私が恐れているのは、人と対峙することではない。人の気配が、もう怖い。


 どうしてこうなった。そうやって過去の記憶を遡って、もうどうにもならないことを思い出すことが間々ある。心を診る医者に言わせれば、それはらしいが、私は繰り返し考えてしまう。答えはいつも同じだ。私が社会というものに適合できなかったから。

 この団地を出た頃、私は自分を「周囲の人間と同じように生活を送れる、なんの変哲もない女」と評していた。具体的に言うと、仕事はもちろんのこと、それと同時進行で人並みに恋をして、誰かと結婚して平凡な幸せを掴めると思っていたのだ。仕事に打ち込み過ぎて適齢期を過ぎそうになったら、お見合いでもすればいいとも考えていた。無数に存在する未来という可能性の目下の最終地点は、”両親に孫の顔を見せること”だと思っていたのだ。いま考えると、完全に思い上がりだった。能天気な過去の自分が滑稽ですらある。


 団地を降りたところにある地元の高校を卒業して数年、それなりの規模の商社で働きながら、札幌で一人暮らしをしていた。あそこは大きな街だ。ここの団地のように、道行く人々と挨拶を交わすことはない。間借りしたアパートの隣の住人の顔すら、私は知らなかった。

 覚えなければいけない業務にやっと慣れたと思った頃、後輩ができて別のストレス源が出来た。だけど、みんなは当たり前のようにそれをこなしているし、できないのはおかしいと己を叱咤して踏ん張ろうとした。

 結論から言うと、私は同僚にも上司にも恵まれなかったようだ。責任を転嫁するつもりはないが、そういう指摘をされる度に否定する材料がないことに気付かされる。

 簡単に言うと、業務上のトラブルが発生すると、それらは全て私のせいになった。身に覚えのない誤注文処理も、聞いたこともない名前の人物からの納期に関するクレームも、何故か全て私の責任ということにして、さらに上の上司へと報告されていた。

 今思えば、口数が少ないのもきっと良くなかった。誰も「桂沢かつらざわさんがそんなミスをするわけがない。したとして、報告もせず黙っているわけがない」と庇ってくれなかったのだから。

 結局、私は一人ぼっちだった。取り立ててそれを悪いことだとは思ってなかったけど、不利に働くことはあるらしいと、大きな代償を払ってようやく思い知った。私が会社で倒れて、あっさりとクビを言い渡されるまでに、時間はかからなかった。


 そうして社会の歯車から外れた私は、両親から腫れ物のように扱われて、数年経って今に至る。

 当時、どうやって札幌の家を引き払ったのかも、全く記憶にない。早い子なら結婚をして、出産を経験していてもおかしくないような年齢だというのに、私は両親に尻拭いをさせてどうにもならないことで落ち込むのに手一杯だったのだ。

 私を私として知る人物はもう誰も残っていない。寂しいと思うかどうかはさておき、当然だと感じるし、下手に昔の知り合いに実家に戻っていることを知られると、それはそれで面倒なのでこのままでいい。


「うるっさ……」


 気密性の低い窓から漏れてくるビートルズは不快でしかない。音楽は嫌いではないが、聴きたくもないものを押し付けられるのは生憎好きじゃない。私は布団を被ったまま、固く目を瞑って、睡魔が眠りへと誘ってくれるのをじっと待った。


 母が存在を喜んでくれた”友達”も、他に家族はいないと言っていたが、私とは立場が全然違った。

 彼女の名はナエ。本人曰く、ナエばあちゃんといえば、この団地の中のマスコットのような存在だったらしい。彼女が亡くなった時は、多くの住民が彼女の死を偲んだ。だけど、私よりも深く悲しんだ人はいないだろう。競うわけじゃないけど。そんなことを断言したくなる程に、私の喪失感は計り知れなかった。


 皺だらけの節くれ立った手に、自分で編んだという帽子を被った老婆、それがナエさんだった。昔は美人だったなんて、くしゃくしゃの顔で言う愛嬌も持ち合わせていて、私は何度も彼女の冗談に笑わされた。

 昔の自分を引き合いに私と張り合うのは、ナエさんのお気に入りの遊びだったけど、はっきり言って、今のナエさんの方が私なんかよりも、よっぽど美しいし可愛らしい。本気で思ってる。言ったら嫌味だって怒られるから言えないけど。でも、あれほど気高い人を、私は他に知らないのだ。

 二号棟の商店街の端にある、小さな映画館が彼女の城だった。気分で上映する映画を決めて、古い映写機を回す。それが彼女の仕事。寄贈されたそれの扱いが分かるのが彼女だけだった、というのがきっかけらしい。

 炭鉱夫である息子との二人暮らしで、人生も一段落ついたと思っていたところに舞い込んできた大役だ。元々働くことは嫌いではなかったようで、それから彼女は、この団地に住む者なら誰もが知る存在となった。

 息子達の憩いの場を任されたのが嬉しかった。彼女はいつかそう語ってくれた。


 早く、あの場所に行きたい。私は深夜になると、彼女の城へと遊びに行く。それが日課となっていた。何をするわけでもなく、ただあの空間に居たいのだ。ろくに仕事もしないで、残された時間を好きに過ごしている。本当に、私みたいな人間、とっとと死ねばいいと思う。


 暗がりの中、映写室のドアノブを回す自分を想像しながら、細く息を吐く。

 このまま目覚めなくたって構わないけど、ガスはまだ私を殺してはくれないだろう。

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