夜と煙とヘルメット Ⅰ

 最も古い記憶は、家畜達とサイロから発せられる煙の臭い。あとは祖父の怒鳴り声。だけど内容は覚えていない。あの人にとって、喋ることと怒鳴ることはほぼ同意義だったから。


 私は酪農の町で生まれた、雨竜家の長女だった。情緒が安定しない祖父から、しつけと称して事ある毎にデレッキで殴られながら育った。厳しくしつけられたと言えば聞こえはいいのかもしれないが、彼は教育ではなく、憂さ晴らしの為に手を上げるので、そう言い表すのは本当に厳しくしつけられた人に失礼な気がする。

 両親は祖父に逆らえずに、いつも折檻が終わってから優しくしてくれる。いま考えると、親としてどうなんだとも思うし、親子の形として随分と歪んでいるようにも思えるが、当時の私はそれがあるから理不尽にも耐えられた。

 妹も居た。名前は春という。彼女は私とは対称的に、雨竜家の全員に可愛がられた。幼い頃はどうして妹だけが祖父に優しくされるのだろうと不満に思ったこともあるが、それを口にすることは無かった。私だって妹が一番可愛かったから。下手に反抗して春に矛先が向く可能性だってなくはない。祖父の暴力に耐え忍ぶことは、春を守ることに繋がるかもしれない。そう考えて日々をやり過ごした。

 家畜の病気と稀な大雨とで、牧場がめちゃくちゃになったある年。私達は愛内団地に越すことになる。そうして父が炭鉱夫になったのは、私がまだ小学生の頃だった。直接確認したことはないが、恐らくは私を守る為に、両親は職をがらりと変えたのだ。


 越してからしばらくすると、環境の変化についていけなくなったのか、祖父は日に日に弱っていき、危害を加えてくることはなくなった。体格のいい炭鉱夫達に混ざると、絶対的な存在だったはずの祖父が酷く矮小なものに見えた。

 愛内の住民は、年端もいかない子供にきつい言葉を投げ掛けるのを良しとしない人が多い。それが知り合いじゃなかったとしてもだ。外で私を怒鳴りつける祖父に鋭い視線を送る者は少なくなかった。時には諌められることもあり、相手が老婆や線の細い女の時だけ、祖父は唾を飛ばしながら反論した。

 もしかするとというのは、そういうものなのかもしれない。それまで広大な土地の中で、ぽつんと孤立するような家に住んでいたせいで、祖父の蛮行を誰かに見咎められることなんて無かった私は、そこで初めて大勢の中で生きる自分というものを意識した気がする。

 ここでの生活が、私に祖父の醜さを教えてくれたのだ。自分よりも強そうな者であれば、女性にすら反論できない。そんなちっぽけな祖父の心を。ざまぁみろ、心のどこかでそう思っている内に彼は死んだ。


 それから何年も経って中学を卒業した私は、進学することなく、父の手伝いをすることにした。ちなみに、学校は小・中と併設される形で団地の中にあったので、私のような人間は毎年数名出てくる。そういった背景もあり、大体の子供達は高校へと進学していたものの、それほど奇異の目で見られることはなかった。

 元々大して勉強もできず、取り柄も無かった私が進学するメリットが思いつかなかったし、両親も反対しなかった。女の炭鉱夫なんて珍しいと言う人もいたが、体格が良かったせいか、止めてくる人はいなかった。むしろ、炭山やまの男達からは歓迎されていたと思う。祖父が生き返ってこの頃の私に出会ったとしても、おそらくデレッキを振り上げたり怒鳴りつけたりはできないだろう。


 結論から言うと、炭鉱での仕事は私の性に合っていた。黙々と体を動かし、命の危険がすぐ近くにある現場は、私をいきいきとさせた。それはきっと、意味のあることをしていると実感できるからだ。

 最近では一通りの仕事をこなせるようになったと信頼され、一目置かれるようになっていた、と思う。自惚れじゃないことを祈るばかりだ。


 春は高校を卒業してから就職しており、縁談が決まって去年の四月に実家に戻ってきたばかりだった。しかし、その月の終わりに一方的に破談にされてしまっている。気持ちのリハビリも兼ねてと、六月から炭山やまの事務員として働き始めたところだった。


 事故が起こったとき、私はコールピックの運搬を言いつけられ、現場から離れていた。あの爆発が三十分でも前後すれば、私はいま生きていないだろう。

 一号棟の器具庫で振動を感じ、事故の全容が見渡せるところまで辿り着くと、ようやく事態の重大性に気付いた。あの煙はただ事じゃない。振動は爆発によるものだ。二つの要因が瞬時に結ばれ、私は全速力で駆けていた。

 いくら私が急いだとはいえ、二号棟の連中より先んじることはできない。当然だ。私は器具庫から出て、ぐるりと建物の周辺をなぞるように回って、一号棟の正面出入り口からスタートしているのだから。

 その点、奴らは階段を降りるか、下手すればさっと駆け寄るだけでいい。運の悪い奴はそうするまでもなく、爆発に巻き込まれていたかもしれないが。


 とにかく、私は全力を賭したものの、辿り着く頃には、坑道に続く渡り廊下は寿司詰め状態だった。人々の頭の隙間から見えるのはやはり煙。そして凄まじい喧騒の中、前方から聞こえてくるのは悲鳴。煙で咳き込む者も少なくなかった。私が立っていたところまで目に沁みたので、最前列は目や気道を焼かれるような思いだっただろう。

 そして渡り廊下を引き返す人が一人、二人。薄情や腰抜け等ではない。そもそも炭山やまで事故が起こった場合、二次被害や爆発の第二波に備えて、直ちにその場を離れるというのは鉄則だ。

 おそらくこれは炭鉱夫の私だから知っているようなものではなく、この団地に住んでいる者であれば誰でも分かっていることだ。


 だというのに、ここの住人達は、渡り廊下に集まり、人ごみを作った。そして事故が起こったらしいと知ると、代わる代わる譲り合って、その惨状をその目に焼き付けていった。本当に阿呆だと思う。みんな家族想いの阿呆で、私もその内の一人だ。

 坑内に父が。そして、詰所には春がいる。春の職場は、休憩所と併設された事務所で、渡り廊下の向こう側にあったのだ。私は春の無事を確認する為、吐きそうになるくらいに全力で体を動かして、そこに立っていたんだ。


 考えたくない可能性が、胸の中でどんどん広がっていく。人が殺到する渡り廊下を眺めながら、口の中で転がしていた飴を噛み砕いたことを、やけに鮮明に覚えている。全く大人げない。私はただ、やり場のない怒りや焦りを、飴にぶつけたんだ。


 結論から言うと、二人とも死んだ。

 渡り廊下の向こう、事務所内にいた者は誰一人として生き残っていないらしい。


 菱井グループの初動は的確かつ非道なもので、坑道は直ちに封鎖された。渡り廊下以外から中に入れないように設けられていた周辺のバリケードも随分と立派になっており、私達は完全に中の様子を窺う術を失った。

 とりあえずここから同じような事態になることはないだろうと言い残し、あくまで応急処置としてその場を去ったのだ。その後、私達はここに閉じ込められることになるのだが。


 そして、母はここが封鎖されて半年後に死んだ。多分、心筋梗塞だろうって。ここには医者は居ない。だから、素人がああでもないこうでもないと話し合って、それぞれが体験談を語ったりする。

 まぁ、母は元々体が丈夫ではなかったし、一般的な心筋梗塞の症状と照らし合わせて考えても合致する。おそらくは間違いないだろう。


 そういった経緯で、私は一人になった。一人で起きて、一人で支度をして。そうして一人で働いて、帰って一人で寝る。そんな日々を、ただ繰り返す。たまに誰かと一緒に仕事をすることはあるものの、必要な会話を交わすくらいで、コミュニケーションを取ったりはしない。

 仕事も変わった。以前は石炭を掘っていたが、今はなんの変哲もない土を掘っては、かつての仕事では掘った内に入らないくらい浅いところで手を止めて、そこに遺体を安置している。


 そうして私は、今日も今日とてスコップを振るう。

 ざっ、とも、じゃっ、とも聞き取れる、地面を掘る音を響かせながら。

 遺体を埋める為の穴を、掘り続ける。春のことを思い出しながら。



 春を失った苦しみ、悲しみはまだ癒えない。父のことは残念だが、まだ納得できる。炭山やまで働く人間として、互いに心のどこかで覚悟していたことだ。

 しかし、まさか春まで。私にとって彼女は、世界で一番幸せにならなければいけない存在だった。

 あんなつまらない事故で失われていい命ではない。この大事故をつまらないと称するのは、比較しているのが春そのものだからだ。彼女の命を前にすれば、どんな天変地異もちっぽけなものに変わる。

 もう一度会いたい。そんな想いを抱えながら、私は一人で生きている。


 春の夫となる予定だった男が誠実でさえあれば、彼女は事故に巻き込まれることはなかった。今でも考えてしまう。私は二十台半ばまでこの通り独身だが、あの子は違う。皆に望まれて生まれて、愛されて育ったのだ。


 ——まだ結婚したくないから、やっぱり無かったことにして欲しい、って。


 あの日、春は静かに泣いた。春が望むなら、あの不埒者を確実にどうにかしていたと思う。自分で言うのもなんだが、私なんて学も家柄も才能もない、ただのしがない炭鉱夫だ。妹の幸せの絶頂を汚点に変えた男の為に、人生を捨てることなど容易い。

 しかし、そんなことはしなかった。春に止められたから。あんな男の為にお姉ちゃんの人生を台無しにしないでと、泣いて私に抱きついた。その泣き方はもしかすると、捨てられたと私達に告げたときよりも酷かったかもしれない。だから余計なことはせず、彼女の傷が癒えるのを待つのが正しいんだと思うことにした。


 でも、春。教えて欲しい。

 お姉ちゃんの人生ってなんだ。台無しってなんだ。

 こんななんもない人生、どうなったって別にいい。

 違うのかい。


 スコップの先が、土を強く穿つ。

 あの日、春に言われた言葉。もっと自分を大切にしてとか、お姉ちゃんはそんな人じゃない、とか。それらをぶつけられた時の、感情の正体がやっと分かった。

 私は、そんな上等な人間じゃない。台無しになる土台がそもそも無いような、ただの寡黙なろくでなしだ。

 理想を押し付けられているようで、実は息苦しかった。妹への小さな憤りを認めてみると、あの日、春を泣かせた男に報復しなかったことを、やっと後悔できた気がした。


 だけど、それを伝える手段は最早無い。完全に失われてしまった。今更何かを掴んだとしても、全てはもう手遅れなんだ。


 一人になって。

 一人で生きて。

 そして私はきっと、一人で死ぬ。

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