夜と煙とヘルメット Ⅱ

 すっかり墓地として定着した敷地の端で、少年と老婆を埋めた。土がかたく盛られていることを触れて確認すると、私は煙草に火を点けて立ち上がった。

 最近、煙草がだんだん不味くなる。最初は気のせいだと思ったけど、知り合いの炭鉱夫はみんな口を揃えて私の意見に同意してみせた。

 味覚の変化を感じるのはそれだけじゃない。事故が起こる数ヶ月前から、私は甘いものを好むようになっていた。当時、母はやっと女らしいところが出てきたと喜んでいたが、私は自身の変化に戸惑いを隠せなかった。


 くわえ煙草が目にしみて、片目を瞑りながらスコップを持ち上げる。振り返ってみると、夕陽が私の背中を焼いていた。仕事道具を地面に突き刺して、柄の部分に軽く体重をかける。


 風が初夏のようなからりとした匂いを運ぶ。もう7月だと言うのに。むせ返りそうになるほどの青臭さが時折私を襲って、間違いだったとでも言うように、それはどこかへと消えていく。

 何処かから蛙の鳴き声が聞こえて、足元に視線を落としてみる。生い茂った雑草の隙間を跳ねる影を見つけると、ようやく視線を空に戻した。


 夕陽を横切る黒い点が視界に入って、そこでずっとカラスが鳴いていたことに気付く。もしかすると、煙草に火を点ける前からあの鳥達は鳴いていたかもしれない。だけど、なんてことのない風景のような雑音として、意識すらしていなかった。


 そんな小さな気付きを一つ一つ消化して、ぼそりと「平和だ」と呟いてみた。およそここ一、二年で家族が全員死んだ女の発言とは思えないだろう。だけど、私は確かに、この時間を平和だと思ったし、穏やかな心でいる。


 煙草を持つと、ぽいと灰皿の上で離した。仕舞い込まれていた、休憩所に置くような古い灰皿だ。埃かぶっていたものの、吸い殻くらいしか入れるものがないので問題ない。坑内での喫煙はご法度だ。それこそ事故の元になる。誰がこんなものを用意したんだか。まさか、私に使わせる為に置いておいたのだろうか。

 こんな大きな灰皿を一人占めする日が来るとは思わなかった。別に来て欲しくなかったけど。


 肺に残っていた僅かな煙をふぅと吐き出すと、私はスコップを抜いて肩に担いだ。灰皿と一緒にパイプ椅子も一脚持ってきていたけど、そこは簡易的な物置になっており、私が腰掛けることはほとんど無い。だから、立ったままぼんやりするというのは、私にとってはごく自然なことだ。

 夕陽がゆらゆらと燃えながら沈んでいる。私はそれを眺めながら家路につく。仕事をする日は大体同じ景色を見てる。雨が降れば仕事は休み。面倒事を言いつけられる気がするので、そういう日はずっと部屋に籠っている。


 作業が終わったなら、とっとと帰ればいいものを。のんびりと一服などをしていたのには理由がある。今日は十九時から寄り合いで近況報告会という名目の宴会があるのだ。私にはそれが億劫で億劫でたまらない。行かないという選択肢もあるにはあるが、死んだと思われるのも面倒なので、毎回嫌々ながら顔を出している。翌日素知らぬ顔で誰かと挨拶を交わせばその疑惑は晴れるものの、自分のいないところで噂好きな彼らの的になるのは御免だ。団地の中はただでさえ娯楽がないのだから。


 二号棟の三階にある自分の部屋に着くと、無造作に玄関の下駄箱にスコップを立てかけた。これを家の中に入れる気はしない。部屋に戻ったのは、まずは最近の相棒であるこのスコップを置きに来たことと、宴会の必需品を取りにくることだった。


 陽は沈みきり、空の端の端で名残惜しそうにぼんやりとした光を放っている。部屋の中は電気を点けなければ、どこに何があるのか分からないくらい暗かった。

 それでも私はスイッチは押さずに、玄関の棚においてあったそれを引っ掴んで、すぐに鍵をかけた。

 二つもあれば平気だろう。私は作業着の太ももにある大きなポケットにそれらを放り込むと、これまたのんびりとした歩調で寄り合いへと向かった。ポケットに放り込んだのは煙草だった。フィルターを咥えている間は無言でいることを許されるような気がして、不味い不味いと思いながらも、そうやって時間を潰す方を選んでいる。

 誰とも親密になどなりたくない。どうせ死んでしまうのだから。私も他人も。


 こんな仕事をしているせいか、いや、それは言い訳か。とにかく男との浮いた話は一つもない。しかし、それも仕方がないと思う。

 私は髪型を可愛いかどうかではなく、邪魔にならないかどうかで決めるし、休みの日だって父に倣って、翌日の仕事を万全の体調で迎えられるよう、英気を養う為に使うことが多い。

 男勝りな暮らしぶりのせいか、職場の同僚の娘というべきか、父の友人の娘というべきか、知人の同性に言い寄られる場面は多いように思う。といっても平均が分からないけど。普通はきっと経験しないことだし、あったとしても一度や二度だろう。

 よくもまぁ、学校にすらろくに通っていない私が、あれほど多くの同年代の女達と知り合えたものだ。大体は寡黙過ぎる私に遠慮して、疎遠になってしまうのだが。

 炭鉱夫のほとんどは男だ。場所によっては女囚が働かせられている場所もあるようだが、ここは違う。そんな環境で働く私は、良くも悪くも目立つのだ。


 ちなみに、私は恋愛は男とするものと考えており、女をそういう目で見たことはない。これまでに恋という感情を自覚したことはないが、とにかくそういうのじゃない。念の為言っておく。

 こんなのみんなしてるよ、ただのスキンシップだから。そう言われて、同性にキスをせがまれたこともあった。本当は分かっている、そんなこと、普通はしないって。

 ただ、あまり派手に避けても角が立つし、あの時は「それくらいなら」と割り切って考えた。何が面白くてこんなことをするのだろう。唇を重ねながらそう思ったことを覚えている。向こうもそれ以上は望まない。おそらくそこがデッドラインだと分かっているから。

 むしろ、私がその嘘に触れてしまえば、YESかNOではっきりと返事をしなければいけない気がして、そう言った意味でも気が進まなかった。

 しつこく私に拘る女もいれば、脈がないことがわかると、さっさと結婚した女もいた。いや、これは言い方が悪い。きっと、結婚は元々決まっていて、最後の火遊びの相手に私を選ぼうとしたのだろう。確かに、相手が同性の方が何かと動きやすそうだ、正直賢いと思った。


 ほとんど暗くなった団地の中、蛍光灯の明かりが灯っている。ばちばちと明滅を繰り返しては、虫の気を引いたり引かなかったりするものも増えてきた。しかし、配給物資に蛍光灯はない。まぁよほど上手く投下しないと砕けそうだしな。

 食料や生活雑貨については配給されているが、設備関係の消耗品ばかりはどうにもならないことが多い。私達同様、建物もあの奇妙なガスに侵されているに違いなかった。ここの設備の灯火が消えるが先か、私達が全滅するが先か。どちらが先かは分からないが、結論が出るのは、そう遠くない未来のことだろう。


 寄り合い所が近付くに連れて、私の足取りは重くなっていた。傍目に見れば分からないだろう。重くなった分だけ、私は脚に力を込めて、普段通り振る舞っているのだから。

 商店街の端、二号棟側の拓けたところに寄り合い所はあった。赤く塗られた屋根が、色あせて白っぽくなっている。数年前から塗り直しを検討されていたらしいという噂を耳にしたことがあるが、上の連中は後回しにして結局今日まできた。しかし、珍しく上の判断が正しかったということになる。ここはいずれ廃墟になるのだから。

 一階建ての、ただ広いだけの建物。広間と簡易的な台所とトイレ以外、何もない。まだ完全に陽が落ちきっていないというのに、窓からは明かりが漏れ、大人げない馬鹿騒ぎの声が響いてくる。上手く行けば二時間、妙なのに捕まれば四時間は外に出られなくなる。

 寄り合いの入口にはスタンド式の灰皿が設置されており、私はいつもここで一服してから中に入る。酒の席だ、禁煙になることはないだろう。よほどこの会合が面倒らしいと改めて自覚して、なんだか可笑しくなってくる。まるで子供だ。誰にも気付かれないように、煙草を持つ手で口元を隠すと、小さく笑った。

 名残惜しむように空を見上げると、明星を視界の真ん中に収めて、ゆっくりと煙を吐き出す。


 この会合に積極的に参加する連中はどういう気持ちなんだろう。

 どうせ死んでしまうなら、めいっぱい楽しんで死にたいということだろうか。

 私に言えるのは、こんなことを楽しめる人間はまだしばらく大丈夫だ、ということだけだ。

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