旗と砂
暗い空間で砂を崩していく夢を見る。
間接照明のような灯りで照らされる空間。真っ赤な何かに濡れている砂。なだらかな山の頂上には不釣り合いなほど長い旗が刺さっている。周りには何もない。
私はその場を去ることも出来ない。いや、行く気にならない催眠術をかけられているような感じがすると表現した方が適切だ。私はその砂を少しずつ削ぎ落としていく。それ以外のことは何もする気が起きない。
団地が封鎖されて、ガスの影響で身体が自分の思惑を無視して反応するようになってから見るようになった夢。
最初は何を意味しているのか分からなかった。ただ小さくなっていく山を他人事のように眺めて、不安定な旗がなんとか倒れずに留まっている様から、なんとなく目を離せずにいるだけだった。
手を真っ赤にしながら、だけど止められない。旗が倒れたときに何が起こるかなんて分からないのに、私は懲りずに手を伸ばす。手の内に少しの砂を忍ばせて腕を引く。指の隙間を埋めるように、じっとりと湿った砂が入り込む感触がいやにリアルだ。
目が覚めて、夢を振り払うように生活をして。眠りに就くと、この楽しくもない遊びの続きを強要される。
初めて夢を見た日から、山は随分と小さくなった。ある日、夢の中で私は気付いた。この赤い砂の山は
だとしたらこの旗はなんだ。いや、夢に意味を求めるなんてきっと間違ってる。これは意味のないイメージだ。だって、これじゃ私がこの団地の人達を間引いているみたいじゃないか。それは絶対に無い。
こんなとき、相談できる人が一人でもいたら良かったのに。私の知り合いはもう誰も生き残っていない。唯一思い当たるのは、姉の同級生だった桂沢さん。栗山さんの雑貨屋を手伝っていたけど、最近は若い子にお店の鍵ごと預けて、栗山さん諸共消えてしまった。彼女達もまた、崩した砂の一部だったのかもしれない。
だから私は一人でこの奇妙な夢と向き合い続けている。配給物資を探している間も、食事をしている間も。誰かに戯れに話しかけられて、愛想笑いしている間も。
あの夢は私の気分が落ち込むと見やすくなる。ここ最近毎日見ているのは、きっと三國が二号棟の長になると決まったからだ。
最近、三國の気色悪い視線から逃げることが増えた。あれはもう駄目だ。昔は面倒見のいいおじさんだと思っていた。姉のことも可愛がってくれていた。だけど、やっぱり駄目だ。あの舐めるような視線を見る度に、かつて私達に良くしてくれたことも、下心からの行動だったのではと思えてくる。
酒に酔うと人間の本性が出るなんて言うけど、この団地の中で酒に溺れる人間は潰れて物言わぬ飲んだくれになる傾向にあるので、あまり印象は悪くならない。ガスとの相乗効果なのかは分からないけど。危害を加えてくる可能性のある人間と、耄碌した人間だったら、後者の方がずっとマシだ。
昔は酒に酔った三國の息が臭くて好きじゃなかったけど、今の三國には死ぬまで酒を浴び続けて欲しい。そうするべきなんだ。あの人の為にも。これ以上醜態を晒す前に死んだ方がいい、本当に。
もしかしたら存在しているかもしれない彼の尊厳の為、と言えば聞こえはいいが、私は誰かが被害に遭うのを恐れ、自分がその被害者になるのを避ける為に彼の死を望んでいる。
それでも、彼を殺す勇気なんて無い。だからそっと死んで欲しかった。今日死んでくれたら、もしかしたら記憶の中の、面倒見のいいおじさんとして弔ってあげられるかもしれない。
「死にそう。いっそ死ねばいいのか」
私は自室の壁に背を付けて、天井と壁のつなぎ目をじっと見ていた。何かがある訳じゃない。何もないから目を瞑る代わりに適当なところに視線を置いているだけだ。だから今の私は何も見ていないとも言える。
何もすることは無いけど、眠ってしまえば、あの砂崩しが再開する。それは予感ではなく確信だった。どんどん減っていく砂を懲りずにまた引き寄せて、そろそろあの旗が倒れる頃だろう。それを目の当たりにすることは、なんとなくマズいことだって思ってる。いや、分かってる。
傍らに置いたチョコレートと封の切っていないラム酒。どちらもとびきり甘いものだと教えてくれたのは、誰だっけ。仲の良い誰かだった。そんな人のことすらまともに思い出せないのに、嫌な事は頭から消えてくれない。この融通の利かない脳味噌が嫌いで仕方がなかった。
「……あぁ」
そうだ。栗山さんだ。桂沢さん共々居なくなった彼女。消えた理由を詮索するほど野暮じゃない。でもきっと、きっとどっかで死んでる。
私はすぐ横に転がっているお菓子を手に取った。そして包みを取って、チョコを口に入れる。これが美味しいのは既に分かりきった事だ。待ち焦がれた、脳が痺れる感覚をあざ笑うように、ラム酒を傾けた。温い液体が口の端を伝っていく。
「……もう、嫌」
眠ってはいない筈だ。だというのに、私の手はまた砂をかいていた。意識が飛んだのだろう。だからと言って、眠ってもいない内にこんなところに飛んでこなくても良かったのに。
もう二度と見たくないと思っていた光景の中で、何度も繰り返した作業を続ける。旗が大きく傾く。それでも手を止めない。やめてと口にすることすらできない。私は決められた動作を組み込まれた機械のように、ペースを崩さずにただ繰り返す。
発狂できたら、どれほど良かっただろうか。生憎そんな元気は既に残っていない。ざくりと砂に手を埋めると、旗が震えたように見えた。当然、体は止まらない。
「あ」
旗が倒れる。だけど、それだけ。何も起こらない。夢から覚めることもなければ、意識が途絶える事もない。
しばらくして、体が自由に動かせることに気付いた。立ち上がって砂を踏んで旗に近付く。そこで私は、自分が裸足だと初めて知った。濡れた砂を踏む感触は久々で、子供の頃に行った海水浴を想起させた。
「……かる」
意味深に私の心を脅かし続けた旗は存外軽かった。私はそれを胸に抱いて、赤い砂の真ん中に腰を下ろす。
そうして不意に理解した。きっと私の意識が現実に戻ることはもう無い、と。
「あーあ」
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