夜と煙とベルベット Ⅴ
目が覚めると夜だった。
数時間か数日か、どれくらい寝ていたのかは分からない。分かったとしても、今となってはどうでもいいことだが。何故か点いている部屋の明かりがいつから点いているのも分からない有様だ。こうして目覚める前に一度起きていて、その時に点けたのかも知れないし、もしかすると私が初めて七枝さんにナイフを突き立てた時から点いていたのかも知れない。何れにせよ、それも今となってはどうでもいいことだった。
意識がゆるゆると覚醒していく。この期に及んで目覚められる自分の体の頑丈さに内心で驚きながら隣を見ると、至る所が血塗れになって青白い顔をした七枝さんが横になっていた。
胸が上下しているので、彼女もまた眠っているだけだろう。心からほっとして、すぐにぞっとした。彼女を慮る気持ちは偽りではないが、その中に交じる「もう大切な人に残されたくない」という気持ちの強さに気付いてしまったから。
天井に手を翳してみると、私の手も似たようなものだった。手に付いた赤茶けた部分を銜えると、舌で溶かして味わうように唾を飲む。傷口から直接摂取するそれには劣るが、普通の食事とは比べ物にならないくらい美味だった。
自己嫌悪に耽るということすら、この先に人生が続く人間にのみ許された贅沢なんだと思い知りながら、私は自分の唾液と七枝さんの血液を混ぜて嚥む。
「幾さん、目が覚めたんですね」
「はい」
お互いに衣類を着ているところを見ると、一般的に言われる不貞行為は無かったのだろう。だけど、意識を失う前、私たちは確かに一線を越えた。
視界が霞む。視野がまた狭くなっている。ここまで来ると、少しだけ見えていると表現した方が適切かもしれない。さらに、翳しているだけの手がやけに重い。
きっと私は、もうじき死ぬ。
だけど不思議と、焦りや恐怖はなかった。
「幾さん。私、やっぱり後悔してません」
この人は、強情な人だ。私に殺される覚悟があった彼女を後悔させることなど、元より不可能だったのだろう。例え私が彼女に性的な意味で触れたとしても、きっと彼女は同じことを言った筈だ。
だから言った。そういえば一度も口にしてなかったなんて思い出しながら。
「私も。後悔してませんよ」
それを聞くと彼女は控えめに笑った。どんな意味で彼女が目尻に涙を浮かべているのかは分からないが、死の間際に笑ってもらえるなら、なんだっていいと思った。
ポケットを弄り、煙草を取り出して銜える。ライターを扱うだけの握力が今の自分にあるのかなんて考えて周囲を見渡してみると、近くにナイフが転がっているのが見えた。
壁に刺さっていたはずの凶器。それを引き抜いたのはどちらだろう。いや、そんなことはどうだっていい。私は手を伸ばしてそれを手に取ると、まじまじと観察した。刃と柄の両方に血痕が付着している。知らぬ間に起こったことを想像させるには十分だった。
「七枝さん、滅茶苦茶にしてしまったついでに、もう一ついいですか」
「ふふ、どうぞ」
私は寝転がったまま彼女の手を取る。七枝さんは、これから自分が何をされるのかを分かってるくせに、何も知らないという顔でこちらを見つめている。これまでの自分なら、その視線だけで欲求が萎えていたかもしれない。いや、萎えていたと言うよりも、押し殺していたと言う方が適切か。
だけど、死の淵に立った私は、預かった手のひらをいとも容易くナイフで切った。紙の上にペンを滑らせるような調子で、何のリスクや痛みを伴わないというような顔で。ほとんど知らないはずなのに、彼女の体を斬り付けるという行為は、私の体によく馴染んでいる気がした。
傷付けた箇所を教えるように、手のひらに一直線に赤が滲んですぐに広がる。口に含みたいと思わなかったと言えば嘘になるが、私は寸でのところで私という人間らしさを優先させることができた。
煙草の燃焼部分に彼女の血を吸わせて、乾くのを待ってから火を点けた。口内を押し広げるような甘味がゆるりと私の喉元を通り過ぎていく。たっぷり余韻を味わった後で煙を吐き出すと呟いた。
「美味い……最初から、こうしてればよかったな」
「それ、私も欲しい」
「いいですよ」
私は自分の手のひらを切って、気が狂っているとしか思えない煙草をもう一つ作ると、彼女の口元に運んだ。作り物のように重たくなったフリンジをやっとの思いで回転させると、小気味よい音が鳴って火が点く。
もしかすると人生で最も多く聞いた音だったかもしれないそれに一抹の寂しさを覚えて、だけど煙草の先端がじわりと赤く光るのを見届けると親指を離した。彼女は深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
「本当だ。美味しい」
その味に驚く彼女に、私はあえて「だろ」と相づちを打つ。七枝さんははっとして私を見た。目が合って、照れ臭くなって誤魔化すように笑った。
「もう、一線越えてしまったようなものだ。この期に及んで敬語で話すのは、自分のしたことに目を背けているような気がした」
「なるほど。そうかもね」
噛みしめるようにそう言うと、七枝さんは再びフィルターに口を付けた。彼女の呼吸に混じって、じりと煙草が燃焼する音が部屋に響く。
「でも、今更ちょっと、違和感あるかも」
「七枝さんが嫌でも戻すつもりはない」
「なぁんだ、さん付けなんだ」
小馬鹿にするように笑う彼女の顔に煙を吹きかけると、私も笑った。
私が死ぬときも他の者と同様に、人語を話せなくなって、自分が誰かも分からない状態で死ぬものだとばかり思っていた。しかし、それは間違っていたようだ。
さっき出来たことが、もう出来ない。その辺に転がっているであろうライターで火を点けることすら難しいだろう。試すまでもなく分かった。どんどんと意識が遠のいていく。これがガス中毒者の体液を過剰摂取した者の末路ということだ。
当然だが、体液には限りがある。一度に大量の体液を体に取り入れることは難しい。三号棟にはそれを求めてゾンビのように徘徊する者達がいたらしいが、あれらは少量の体液をこまめに摂取した弊害なのだろう。今となっては確かめる術はおろか、この仮説を誰かに伝える術すら無いのだが。
もし私の憶測が合っていたとするなら、私は春のおかげで生き、七枝さんのおかげで自分のままで死ぬことができる、ということになる。
二人には、感謝してもしきれない。特に私なんかの為に全てを
私は七枝さんの胸の上に手を置いて言った。この煙草が燃え尽きるまで、生きていられるのだろうか。そんな言葉を飲み込みながら。
「ここに」
「いいの?」
「いいさ。私が七枝さんにしたことに比べれば、安いもんだ」
自分を傷付けたいという意図はない。ただ、もう起き上がれるような状態じゃなかっただけだ。灰皿を持ってくると言い出さないところを見ると、彼女も私と同じような状態なのだろう。
「じゃあ失礼して」なんて言って彼女は灰を落とす。あからさまに作り物の明るい声色に、和んだような表情を作る。直後、手のひらに鈍い痛みが走った。
「あっつ」
「馬鹿ね、当たり前でしょ」
だけど、我慢できないというほどではない。平時なら手を振って痛みをやり過ごしていただろうが、今の私はもう終わりかけている。おかげで感覚まで鈍くなっているようだ。彼女の胸の上にあった腕を少し引き寄せた。
七枝さんが敬語を使わなくなった違和感は私も感じている。でも、それでいい。
「次に生まれて来るときも、七枝さんと出会いたい」
「また冗談でしょう」
「はは。そうだな、私の冗談はいつも分かりにくいと怒られる」
手に運ぶ前に、灰は胸に落ちた。それでも構わず、私は左手に持っていた煙草を、彼女との間に置いた右手に乗せた。何かを察した彼女も、私の手の上でそっと煙草を離す。
「……だけど、今のは本気だ」
まだ煙を上げている煙草を握り潰すと、私は目を閉じた。
手中にある煙草が、静かに死にゆくこの団地で暮らす私達みたいだと思った。
燻っていた火種が私の手のひらを焦がしても、決して開くことは無い。
拳に七枝さんの手が重なった気がする。
多分、幸せな人生だったと思う。
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