風と共に去りぬ Ⅰ


 狭い空間。お互いの膝や肘をぶつけて。

 痛みを感じながら気持ち良くなって。

 昼夜問わず真っ暗な場所に閉じこもって。

 身体の中心を目指して這う指に真っ白になる。


 それ以外のことは考えられなくなっていた。いや、考えようとしなかった。それは偏に私の弱さのせいだ。自分の思考能力がどれほど衰えているのか、知るのが怖い。


 今更羞恥心なんて消え失せているだろうに、夕に何をして欲しいのか、上手く伝えられないときとか。身体を休ませたいと思っている筈なのに、あと少しと手を伸ばしてしまうときとか。

 夕と体を重ねていると、ガスの影響で自分が狂い始めているのか、別の要因で自分がおかしくなっているのか分からなくなってくる。私の首筋に舌を這わせる夕をなんとか制止すると脱力した。重力に引っ張られた私の身体は夕にしなだれ掛かる。


 ——あぁ、夕の上に乗ってたんだ、私


 向き合うようにして上に乗っていたんだということを、愛撫が止んでから知る。前後不覚ってこういうことを言うんだって知って、別に知りたくなかったって考える。


「三笠、疲れた?」

「っばか」


 夕の背中に回していた手を開いて、そのまま素肌を軽く叩いた。やめてって分かるように拒んだのに、私の身体を割って挿入っている指が茶化すように深いところを突いてきたから。

 私が疲れたと言っても夕は止めない。それはここで最後を迎えることを決めてから、身体に教え込まれたことだ。いやというほど。


 夕が千歳ちゃんに雑貨屋の鍵を預けた翌日の深夜。夕と一緒に雑貨屋の裏口を予備の鍵で開けた。携帯食料や水、カップ麺にコンロ。そういった、で最期を迎える為に必要になりそうな一式を運び込んだのだ。

 私達がどれくらい生きるのかは分からないし、必要以上に物資を移動させるのも憚られた。それは良心からの罪悪感だったけど、現存する生き残りが本気を出してもここの備蓄を消費するのは難しいんじゃないかと夕に言われて、その通りだと気付いて。結局あまり気にしないことにした。

 結局私達は何往復かして物資を運び込むことになった。そうしてシアターの後ろの方、いくつかの座席の上には、消費されるかも分からない食料達が鎮座している。


「ねぇ、三笠。言う気になった?」

「はぁ……?」


 とぼけている訳ではない。どんな言葉を催促されているのか、本気で覚えていなかった。できれば言ってしまいたい。夕の気が済むようにしないと、焦らすように私の中で蠢いている指がまた悪さをする。その動きは私に忘れられないように、最低限の自己主張をしていた。

 少し前に投げかけられた筈の言葉を思い出そうと沈黙していたけど、きっともう一度言ってくれないと私は思い出せない。考える事も億劫になって、熱い息を吐き出している唇を貪った。口付けの最中、強情だね、そんな言葉が耳をすり抜けたけど、聞こえないふりをした。


 数え切れない絶頂のあとで、私はコンクリートの床に直に背を付けて息を整えようとしていた。胸が上下しているのが自分でも分かる。すぐ横には壁を背にした夕が居る。裸体に毛布をかけてぼんやりとしている私は、傍から見たら滑稽に映ることだろう。夕にすら見られたくない。

 幸いだったのはここが暗室ということだ。電気を消した部屋の中では、互いの気配ばかりが浮き彫りになって、視覚は一切用をなさない。こんなはしたない格好で寝転んでいても、見咎める者も直視する者もいなかった。

 冷たかった床に私の熱が伝わって、すぐに何も感じなくなる。体を少し傾けると、そこだけが冷たくて、少し気持ちいい。少し前、夕に「夏場の猫みたいだね」と言われたっけ。

 汚いという考えはとうに消えていた。初めはもちろん抵抗があったけど、布団も無ければ元よりそんなものを敷くスペースも無い。あるのは毛布として使用させてもらっている、ナエさんの残した膝掛けだけだ。

 映画館で終わることを決めた日から、私達はこの部屋で寝泊まりをしていた。くたくたになるまで抱き合って、意識を手放すように眠ってしまうから着衣することすら放棄している。寒いと感じたら、その時だけ膝掛けやどちらかが脱ぎ散らかした服を毛布代わりにしてしのいでいる。ガスの影響か、寒さを感じることなんてほとんど無かったけど。


「私も寝ようかな」

「そう」


 夕はずるずると体を滑らせて横になると、私の身体を抱き寄せた。おかしくなってしまった私達はこうしているだけで十分暖が取れる。顔の上をおもむろに通過する腕の為に頭を少し上げて、腕が収まったらゆっくりと下ろした。そうして一部の隙もなく密着すると、夕の息で髪が僅かに揺れるのを感じる。


「結局、言ってくれなかったね」


 私達のセックスには終わりも始まりもなかった。こうして漸く寝ようとしてるところで夕の悪い虫が疼くこともあれば、全然起きようとしない夕に私がちょっかいをかけることもある。強いて言うなら、食事と睡眠の時以外はずっとしてる、それが最も近い表現だ。そしてそれがそのまま私達の日常と化している。だから、夕がこんな問答をしたがるのはイレギュラー以外の何物でもなかった。


「……ごめん、何の話だっけ。それ」

「本気で言ってる?」

「……ごめん」


 二度謝ると、私が真面目に言っていると察したようだ。夕は責めたりしなかったけど、その代わり大きくため息をついた。


「私のこと好き? って。聞いた」

「……そう」


 全然覚えてない。本当に、ここが暗室で良かった。今の私の顔を夕が見ていたら、さらに機嫌を損ねていたと思う。

 そんな面倒なことを訊いていたのか、というのが正直な感想。ドラマなんかで観たことがあるその問いかけは、私には一生縁のないものだと思っていた。百歩譲って、あったとしても私が言う側かと。まさか言いたくなる心境よりも先に、答えに窮する立場を知ることになるとは思わなかった。


 聞かなきゃ良かった。曖昧に返事をして寝てしまえばよかったのに。こうなったら答えないと不自然になる。嘘は言いたくないけど、夕を傷付けることもしたくない。ここにきて、人生経験の薄っぺらさを痛感することになるなんて。

 私は夕の胸に顔を付けるようにしてぴったりとくっついた。汗ばんだ肌がしっとりと私の鼻と頬に密着する。甘い匂いにくらくらして、夕が寝る前にもう一度求めてきても応じてしまうんだろうな、と予感する。

 暗い部屋の中とはいえ、夕の視線がこちらに向けられているのは分かっていたから、逃れるようにそうした。居心地が悪かった。肌を重ねるに値する気持ちを持ち合わせてここにいるのは、きっと夕だけだから。でも、私をこうしたのは夕でしょ。なのに……。

 夕だって、好きとか、そんなんじゃないでしょ。そう言って、肯定してもらいたかった。だけど、真剣に問う姿勢そのものが夕の私への執着を裏付けている気がして、そんな軽口叩けなかった。

 私のことなんて、好きにならなくていいのに。身体だけを見て。中身なんて、汚くて醜くて、みっともなくてどうしょうもない、ただのクズなんだから。夕が私の全部を欲しがっても、あげ方が分からない。


「……いいよ。言わなくて」

「え……?」

「毎日ごめんね、同じことばっか聞いて。……したっけ、おやすみ」

「……おやすみ」


 同じこと。夕はそう言った。

 私は、初めて聞いたつもりでいたのに。


 有り得ないって思うのに、心の何処かでは腑に落ちていた。彼女の諦めの良さを考えると、私はこうして毎夜夕の言葉をはぐらかしてきたのだろう。

 今日も言ってもらえなかった、そんな調子で夕は私の額にキスをして、それから喋らなくなった。規則正しい寝息が耳元を掠めても、私は暗闇の中で目を開けていた。


 ナエさんは言っていた。

 ボケは怖い。忘れるということは、とても恐ろしいことだ、と。

 私もそう思う。

 いつか彼女のそんな言葉すら忘れてしまいそうで、それが怖い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る