風と共に去りぬ Ⅱ

 私達はシアターの座席に並んで座っていた。スクリーンには当然何も映ってなくて、マジックテープで固定できるようになっているカーテンを開け放した窓からは、映画館らしからぬ光が差している。

 多分、お昼どき。感覚的に朝でない事は分かる。自分達の座席の前にパイプ椅子を設置して、その上に乗せたカセットコンロを見つめていた。すごく危ない使い方だ。これから死にゆく身でもない限り、絶対にやらないと思う。

 コンロの火は上に乗っている薬缶やかんを容赦なく煽り立てて、悲鳴を上げさせようとしていた。私としては早く上がって欲しい。食事なんてどうだっていいけど、これは一日のノルマだから。カップ麺なんて食べたくもなんともないけど、食事しなきゃ夕と過ごせないから仕方なく食べてる。その為にお湯が沸けるまでの無意味な数分間と、お湯を注いでからの無意味な三分間と、食べ終わるまでの無意味な時間を甘んじて過ごしてやろうと思っているに過ぎない。

 今日は夕に激しくして欲しい。そんな気分で、ごうごうと音を立てている火を見つめていた。


「ねぇ、三笠」

「何」

「えっちなこと考えてるしょ」

「……うん」


 私が素直に認めると、夕は目を丸くして何度も瞬きをした。そんな顔できるんだ。というか、夕は私のことなんだと思っているんだろう。こんなに身体を重ねても尚、清廉潔白な女だと思ってるならすごいけど。ちなみに私は私のことを、肉欲に負けた頭の弱い淫靡なレズビアンだと思っている。

 いや、もしかしたら……私を求めてくれる人なら誰でも良かったのかもしれない。自分を卑下してもデメリットしかないと分かってはいるけど、夕に傷付けられた私が他の誰かに慰められるという、あったかもしれない未来のことを考えてみると、そんな風に思わずにはいられなかった。でも、それを言うと多分夕は怒るから、黙っておく。


 場違いな音が響いて、思考をこの場へと引き戻される。用意していたカップ麺にそれぞれお湯を注いで、それから私は倒れないように容器を膝の上で支えていた。あんまりちゃんと持たないのは熱いから。どこかに置ければいいんだけど、座席の椅子は柔らかくなっているし、パイプ椅子の上もコンロのおかげでスペースが無い。床に置くのも嫌なので、私はこうして持ったまま三分待っている。

 夕はお湯を入れたらすぐに床に置いて、さらに靴を脱いで座席の上で胡座をかいている。長い脚が座席からはみ出して、膝が私の太ももに重なっていた。


「こしょばい」

「いっしょ」

「……ぶっかったっけ夕にもお湯掛からさるから。気を付けなね」

「はいはい」


 私と夕は痛覚がちゃんと残ってるから、火傷はご免被りたい。痛みを感じなくなって、それに伴って何かに触れてる感覚が消えたり、鈍感になっちゃう人もいるらしいけど。それって、どんな感じなんだろう。

 お湯を注いだカップの縁を支える手に湯気がかかっている。これだけでもかなり熱い。横から視線を感じる。私が夕を見たら必ず視線がぶつかると分かっているから、あえてカップ麺の蓋を見続けた。


「私。夕が痛くするの。嫌なの」

「……なに、急に」

「嫌だけど。そのおかげで気持ちいいのが、もっと深くなる気がして。嫌いではないって思ってる」


 夕は私をまじまじと見つめていた。彼女の頭には、トレードマークになっていたキャップはもう無い。この部屋に入ってすぐにしなくなった。当たり前だ。服ですらすぐに脱ぐ私達が、装飾品である何かをわざわざ身につけることなんて、きっともうない。

 前髪が掛かったつり目が、じっとりと私を見つめている。その視線の意味が分からないほど、私は子供じゃない。

 胸元を這う視線をあざ笑いながら、私は箸を割った。夕は箸を口に咥えて片手で割ると、床に放置していたカップ麺を持ち上げた。裸体が暗室の床にべったりと付いてしまうのはどうでもよくなったけど、蓋が開いた状態で床に数分置かれたカップ麺を食べるのは、私は嫌だ。自分でも不思議だけど。

 髪を耳にかけてもそもそと麺を啜っていると、夕の遠慮というか配慮のない視線がもろに自分を捉えていることに気付いた。軽蔑するような視線を向けても、彼女はお構い無しに私を視姦し続ける。きっと夕の頭の中の私は、あられもない格好で彼女の名前を呼んでいるのだろう。泣いたり、悦んだりしながら。


「食べないの? 伸びるよ」

「いま食べようとしてたところだし」


 きっとさっきの私も、今の夕と同じような目をしていたのだろう。私だって、この瞬間に夕に話し掛けようと思ったら「えっちなこと考えてるでしょ」って訊く。だけどそれだけじゃ面白みがない。私は本当に、この”食事”という行為に嫌気が差していて、楽しめる何かを探していた。

 口の中を無意味なもので満たされるのを感じながら、これが夕の舌だったらいいのにと思う。この取り留めもない日々を少しでも長引かせたかったら、私達はこれ以上身体を重ねるべきではないって、分かってる。自殺願望があるわけじゃない、ただ命なんてどうでもよくなるくらい渇望していることがあるだけ。私の身体はそう教え込まれてしまった。知らなければもう少し長生きできたであろう禁忌を。


「ねぇ夕」

「んー?」

「早く、したい」

「……私、結構単純だから。あんまり煽ったっけ食事抜きになるよ」

「そんな前置きする余裕はあるんだ」


 そう言って笑って、また麺を啜る。美味しくないんじゃない、はっきり言って不味い。引きこもりだった時は嫌いじゃなかったんだけどな。

 少し前まで、私の身体は得体の知れない何かに作り変えられているような感覚でいた。だけど今は違う。そんな段階はとっくに通り過ぎて、この命は着地点を探してるんだって分かる。

 私はなんとか食べ切った。だけど夕が持ってる容器からはまだ中身が覗いていて、箸が刺さったままのそれを床に置いたのを、この目で確かに見た。次に夕が手を伸ばしたのは、食べかけのカップ麺じゃなくて私だった。

 拒む理由はない。スープを全部飲めとは言わないけどそれ以外は全部食べてからにしてよって、一応夕の為に思わなくは無かったけど、言わなかった。


 座席を区切る手摺りが邪魔だ。私達を隔てる物は全て邪魔だけど。今はこれが特に邪魔。私は椅子に横向きに座って、夕に身体を開いていた。片脚を背もたれに掛けて、膝の裏が少し痛いけど、どうせすぐに気にならなくなる。腰を少し浮かせて下着を剥ぎ取られるのを待つ間だけ、私はその僅かな痛みに集中した。


「三笠、今日はずっとこんな感じなの?」

「は、何が?」

「すっごい濡れてる」


 夕が覆い被さってきて、口を塞がれて、足が痛くて、なのにやっぱり気持ちいい。これ絶対後でしばらく痛いやつだ、とは思ったけど、今の私は快楽を貪るのに忙しい。

 最近は、つい先程まで自分の中に埋まっていた指を舐める行為にも慣れてきた。と言っても、ほとんど夕が舐めちゃうけど。夕にとって、私との性行為の意味の大部分を占めているのだから、当然と言えば当然だ。そこで私はふと気付いた。


「夕。ジーンズ、脱いで」

「え……」

「早く」


 待ちきれなくて、私は身体を起こして座席に膝を付いていた夕の腰を抱いた。そのままジーンズのボタンを外して、ジッパーを口で下ろす。積極的な私に夕は困惑してたけど、気付かないふりをした。私が何をしようとしているのか察したのだろう。夕は大きな声で私を制止した。これまで私の声を無視してきた人の声を、私が聞き入れるとでも思ったのだろうか。

 バランスを崩した夕が大きな音を立てて床に転がる。多分カップ麺はその下敷きになってるけど、今更火傷するとも思えないからほっといた。食べ残しの上に無様に転がる身体を見下ろすと、私の中に眠っていた嗜虐心に火が点くのがわかった。

 心配する言葉一つ掛けることなく、夕の下半身を露わにした。その辺に服を投げ捨てて脚の間に割って入る。夕、こんな楽しいことしてたんだ。ちょっとムカつく。

 初めて舌を這わすそこに抵抗は無かった。というか、そんなことは夕の体液が忘れさせた。この誘惑に勝てる人間が団地内にまだいるなら、お目にかかってみたいものだとすら思う。

 はしたない音が私を責めるように頭の中に響くけど、どうでもいい。ひくついてる穴に舌を埋めると、夕が私の髪を掴んで「待って」なんて言いながら喘いだ。女の身体がこんなに正直なものだなんて思わなかった。夕が私の言葉を無視する意味が、ようやく理解できた気がする。


「ね、せめてさ、脚……こっち、向けてよ」

「やだ」

「けち」

「夕も少しはおあずけを覚えた方がいいよ。ムカつくから」

「何、それ」


 夕は強がって普通に話そうとしてるけど、私の息がかかるだけで身を捩っている。このままイカせるのは癪だけど、溢れる蜜を貪るのを止める手段を、私は知らない。


 気付くと、私と夕は寝転んでシアターの天井を眺めていた。スクリーンを見る為の空間でこんなことをしたのは私たちが初めてなんじゃないかなんて馬鹿なことを考えていると、夕はぽつりと言った。


「今更だけどさ。私で良かったの?」

「何が?」

「その、そういう相手として」

「別に、私が夕を選んだわけじゃないし」


 今日は頭が冴えている。夕が投げかけた「好き?」という中学生みたいな言葉をちゃんと覚えているのだから。その延長線上の問答とも思えたけど、今の彼女にはもう少し後ろ暗い気持ちがあるようにも思えた。


「結果的にはそうなったけど、先に私を選んだのはそっち」

「……まあ、そうだけど」

「私はそれでいっかって思ったから、最期まで夕と居る。それじゃ不満なの?」


 結局、今日も私は夕に好きという言葉を告げる事は無かった。

 恥ずかしがっているつもりはない。

 ただ、なんとなくその言葉は避けたいと思った。


 私の複雑な心境なんて知らない夕は笑った。

 歌声のような、優しい声だった。


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