来ないのは朝と待ち人 Ⅱ

 私は当て所もなく商店街を歩いていた。ほとんどの店がシャッターを下ろしているけど、人通りがあってなんとなく安心できるから、こうしてたまにぶらついている。

 今日の当番は見回りだった。代田さんのように動けなくなっている人に声を掛けたりする、比較的簡単な仕事だ。二号棟の二階と三階を歩き回って、ドアをノックして声掛けをして。有り難いことに不審な人物や手を貸す必要のある人はいなかったので、こうして暇を持て余している。


 よほど特殊な状況でもない限り、捜索によって回収された配給物資は、仕分け当番のところに行く。その後、商店街の生活雑貨屋だった店で、不公平なく分配されることになっているのだ。

 ちなみにっていうのは、例えば薬が中に入ってて、すぐに必要なときとか。ほとんど発生しないし、私自身は一度もそんなシチュエーションにお目にかかったことがないから、極めて稀なことだと思ってるけど。

 商店街があるのは二号棟と一号棟の近く。離れたところに位置する三号棟の住民からは反対の声が上がったらしいけど、他に適当な場所が無いので、彼らも最終的には了承したとか。無闇に他の号棟には立ち入らないように、という取り決めがある中、商店街は中立地帯のようになっていた。


 気味の悪い中年と共に物資捜索の当番をこなした私が、報酬として板チョコを二枚受け取ったのは三日前のこと。

 捜索に出たときは優先的に配給を受けることができるので、私はよほど急ぎの物が無い限り、この当番の時にまとめて必要なものを貰うことにしている。

 各棟や商店街の責任者達が話し合っただけあって、この団地内に出来上がったシステムはかなり理に適っていた。当番をこなすとメリットがあるようにし、サボりが出ないようにしているのだ。体調を崩したときは特例として、同じだけの対価を受け取ることができる。

 私も風邪を引いて参加できなかったことがあるけど、その時は快く休ませてくれた。体調が戻った日は、休んでしまった罪悪感やら謝意やらで、いつも以上に張り切った気がする。

 多分、そういう気持ちになるのも、上の人達は計算づくなんだと思う。元々炭鉱夫のシフトや作業の割り振りを決めていた人達だ、さすがに手慣れている。


 私達がこうして一から仕組みを作り直し、それに従うことになったのは、とある物が価値を失い、ほとんどゴミのような何かになってしまったからだ。

 それは紙幣。ここに閉じ込められ、外に出られる見込みがないと分かると、真っ先に”いらないもの”になった。


 身も蓋もない言い方をするけど、労働というのは賃金を得る為のものだと思う。仕事に生き甲斐を感じていた人がいるのは否定しないけど。でも、対価が発生しないのにサボらずに働く人って、どれくらいいるんだろう。

 上の人達はその辺のさじ加減が上手いと思う。こうやって飴と鞭を使い分けて共同生活を成り立たせてくれている。ここが奪い合い、殺し合うような空間にならなかったのは、偏に彼らのお陰とも言える。まぁその仕組みを作ってくれた人達も、大半はもう亡くなってるんだけど。


「あら、千歳ちゃんでしょ」


 ぼーっとしていた私は、声を掛けられてから、ここが雑貨屋の前だと気付いた。配給物資らしきものがごちゃっと詰められた段ボールを下ろす女性、栗山さんに挨拶をする。私の髪を切ってくれている人だ。彼女は荷物から手を離すと、大げさに肩を叩いて見せた。


「手伝いましょうか、おばあちゃん」

「ちょっと、誰がおばあちゃんさ」


 栗山さんは腕を組んで笑った。ちゃんとした年齢は知らないけど、どう見てもまだ二十代前半か半ばくらいだ。彼女がまともに取り合わないのは当然だろう。若い女性を捕まえておばあちゃんとは、我ながら酷い冗談だった。

 彼女はいつも長い髪を後ろにまとめて、上からキャップを被っている。前髪が邪魔にならなくていいんだとか。私も真似しようとしたことがあるんだけど、「千歳ちゃんは短いんだからいいでしょ」と言って笑われたことがある。

 すっきりとした端正な顔立ちで、それでいてどこか芯の強さを伺わせる。それが彼女の顔や表情からなのか、立ち振舞いからなのかは、はっきりしないけど。この団地がこんなことになってしまう前から、栗山さんは雑貨屋の看板娘として働いていた。


「そうだ。千歳ちゃん、こっちきて」

「なになに?」


 彼女は妙に嬉しそうな顔で私を呼ぶと、手を引いて店の裏手へと連れ出した。昼間だというのに、建物の狭間の空間は暗くて、少しだけじめっとしている。


「これ。あげる」

「えっ。でもこれ」


 手渡されたのは、チョコレートドリンクだった。何故か一本だけ混ざっていたものをくすねたらしい。気持ちは嬉しいけど、ここじゃ甘い物を見ると、みんなが目の色を変える。軽々しく受け渡されるような代物ではないのだ。

 私は受け取るべきか逡巡して、それでも小さい缶を握ってしまった。……だってチョコレートドリンクとか、飲みたいよね。


「ほら、早くしまっちゃいなー」

「あ、う、うん!」


 ひそめられた声は、どこか楽しそうだった。まるで悪戯をする時の子供のようだ。胸ポケットのボタンをパチンと外して、そこに缶をしまって見せると、彼女は満足げに笑って頷いた。

 栗山さんはここではかなり珍しい、女性の単身者だった。込み入ったことは知らないけど、炭坑夫の彼の家で暮らすことになって、破局したあとも彼女は引き続きここに住んでいるらしい。

 面白いのが、家というか、この団地を出て行ったのが彼氏の方だということ。彼が出て行く前なのか後なのかは分からないけど、当然栗山さんも出て行こうとして……既に雑貨屋さんの看板娘だった彼女は、みんなに引き止められたらしい。特に彼女のことを本当の娘のように可愛がっていたこのお店の老夫婦は、それはそれは熱心に引き止めたとか。

 要するにみんなに愛されているのだ。それも顔や愛嬌だけではなく、仕事っぷりという正当な理由から。私だって栗山さんが好きだ。ここで彼女を嫌う人がいるならお目にかかってみたい。


 失礼かもしれないけど、彼女が残ってくれて良かったと思ってる。私みたいに何もない人間は当番制で変わる変わる色々な仕事をするけど、元のスキルが生かせる人は別だ。

 食堂の女将だった早川さんはずっと炊き出しの当番で、みんなに指示を出してるし、栗山さんはお店を使って、配給物資を上手く行き渡らせている。ワガママを言う人だって、いると思う。だけど、角が立たないように丸く収める術を、彼女は知っているのだ。

 場所さえあれば誰でも、というワケにはいかない。私なら絶対嫌だ。というか無理。彼女はこの団地の中で、もしかすると一番替えが利かない人かもしれない。


 配給物資の分配は、初めの頃はチケットを使っていたけど、今はそれも必要なくなった。なんでって、ずっと一緒に生活してたら顔なんて覚えちゃうし。栗山さんはいつかそう言って、少し寂しそうに笑ってたっけ。

 配給で毎日人の顔を見る栗山さんと違って、私には覚えきれなかったけど、最近は大体分かる。みんな死んでったから。覚えられるくらいになった。


 理由は分からないけど、彼女は私にたまに優しくして、みんなには内緒だよ、と言う。多分、私以外の人にも同じことをしている。なんとなくそんな気がする。年下の女の子には甘い人なんだなって。

 私の中で栗山さんは、明るくて、優しくて、気配りが上手で、ちょっぴりいたずらっぽいお姉さんみたいな人だ。


「ありがとう」

「なんもさ。ほら、見つかると面倒だからもう行きな」

「うん、したっけね」


 私は彼女にお礼を言うと、何食わぬ顔で商店街の道へと戻った。陽射しに目を細めて、雑貨屋に背を向けて歩き出す。


 今日はつなぎじゃないタイプの作業着を着ている。ニッカポッカのようなそれを女が着ている姿に、見慣れない人はぎょっとするだろうけど、私は案外気に入っている。

 様々な理由から着るようになったこれは、とにかくポケットが多いのがいい。こうやってもらったばかりの缶を隠しておく場所もたくさんある。私は太ももの横についているポケットのマジックテープをばりっと剥ぐと、そこに缶を入れ直した。

 人に見られてはいけない。少し前に、板チョコ一枚で生きのいい若い兄ちゃん二人が殴り合いの喧嘩をしてた。ストレスが溜まって甘いものを口にしたくなる気持ちは痛いほど理解できるけど、それで喧嘩までしちゃ本末転倒だ。

 彼らもまさか、私がチョコレートドリンクを持っているからといって殴ったりはしないだろうけど。ここでは喉から手が出るくらい、みんなが欲しがっている物であることは間違いない。


 時刻は午後、ちょうどおやつどきだ。二号棟一階の広場、簡易的に設けられた調理場の前を歩いていた。夕飯の支度もまだ始まらないらしく、独特のむせ返るような熱気はそこにはなかった。

 私だって女であるはずなんだけど、あの光景を見ると、調理場は私のような小娘の出る幕のない、女の戦場だなって思わされる。


 何を作るって聞いたら、みんなが即座にそのレシピ、材料、工程を思い浮かべ、必要な調理器具の用意を始める。ボウルに材料をかっこんで、誰が何を担当するか冗談混じりに決定する。私も食事当番に混ぜられることがあるけど、あの輪では黙って作業するということが許されない。

 ひっきりなしに誰かが話題を振って、誰かが乗っかって、あんまり喋らずにいると逆に注目を集めて、彼氏はいないのかだのどういうのがタイプなんだだの、とにかくそういう話を延々と振られ続ける。

 ただでさえ慣れない調理なのに、黙って挑むこともできないのだ。下らない話の最中でも手元は素早く、そして淀みなく動き、常に次の工程を見越して体が動いている。私からすれば、毎日食事を担当しているおばさん達は魔法使いだった。


 そしてこのおばさん達の作るご飯がとにかく美味しい。基本的にはよそえるような、カレーや雑煮、豚汁のような炊き出しものばかりだけど、毎度味付けが違う。

 みんなが飽きないように、各家庭の味を再現して遊んでいるんだとか。あんなに他人を幸せにする遊び、私は他に知らない。この間はリゾットというものを頂いた。食べたことのないものだったけど、洋風の雑炊って感じですごく美味しかった。

 できればもう一度食べたかった。でももう食べられない。レシピを知っていたのが畑中のおばちゃんだったから。彼女は先日、亡くなった。だけど、あと一時間もすれば、この広場は女達の声で活気づくはずだ。

 漫才のような掛け合いをしながら材料を切り、道行くおじさん達にちょっかいをかけながら具材を煮たりして。誰が死んでもここは変わらない。変わっちゃいけない。


 おばちゃん達はちょっとした権力者だった。問題を起こすような輩に振る舞う飯は無いと、本当に食事を与えなくなるからだ。乾パンやカップ麺があるので、死にはしない。寧ろ余り気味なので消費して欲しい。誰も粗暴な者、ルールを乱すような者の味方はしないのだ。

 こういう考え方はよくないのかもしれないけど、ここではこのパワーバランスがベストだと思ってる。上手く言えないけど、女性を敵に回すと大きなデメリットがあるという状況は悪くない気がするっていうか。

 おばちゃん達に直接悪事を働かなかったとしても、彼女達は制裁を与えるだろう。間違いなく抑止力になってくれてると思う。例えば三國さんが私に強引に手を出そうとしないのだって。嫌な顔を思い出してしまい、自然とため息が洩れる。


 二号棟が平和であることを確認すると、再び商店街に続く道に出て、空を見上げてみる。切り取られたような狭い碧の中で、雲が流れていた。周囲は木々で覆われているというのに、からっとした風が吹き抜けて、閉じ込められている私達をあざ笑っているかのようだ。

 この建物の正面出入口から真っ直ぐ進んでいくと、封鎖された渡り廊下に行き着くけど、誰も好き好んであそこに行こうとはしない。みんな凄惨な事故の記憶として、一つや二つくらい、思い出したくないことがある。


 商店街の突き当たりに映画館の屋根が見える。この団地には小さな映画館があって、山の中で暮らす私達の数少ない娯楽として賑わっていた。事故が起こってからしばらく、オバケが出るとか、夜な夜な映画の音が聞こえてくるとか、妙な噂が立っていたけど、私はあまり信じていない。

 あの映画館にはマスコット的なおばあさんが居た。ナエばあさんとみんなに呼ばれていた彼女も、事故から数ヶ月で亡くなってしまったのだ。それを面白おかしく揶揄する気にはなれない。


 夜の炊き出しまではまだ時間があるので、私は自分の家に戻ることにした。二号棟の階段へと向かう。黒や赤のペンキで、大きくバツが書かれている扉が最近目立ってきた。

 それらは大体鍵がかかっており、赤い扉はドアチェーンがかかっていることも多い。要するに、中で人が死んでるってこと。

 数日に渡って呼びかけに応えないドアチェーンが掛かっている部屋には、その日の当番の人がスプレーやペンキで赤いバツをつける。今日私がこなした当番がそれだ。歩けて声さえ出せれば、誰にでも務まる簡単なパトロール。


 黒は、住人の死を表している。家の外や、中で亡くなっていたとしても扉が開いていて、遺体が埋葬できた場合に用いる。つまり、黒いそれが付いている扉の住人は、正式に死亡が確認されてから、土に埋められているのだ。

 敷地の中には大きな野生動物はいない。熊や野犬がいれば遺体が掘り起こされてしまう可能性もあっただろうけど、一年以上のここでの生活で、そんな経験はまだ一度もない。


 全てが終わったらしい。昨日まではついていなかった畑中さんの家のドアに、大きく黒い印が付いていた。私が二階と三階の担当じゃなくて一階の担当であれば、あの黒いバツは私が付けていた。


 私達は、こうやって一人一人減っていく。

 この生活が始まった頃はその事に心を痛めて、時には絶望した。

 慣れって怖いなって思う。慣れてしまう人間が怖い。私は、私が少し怖い。


 穏やかに暮らしたい。それもあると思うよ。

 でも、多分、みんながみんなと仲良くして、積極的に言葉を交わす理由は、もっと別のところにある。自分が死んだときに、どこの誰なのか、どんなものを好んで、どういう人間だったのか、誰かに知っていてもらいたいんじゃないかなって。

 畑中さんと一緒に、家族写真の他に、生前好きだったお気に入りのスナック菓子が埋められたように。そういう風にしてくれる誰かを、失いたくないんだと思う。


 部屋に着くと、リビングを突っ切って自室にある座椅子に座った。これはお父さんの部屋から持ってきたものだ。彼の特等席だったのに、最近じゃ私が帰ってきてとりあえずくつろぐ場所になってる。


 一息つくと、ポケットから、栗山さんからもらった缶を出した。

 私が死んだときには、これを一緒に埋めて欲しい。

 プルタブを引きながら、そう思った。

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