這い寄るのは宵と負け Ⅲ

 早朝の当番を済ませた私達は、炊き出しの列に並んでいた。朝はカレーだ。これをさらに煮込んで、昼もカレーにするらしい。二号棟ではたまにこういった二部構成の炊き出しが出てくると告げると、由仁は感激していた。

 そこで、私はこれまで引っかかっていたことを彼女に聞くことにした。どうして炊き出しが毎日あることに驚いたのか。実はずっと気になっていた。そして答えはシンプルかつ、悲惨なものだった。三号棟は随分前から、当番制がまともに機能していなかったらしい。


 二号棟ではすれ違いざまに挨拶を交わす光景がよく見られるけど、由仁の暮らしていた棟では、かなり前からそんな空気では無くなっていたようだ。

 全体の人数が減って物資に余裕があったおかげで露見しなかったものの、三号棟の住民が見つけた配給物資については早いもの勝ちだったらしい。自分の見つけたものをそれぞれ物々交換することで、なんとか生活していた。由仁はそう言った。


「一号棟も見回った感じでは、生存者は三号棟がやっぱり一番少ない」

「そう、なんだ」

「やっかむつもりはないけどさ、二号棟は恵まれてるよ」

「うん、そうだね。由仁の話し聞いて、そう思った」


 三号棟は同じ敷地内とは思えないほど殺伐とした空間で、些細な事が発端で様々な暴力が起こっているらしい。


「二号棟で死ぬ人は一番がガスで、次が病気や寿命だろうけど。三号棟内に転がってる遺体の死因は、何が一番多いんだろ」


 由仁がぼんやりと呟いた言葉に、私は何も言えなくなってしまった。


 受け取った炊き出しを部屋に持ち込んで、テーブルを挟んで向かい合いながら、そんな話を聞いた。住んでいた棟が違うだけで、そこまで環境が変わるのか。由仁を疑うわけじゃないけど、にわかには信じられなかった。

 茫然自失としている私をよそに、由仁は食器を片付けると元気に振り返った。自室から荷物を運ぶと言うので手伝いを申し出たが、やんわりと断られてしまった。何か隠し事があるというよりは、私の為に言っているような気がして、強く言えなかった。

 由仁を見送ると、私も家を出て商店街まで足を運ぶ。そこには作業に勤しむ二人がいた。栗山さんと桂沢さんだ。


「あら、千歳ちゃん。今日はなしたの?」

「スナック菓子とか、余ってないかなーって」

「あぁ! あるある! っていうか私も信じられないんだけどさぁ、最近しょっぱい物とか辛い物が全然出ていかなくて、バランス崩れて困ってんだよねぇ」


 栗山さんはそう言うと、お店の中の棚を指差した。好きなだけ持ってってと言われたのは、ポテトチップスだった。お菓子の定番ともいえるこれが余ってしまうというのが信じられない。だけど、好きなだけと言われたので、私は遠慮なく色んな味のそれを三袋も胸に抱えた。


「え? そんだけべっこ?」

「え? いや、たくさん……」

「三笠さーん、裏から段ボール持ってきてー」


 近くで配給物資の陳列をしていた三笠さんは奥へと消えて、間もなく戻ってきた。底が浅くて取っ手の付いている段ボールを受け取る。野菜なんかが入っていそうな箱だ。かなり大きいそれを私に持たせたまま、栗山さんと桂沢さんはぽいぽいと棚から段ボールへとポテトチップスを移していく。


「待って待って」

「三笠さん、ナイス」

「在庫処分は大切ですから」

「いやこんなに要らないけど!?」


 なんだか息ぴったりだ。そうして二人は箱に詰めれるだけポテチを詰めた。このままポテチ屋さんが開けそうだと馬鹿なことを考えながら、二人に会釈して雑貨屋を後にする。足りなくなったらまたおいで、なんて言って栗山さんは笑っていたけど、これが足りなくなることなんてあるのかな。絶対太るしょ。


 箱を抱えたまま部屋に戻ると、一度ドアを開けるために荷物を下ろそうとした。しかし、私がそうする前にドアが開いて、中から由仁が出てきた。


「わっ。びっくりした。なしたの、そのポテチ」

「暇だったから、由仁と食べようと思って……もらいにいったっけ、こんなに……」

「わぁー……したっけ千歳はそれ食べて待っててよ」

「一緒に食べないの?」


 ドアから手を離した由仁の背中に問いかける。私は扉が完全に閉まりきる前にスニーカーのつま先を挟んでから由仁へと向いた。すると彼女は笑った。


「そんだけの量をあたしが戻る前に平らげたらすごいよ、あんた」

「っていうか荷物まだあるの?」

「うん。大きいカバンこれしかないから、何度か往復して運ばないと」


 足でドアを開けると、中に入って段ボールを適当な床に置く。覗き込むように中を見ると、衣類がダイニングテーブルの横で折り重なって放置されていた。荷物って、服か。彼女らしいと納得すると、私はすぐに部屋を出た。


「そんなに荷物があるんだったっけ、やっぱり私も手伝うって。鞄なら私の家にもあるし」

「いいよ。あっちは、その、大変だし」

「ねぇ。由仁。私、由仁が何を言いたいのか、全然分かんない」


 口調はそれほどでもないだろうけど、今までで一番キツい言い方をしたと思う。きっと睨みつけて、半ば軽蔑の色すら浮かべて、はっきりしない彼女をどこか詰るように言い放った。それでも彼女なら、いなしてしまうかもしれないけど。

 由仁の本音を、逃したくない。連れて行けないなら、ちゃんと理由を言ってほしい。だから私は語調を強めた。


「ねぇ。聞いてんの」

「したっけ、ついてきて。でも、嫌になったらすぐ言って。千歳をここまで送って、やっぱり私一人でやるから」


 由仁は大きくため息をつくと、空のボストンバッグを肩に掛けて、空いた手で私の手を握った。スキンシップが多い子だというのは前々から思ってた。だけど、今回のこれにはもっとちゃんとした理由がある気がして、私は由仁の手を強く握り返した。


 二号棟から出ると、正面の出入口から出て左に進む。あっちには小中学校と三号棟がある。商店街に出た時も思ったけど、今日は日差しが強い。私が目を細めていると、由仁がポケットからサングラスを取り出した。

 作業着にサングラス……そうは思ったけど、彼女のセンスは大分我が道を往くものだし、確かに実用性を重視すると今それをかけるのは間違っていないので、私は口を噤むことにした。

 三号棟の正面の出入口が近づいてくると、由仁は確かめるように私の手をぐっと握った。それまでだって手を繋いで歩いていたけど、その手は私に大丈夫? と語りかけるように握られたのだ。大丈夫、そう言うように握り返すと、歩調を少し早めた。


 出入口に辿り着いて、私は絶句した。開け放たれたガラス扉の横の柱には、生きているのか死んでいるのか、コーラを持ったまま動かない人がいる。缶を持つ手に力はなく、彼の横に小さな水たまりを作っていた。私より随分と年下だ。中学生くらいに見える。

 駆け寄ろうとしたところで、繋いだ手が再び強く握られた。行くなということだろう。私は困惑した表情を由仁に見せたが、彼女は口を固く結んで、首を横に振るだけだった。


「なんで」

「あたしがさっき来たときには居なかった。死んでるかどうか分からないし、こんなの相手にしてたら部屋に辿り着く前に夜になるよ」


 どういうこと? そう問う前に、彼女は私の手を引いて中に入った。

 死屍累々、そう表現するのが実に適切な、簡単に言うと一階の広場は地獄のような光景だった。

 不用意に他の号棟には立ち寄らない。これは、ここが閉鎖されてから三ヶ月ほどが過ぎた時に出来た追加ルールだった。二号棟の若者が一号棟に立ち入って、喧嘩になってしまったことがきっかけで作られたものだ。物資の横取りだと思い込んだ一号棟の住人が、疑心暗鬼に駆られたらしい。

 だから私も一号棟と三号棟のことは人伝でしか聞いていない。すぐ隣にこんな惨劇が広がっているとは、思いもしなかった。


 ひらけた広場では、ざっと見る限り五人が動けずにいるようだった。三人は壁に背を付くように、一人はうつ伏せになって完全に倒れており、もう一人は苦しそうな声をあげて打ち捨てられたように転がっていた。どう見ても様子がおかしい。

 末期の人間なら私だってたくさん見てきた。だけど、痛みに耐えるような声を出しながら、のたうち回ることすらできずにいる人を見たことはない。


「あぁ、あれは違うよ。多分、ただ殴られただけ」

「え……」

「あたしが出るときは殴り合ってたから。怖い? 戻ろうか?」


 由仁は酷く淡々とした口調でそう言った。こんな光景を目の当たりにしても、彼女の心は凪いでいるようだ。確かに、怖い。すごく。だけど、こんなところに一人で由仁を戻らせるなんて嫌だ。そっちの方が怖い。首を横に振って、足を動かす。すると、由仁は左の階段へと私の手を引いた。

 誰とも会わないことを祈りながら、ただ彼女に付いていく。二階に着くと、すぐ左に曲がって、由仁は二つ目のドアに手を掛けた。鍵を差し込んで回す音が廊下に反響する。表札には歌神と書かれていた。


 中は私の家と同じ間取りで、それにちょっとだけ安心する。私はたったいま見たものについて、由仁に尋ねた。


「かしん、で合ってる?」

「あぁ。うん。そういえば、千歳は? なんて名字なの? 表札見たこと無かったや」

「月形だよ」

「へぇ、綺麗な名前だね」

「歌神だってカッコいいよ」

「そうかな」


 由仁はくすりと笑って靴を脱ぐ。その仕草は、私に初めて、由仁をお姉さんっぽいと思わせた。

 他人の家の匂いに少し緊張しながらスニーカーを整える。言っちゃ悪いけど、結構臭い。臭いの正体は分からないけど、なんだか不潔さを感じさせる臭いだ。

 彼女は部屋に入るとキッチンを背に真っ直ぐと歩いた。そして左にあるドアに手をかける。私の家では、あそこはお父さんの部屋だ。なんとなく不思議な気持ちで後ろをついていくと、部屋の中は、由仁で溢れていた。

 所狭しと壁に掛けられたハンガーは半分くらいが服が掛けられていた。もう半分はさっき運んだ分だと思う。どうせあの衣装ダンスにもみっちりと衣類が詰め込まれているのだろう。これを全部運ぶとなれば、私が手伝ったとしても何度か往復しないと難しそうだ。


「これ、全部持ってくの……?」

「うーん……持ってきたいけど、とりあえず持っていける分だけでいいよ」

「そうなの?」


 それは有り難いけど、由仁にしてみればはきっと辛いだろう。顔を見ると、予想に反して彼女は平然としていた。


「必要なものがあればまた取りに来ればいいし、とりあえず着回しできそうなのを中心に持ってけばなんとなるよ。選ぶから待ってて」

「そう、分かった」


 衣装ケースをひっくり返している由仁を見つめて、よくもまぁあれほど服を溜め込めるものだと感心していると、ふいに声を掛けられた。


「臭くてごめんね」

「え」


 どきりとした。確かに臭いと思ったから。だけど、由仁がそれを自覚しているということは、この家の元からの臭いではないということだ。それが分かると少し安心して、次にその臭いの発生源が気になった。


「あ、千歳はこの鞄持ってくれる?」

「あ、うん」


 ブランド物の大きいバッグを受け取ると、その中には既に衣類が詰められていたらしく、結構な重みがあった。


「さっき運ぶときにそれも一緒に持ってこうと思ったんだけど、重くてさ」

「まだ持てるよ。これだけでいいの?」

「片手は空けといた方がいいよ。いざってときの為に」


 彼女の指摘は私の予想の斜め上だった。そして、彼女がここでどんな生活を強いられてきたのかを垣間見た気がして息が苦しくなる。大きい鞄は一つしかないというのは、私に対しての優しい嘘だったんだ。両手が塞がっていてものんびりと移動できるような場所に戻る、そう思わせる為に、ああ言うしかなかったんだ。

 由仁の支度が終わると、私達はすぐに踵を返す。ダイニングテーブルの隅には缶詰や開封済みのレトルトパックが転がっていて、臭いの発生源はこれか、と遅れて理解した。不意に人の気配を感じて顔を上げると、テーブルの奥、私の家でいうとお母さんの寝室だったそこから、誰かの足が見えた。


「え」

「何?」

「誰か、いる」

「あぁ。うん」

「いや」


 知ってた。由仁の態度はそう言っていた。冷めた口調でそっけない返事をすると、私を追い抜いてずんずんとその部屋に顔を出す。気になって付いていくと、そこには見知らぬ男性が肩を壁につけて、ほとんど寝るような体勢でいた。虚ろな目で天井を眺めていて、私達には気付いていない様子だ。隣には空になった上白糖の袋が大量に放置されていた。

 この部屋は臭いが特にキツい。見ると、短パンを履いた男性の股間部分だけが染みになって汚れていた。


「え、ねぇ。由仁、これ」

「気が向いたっけまた荷物取りにくるけど。多分、お前が生きてる内はもう来ない。したっけね」


 由仁は笑って父であろう人物に背を向けた。行こうと声を掛けられる。もじもじしていると、彼女は先に玄関まで行ってしまった。こんなところに置いていかれるのが怖くて、結局私は男性を見殺しにした。


 ビクビクしながらなんとか三号棟を抜けて部屋に戻ってくると、由仁の荷解きを少し手伝った。それが落ち着いて、私の部屋のちゃぶ台を挟んで座る。気まずい空気が流れている。いや、もしかすると、私が勝手に気まずさを感じているだけなのかもしれない。荷解きを手伝っている時だって、由仁はずっといつも通りだった。


「びっくりしたでしょ」

「う、うん……本当にいいの? お父さん」

「うん。ずっと死ねって思ってたから。これであいつが一人寂しく死ねば、あたしはそれで幸せ」

「そう……」


 家族には色んな形がある。私だって、全ての家庭が円満で、みんなが愛し合って生きてるだなんて、流石に思っていない。だけど、あんな光景を目の当たりにして、少なからずショックだった。

 安易に踏み込んではいけないものを見てしまったんだと思うけど、由仁はさほど気にはしていないようだ。まるで、父の死を願うのは普通のことだとでも言うように、淡々としている。テーブルの脇に置いてあったを手に取って、カセットのタイトルを見てくつろいでいるようだ。

 このまま妙な空気でいるのも嫌だったから、好きなのをかけていいよと声を掛けてみる。すると、由仁はこれがいいだなんて言って、ガンガンの外に置いてあったケースに入ったテープを掴んだ。

 彼女が手にしたのは、少女の肉声が入った例のテープだった。慌てて止めようとしたけど、少し考えて、やっぱり彼女には聴いてもらうことにした。


 テープを巻き戻して初めから再生すると、想像していた通り、由仁は眉間に皺を寄せた。私の顔とラジカセを交互に見ている。そして、ちょうど私が聴くのを止めた辺りで停止ボタンを押した。


「なに、これ」

「さぁ」

「なんでこんなテープがあるって教えてくれなかったの?」

「教えるも何も……言いにくいじゃん」


 言いにくい。それが何を意味しているのか、多分伝わったんだと思う。由仁は「まぁ……」なんて曖昧な返事をして腕を組んだ。朝は嫌がっていた作業着姿が、すっかり板についているなんて思った。


「これについて、考えようよ」

「正気?」

「どうせあたしらが死ぬのは変わんないけどね」

「うん……」

「でも、死に方を選ぶくらい、してもいいでしょ」


 死。さきほど、様々な死を目の当たりにしてきたばかりの私に、由仁の提案は現実味を帯びて迫ってきた。


「ガスの症状がかなり進行してからいきなり甘いものを摂取すると、体が急激なそれに耐えられなくてこうなる、とか?」

「それしかないと思うけど、他の人で試すのは無理だよ」

「そりゃね。合ってたとしたら、あたしらは検証のために人を一人壊すことになる」


 由仁は腕を組んだまま顔をあげた。真正面から視線が合って、なんとなく動けなくなる。


「千歳は甘いもの好きなんだっけ?」

「うん。元々ね。ここがこうなってからも口にしてるよ。由仁は?」

「あたしも。っていうか大体そうでしょ」


 つまり私達がこうなる可能性は低い。近い将来、私達は唐突にではなく、きっと徐々に甘いものしか口にしたがらないようになるのだろう。そこで私は、そういうものとは無縁そうな知人はいないかと考えてみた。そこで一人、思い付いてしまった。


「雨竜さんだったら、どうかな」

「え? あぁ、確かに。想像つかないや」


 由仁は私の意見に同調して手を打った。もちろん、雨竜さんに試させるなんてことはしない。ただ、もし甘いものが嫌いだとしたら、今後も絶対に口にしない方がいいと伝えておいた方が良さそうだ。

 すぐにでも彼女を探した方がいいんだろうけど、ものすごく疲れた。三号棟に行って帰ってくるだけなのに、私は神経をすり減らしていたようだ。そしてそれは由仁も同じだったらしい。テーブルに突っ伏してうつらうつらとしている彼女に「布団で寝る?」と声を掛けると、抱っこしてなんて声が返ってきた。それは無理。そう言って、私は一人で布団に潜り込んだ。


 目が覚めて、夜の炊き出しに間に合うようなら、由仁と一緒に階段を降りよう。

 間に合わなかったら、そのときはあの大量のスナックを消費しよう。

 目覚めたあとのことを考えられる、ただそれだけのことが幸せに思えた。

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