勝手な要件

 美樹は逝った。日毎深まる陰鬱な団地の空気と、確実に忍び寄る自身の死に耐え切れなくなって。特にあたしに向ける邪な劣情が気持ち悪くて仕方がなかったらしい。ゆっくりと自分が狂っていく感覚が不気味で、だけど止められない。部屋に残された遺書にはそんなことが書いてあった。自分が自分で居られる内にと学校の屋上に忍び込んで、そこから飛び降りた。

 高さなら団地の方がある気がするけど、きっとひっそりと死にたかったのだろう。周りに気を遣う性格だったから、自分の死体を人目に触れさせないよう配慮したのかもしれない。真相は今となっては確かめようもないけど。なんて言ったって、美樹の思惑通り、彼女は失敗することなくこの世に別れを告げたのだから。


 勝手な女だと思う。たまたま一緒に生き残っただけの友達にそんな感情を抱いて、居心地が悪いのは分かる。さぞかし自分が気持ち悪かっただろう。ただ、死ぬ前に考えてみて欲しかったのは、ここにいる連中は皆美樹と同じ境遇にあるということだ。

 いやらしい目で見られていたのはお前も一緒だろ、バカ。劣情を抱く居心地の悪さを何の違和感もなく理解してやれるあたしのことを忘れんな。


 頭の中では何度も美樹を責めた。勝手に死なれた、あたしは今でもそう思っている。

 朝、何の変哲もない朝。あたしはに着るような丈の長いダウンを羽織って外に出た。まだこれを着るには早いだろうけど、奇異の目で見られることはあまり無い。ガスの症状の一つとして、常に裸でいるような寒気を感じる者がいることは広く知られているからだ。その症状が表れた人は大体もう長くない。

 すれ違う人に憐れむような視線を向けられながら廊下を歩く。三号棟から出ると裏手に回り、あたしは真っ直ぐ校舎を目指した。途中、フードを被った人がうつ伏せで転がっていた。背格好からして男性だろう。作業着のズボンを履いているところを見るに、彼は炭鉱作業員だったのかもしれない。わざわざ体をひっくり返して顔を確認する気にはなれなかった。きっと彼はもう事切れているだろうから。


 小さな校舎。あたしはここを卒業して外の高校に通うまで、この校舎が小さいということを知らなかった。町の外に出たことはあったけど、いちいち学校の規模なんて気にしたことがなかったし。あたしにとってそれは当たり前だったから。聞くと、高校の近くの中学なんかは、一学年で四クラスもあったらしい。

 初めて聞いた時は驚いた。せいぜい二クラスくらいだと思っていたのはあたしだけじゃない、美樹も一緒になって驚いていた。

 美樹とは同じ高校に通うようになって、もう一年以上が過ぎている。と言っても、まともに高校に通えていたのは最初の半年だけだったけど。あたしらが高一の夏にあの忌々しい事故が起こって、学校にはそれっきり行っていない。あたしらは外でなんて言われているんだろう。今更気にしても仕方がないことだけど。


 出入口が施錠された形跡は無く、本当に事故が起こった当日のまま放置されているらしいことが窺えた。当然上履きには履き替えずに、そのまま土足で校舎に踏み込む。その瞬間、呑気なことに、あたしの良識や良心のようなものがちくりと傷んだ。

 美樹の遺体を確認した日は中には入らなかったから、ここには卒業以来立ち入ってない。美樹には妹が居たから多分あたしより久々ではなかったと思うけど、それにしても非日常的な空間であることには変わりないはずだ。あいつは一体どんな気持ちで、この廊下を歩いたのだろう。


 校舎の中はむせ返るほどの甘い匂いで満たされていた。割れた窓ガラスから吹き込む冷たい風の匂いと、建物内部に立ち込めている甘い臭気がお互いを拒絶するみたいにして自己主張をしながら、同時にあたしの鼻腔を刺激する。

 この匂いの正体を、見ていないけど知っている。これは人の匂いだ。長くここに留まってしまった人間特有の。同胞を狂わせる匂い。美樹はあたしよりも早くにこれにやられて自ら命を絶った。たまたま美樹が根を上げるのが早かった。ただそれだけだと理解したのは、昨日の夜のこと。


 廊下から教室の中を覗く。小さな子供達の教室だったそこには、半端なミニチュアみたいなサイズの椅子と机がセットになって、木の床の上に並んでいる。教壇があって、その横には棚があって。中にはセロハンテープとかそういう文房具。上には何かのプリントが棚からはみ出るようにして無造作に重ねられていた。

 そこから視線を落とすと、人が居た。いや、人だった物が在った。ただ息絶えた者をそんな風に呼ぶ程、あたしだって冷徹じゃない。だけど、明らかに他者の手によって殺された女を、人と呼ぶ気にはなれなかった。その遺体の腹には取っ手の付いた三角形の大きな定規がぐっさりと刺さっていて、赤い臓物を曝け出していた。

 かなり強引に殺されたようだ。あたしはあんなもので人体を貫くことができるらしいという事と、その定規の鋭角で内臓をかき回されている無残な光景に息を飲んだ。

 寒さのせいなのか、殺された直後なのか、それともそれすらガスの影響なのか。遺体は腐らずに、ただ血を失って真っ白な肢体を投げ出している。


「こんなの、絶対臭いはずなのに」


 なのに。この一帯の強烈な臭気の正体は間違いなくアレだ。こんな目に遭った死体なんて見たことないけど、甘い匂いを放つような物じゃないってことだけは、あたしにだって分かる。その匂いにくらくらしている自分がいる。気持ち悪いという感想以外持ち得ないはずのそれを見て心臓が高鳴り、同情を禁じ得ないはずの光景に「美樹はこうなる前に死ねて良かった」としか思えない。

 あたしにはあの女が殺されたあと、何をされたのか容易に想像が付く。あれをやった人物はきっと、血と内臓をかき混ぜたものを啜ったんだ。どう考えても狂ってる。すぐに理解が及ぶ辺り、飛び降りる直前の美樹よりも、今のあたしの方が狂ってるのかもしれない。


 逃げるように早歩きで立ち去った。これ以上あそこに居たら、あの女性の遺体に触れてしまうという確信があったから。それに、顔は見ちゃいけない気がした。あんな無惨な殺され方をしたのが知人だったら。あたしは、きっと美樹を疑う。ここで死んだのは、ひっそりと死にたかったんだろうって、そういうことにしておきたかったのに、他の理由を想起させる何かなんて、見たくなかった。

 少し離れて立ち止まって、見上げるとそこは小学生高学年の教室だった。あることを思い出したあたしは中に入って、一番後ろの窓際の席を退かした。釘が甘くなっている床の板を目視すると、踵でその端を叩くようにして踏む。

 板が外れて、浅い暗闇から茶ばんだ紙が覗いた。本当に板が動いた事と、その中に心当たりのある紙切れがまだ眠っていた事に、あたしは目を見開く。しゃがんで紙、もとい算数の答案用紙を手に取った。


「……まだ、あったんだ」


 これは、あたしと美樹とで隠したものだ。あまりにもヤバい点数を取って弱っていたあたしに、美樹がここを教えてくれた。それから間もなく、あたしらは中学に上がって、この紙の行方が気になることもなかった。たまにヤバい点数を取ったときにふと思い出したけど、開け方も場所も一回見たきりだし、まさかこんなにスムーズに過去の自分の愚かしさと対面することになるとは考えていなかった。


 美樹は言った。「隠したい物があったっけここにしまっちゃいなよ」って。あたしが手に取った答案用紙のさらに下に、死ぬ直前の美樹からの手紙が入ってたら、なんて思ったけど。そんなドラマティックな展開は待っていなかった。

 美樹も。ここに、自分だけが気の済む方法で、どんどんとおかしくなっていく自分を、それに気付いてしまう自分を、すぐ先に横たわる不安を、隠しちゃえば良かったのに。どれでもいいはずだ。どれか一つでも捨てられたなら、きっと楽になれたはず。

 こんな、考えてもしょうがないことばかりが頭の中を巡る。これじゃあたしらが唯一無二の親友みたいだ。あたしと美樹は大勢居た幼馴染みの群れの中の二人で、高校に進んでからもなんとなく縁が切れなくて、事故が起こってからもなし崩し的につるんできただけの仲だっていうのに。周りが死に絶えていくから、あたし達は少しずつ互いが色んな意味で必要になっていった。それだけだったはずだ。


「そろそろ行くかな」


 あたしは立ち上がると、ダウンのポケットに答案を入れた。そうしてあっさりと教室を後にした。自分でもびっくりするくらい、何の未練もない感じで。後ろ髪を引かれるような思いは何もない。


 階段を目指す。美樹が死んだということは、あたしらの在学中にはずっと施錠されていた屋上への鍵が、何故か開いていたということになる。

 階段を上り切った先には一平方メートルくらいの狭い空間とドア。誰かが鍵を開けたのかと思っていたけど、何のことはない。ドアノブが何者かによってもがれていた。押せばそれだけでドアが開く。屋内に戻る際は、ノブが刺さっていた穴に指を引っかけて引っ張らないと開かないだろう。

 帰り道のことを考えるあたしは、完全に他人事の気持ちだった。まぁそうだよね。帰る気ないし。


 ドアを押して曇天を見上げる。雲があるくせにやけに眩しく感じる、妙な天気だった。眉間に皺を寄せながら、建物の端へと移動する。フェンスなんかは無い。元々ここには人が立ち入ることを想定されていなかったんだろう。そりゃ万年開かずの扉にもなる。


 遮る物が何もない縁に立つ。地上から見上げた時は大したことないと思ったけど、グラウンドを見下ろすと足が竦む。美樹がここから飛び降りことが途端に信じられなくなった。だけど、確実に死ぬには高さが足りない気もする。本気なら、頭から落ちるようにした方が良さそうだ。

 ここまでダウンを着て来たのは、飛び降りたあとのことを考えたからだ。チャックをちゃんと閉めれば、多少血が飛び散るのを防げそうだし、あたしはぐちゃぐちゃになった自分の身体を人目に晒したくはないから。

 美樹のときはあたしがどうにかその辺の手配をしたけど、そもそもあたしの体を発見する誰かが存在するのかってくらい、人が減った。


 ポケットに手を突っ込んで、指先で年期の入った答案に触れる。

 美樹はきっと、あたしに生きて欲しかったと思う。生きて、最終的には死んでしまうけど、その最期の瞬間まできちんと生き抜いて欲しかったんだろうなって。これは確かめなくても分かる。あいつはそういう女だ。

 ホント、勝手な願いだ。でも、あたしもこれで結構勝手な女だからさ。お前が押し付けた希望のようなものを引き受けてやる程、優しくないんだわ。

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