来ないのは朝と待ち人 Ⅴ
終わりは唐突に訪れる。というよりも、何かが始まるときはいつも突然だと言う方が正しいのかもしれない。女性の肉声が込められたカセットを聞いてしまったあの日から、私の中で何かが始まって何かが終わった。
坑道から漏れ出るガスは私達を殺す。緩やかに、だけど確実に。ただそれだけだと思っていたのに、あれを聞いてからはそう思えなくなった。何か、まだ秘密が隠されている。それを確信した。
配給の甘味は好きだ。そして、彼女のようになったことは一度もない。住民から似たような話を聞いたこともない。様々な条件が重なって初めて起こり得ることなのかもしれないけど……。
確かめたくなんかない。
どうやって甘い物を食べたら性的に興奮するのか、なんて。
というか、私はそういう経験はないし、そもそも交際経験すらない。気になる男の子はそれなりに居たけど、下らないことに幻滅したりで、気持ちが全然長続きしなかった。
告白のようなものを受けたことは、一度だけある。想いを告げる言葉ははっきりとしたものではなかったにせよ、彼の気持ちに応えるつもりがあるのか、無いにしてもそれを明確に示すべきだと思い、かなり悩んだ。うじうじしてた私も悪いんだけど、二週間後、彼は他の女の子と一緒にいた。団地の外れにある橋の下で、真剣な顔してくっついてた。
もうよく分かんない、と投げ出したい反面、少し羨ましい気もする。不思議と怒りはなかった。多分、彼は誰でも良かったんだ。そうやって誰かと気持ちを通じ合わせてみたいと羨む私も、同じようなものだと思う。
彼は去年、内地で就職するといってこの団地を去った。ちなみに、ご両親は事故後に亡くなっている。この団地の惨状を、彼はどこまで知っているのだろう。菱井グループが団地の外に居て事故を免れた関係者達に、ここのことをどう伝えているのかは謎だ。それは中の人間には絶対に知り得ないことで、私達は何も知らないまま死んでいくしかない。考えたって分かんないことがたくさんあって憂鬱になる。
とにかく、私が自分の体やこのガスの正体と向き合うことを避けているのは、色々と順番をすっ飛ばしてそんなことを知りたくない、という、極めてバカげた拘りによるものだったりする。
発情しているような息遣い、というのは気のせいかもしれない。この数日間、もう一度聞いて確認しようと、何度も手を伸ばしかけて止めてきた。
気のせいじゃなかった時のことを考えると怖いし、ラジカセを止めるか最後まで聞くか、また悩むのも嫌だ。そして迷った挙句、次は最後まで聞いてしまう気がする。それも嫌だ。
私は考えたくないことをくらくらと考えながら、建物の前にとある当番を割り当てられた一人として集合していた。今日は配給物資の取りこぼし探索兼外の見回りの当番で、リーダーはあの三國さんらしい。配給物資捜索の当番と似ているけど、この二つは全くの別物だ。
物資の捜索は毎朝、外の見回りは二、三日に一回夕方に行われる。元々、異変がないか定期的に調べておいた方がいいという、わりとゆるめに設けられた当番だ。多分、この仕事に実直さは求められていない。存在するだけで、良からぬことを企む者の抑止力になってるはずだ。
また、共通点もある。それは大体がペアでの行動、ということ。三國さんとは絶対に一緒にならないように、組んでくれそうな人を見つけなきゃ。あの舐めるような視線を思い出すだけでも気持ち悪くなる。
物資捜索のときは、真剣に探してるフリをすれば、なんとか場が保つ。いや、真剣に探してはいるんだけど。だけど、見回りで一緒になることだけは避けたい。ほとんど夕方の散歩のようなイベントになりつつあるそれを共にするということは、つまり彼の相手を正面からし続けなければいけない、ということになる。
あぁ、本当に嫌だ。
少し泣きそうになりながら顔を上げると、そこには世界で一番見たくない顔があって、その隣に知らない女の子がいた。目が合って息が止まりそうになる。こんな体験、二度としないと思っていた。見知った顔に囲まれて死ぬんだって諦めてたから、なんだかどきっとした。私とは対照的に綺麗に着飾った女の子は、当番のため集まった面々から品定めするような視線を送られている。
白っぽいティアードワンピースに身を包み、長靴みたいなブーツを合わせている。ふわふわとしたロングヘアとの相性が抜群にいい。化粧は控えめだけど、元々要らないだろうってくらい顔立ちが整っている。丸っこくて、それでいて凛とした瞳が印象的だ。
それに対して、私はというと、なんとか寝癖だけは直したという頭髪に作業着である。自分がちょっと恥ずかしくなった。絶対に会ったことがない子だ。こんな子を忘れるはずがない。ただでさえ、同年代の女の子は少ないんだから。
「その辺フラフラして暇そうだったから連れてきた。三号棟の子らしい」
あまりにも適当な紹介に、私達は顔を見合わせたけど、本人は今の説明に不満はないらしい。「よろしくー」と言いながら、軽く手を振っている。想像よりずっと気さくで明るい子だ。声まで可愛くてびっくりした。
作業開始前、おもむろにみんながペアを作っていく中、三國さんが脇目も振らず、私の方へと歩み寄ってくる。きっと私は断れない。
身を固くして嫌悪感と、これから目の当たりにする自分への不甲斐なさを感じていると、明るい声が響いた。
「ねねっ、あたしと組もうよ!」
「え……う、うん!」
名前も知らない女の子に救われた。私は彼女の誘いを快諾すると、何故か歩みを止めようとしない三國さんを警戒する。三人で行こうなんて言われたらどうしよう、いや、この子がいるだけマシか。一瞬でそんなことを考えていると、彼は大げさに笑って言った。
「こりゃいい。同じ年頃だろうし、仲良くやってくれな」
三國さんはそうして私達の間をすり抜けると、よく食事当番で姿を見かける女性に声をかけた。彼女が他の当番をこなしているところをあまり見たことがないので、おそらくは食堂の女将に、調理の腕を買われたんだと思う。多分三十代、綺麗な人だ。
彼は若い女か、綺麗な女ばかりをターゲットにしているのだろうか。ついそう勘ぐってしまい、それがそのまま嫌悪に変わる。
夕食の炊き出しの支度は既に始まっているので、食事当番の方は休みだったのだろう。見回りなんかに参加しないで、今日くらい家でゆっくりしてれば良かったのになんて、名前も知らない女性にそう思った。
腕をぐいと引かれて振り返ると、あの可愛らしい子が居た。パーソナルスペースというものが狭い、というより無いタイプの子なのかもしれない。私が面食らっていると、彼女は爛々とした瞳で言った。
「あたし由仁ってんだー。千歳ちゃん? だよね?」
「えっ……うん。なんで私の名前知ってるの?」
「三國サン? が聞いてきたんだよ。あたしをここに連れてくるときに。あたしだったら歳の離れた彼氏や旦那に何を望むかって。したっけ、千歳ちゃんの名前言っててさ。可愛いからすぐ「あ、この子だな」って分かった!」
マシンガントークに気圧されそうになっているところに、とんでもない内容が飛び込んできて、気持ち悪過ぎて吐き気がした。由仁には悪いけど、第一印象は最悪だ。人懐っこそうな丸い目で、私を覗き込んでくる。観察されてるみたいで、それを面白がられているようで気分が悪い。
激しい負の感情で私が何も喋れないでいると、由仁はある人物を指差して言った。スコップを担ぐ姿がとても様になっている。きっと私達の話し声は聞こえない、それくらい離れていた。
「もしかしてアレが雨竜さん?」
「……知ってるの?」
「知ってるに決まってんじゃん。っても、名前だけだけど。思ったより普通の女の人なんだ」
へーと私にくっついたまま頷く由仁は、感心しているような、為になる話を聞いたというような、なんとも言えない表情をしていた。
「どういう意味さ?」
「いや、誰かがかっこいいって言ってたから。てっきり髪が短くて、もっと男っぽいのかと思ってた!」
「あぁ。うん、雨竜さん、美人だよね」
確かに、雨竜さんの噂だけを聞いた人ならそう思うかもしれない。私は妙に納得しながら相槌を打った。さっきの三國さんの話のショックからはまだ立ち直れていない。というか、どういう関係だと思われてるんだろう。由仁に誤解されているなら一刻も早くそれを解かなきゃ。私が切り出そうとしたところで、彼女は意味ありげに呟いた。
「ますます分かんないね」
「え?」
「雨竜さんなら付き合いたいとか言ってる子達が居てさぁ。男っぽいなら男の代わりが務まるのかなって思ってたけど。あたし、そういうの良くわかんないや」
「ま、まぁ。必ずしも理解できる感覚じゃないんじゃない?」
彼女に聞こえていないにしても、誰かにこんな話をしていると気付かれると厄介だ。私は由仁を誘導するように歩き出した。
「千歳は雨竜さんどう思う? なんとも思わない?」
「なっ! ないよ! 私ノーマルだし。初恋だって」
「え? 初恋? おねえさんに話してみ?」
「っし、仕事しよ!」
私は歩調を少し早める。
いきなり呼び捨てにされてびっくりした。お姉さんって言ったけど、由仁は私よりも年上なんだろうか。そんな見当違いの疑問を抱きながら、徐々に小さくなっていく建物を振り返ることなく、ただ歩いた。
「えー!? おいー話し逸らさないでよーーー」
「別に逸らしてないし」
「逸らしてんじゃん。その初恋の彼とは付き合ったりしたの?」
「う、ううん……」
「告白は?」
「ううん……」
「……なんだよ、つまんね」
由仁はそう言うと、頭の後ろで手を組んで私についてきた。
つまんねって……普通言うかな。や、つまんないのは分かるんだけど。こういう話題が大好きだってことくらい、彼女と出会ったばかりの私にだって分かるから。期待したことが始まりそうで始まらなかった、それをつまらないと思うのは至極当然だと思う。だからってそれを口にするかな。
しかし、この沈黙は好機だ。私は三國さんとのことを告げた。彼とは何もないと。つまんないと言われるのは覚悟していたつもりだったけど、私の予想に反して、彼女は笑った。照れなくていいと言いながら。
「は……?」
「いや、付き合ってるようなもの、なんでしょ?」
「……誰が言ったの」
「三國さん以外にいると思う? 他に心当たりがあるんだったっけ、そういうことなんじゃない? 二人は傍目に見てもラブラブで」
「違う!!」
私は立ち止まって声を荒げていた。今までこんなに感情を露わにしたことなんて、なかったかもしれない。怒り方が分からない。でも、絶対に今の由仁の言葉は許されるものじゃないと思う。彼女は振り返って私の顔を見ると、それまでケラケラと笑っていたのが嘘のように、真剣な顔をして言った。
「マジで言ってんの?」
「うん」
「……なら三國さん、いや、あのクソオヤジには注意した方がいい。あーあ、信じらんない。マジキモい」
由仁は彼への嫌悪の言葉を、躊躇することなく吐き捨てた。よく分からない子だ。私が言いたくないことや聞きたくないことをさらりと口にしたかと思うと、一番譲れない感情に共感してくれたりする。
コロコロと変わる表情についていけずにいると、由仁はさらに続けた。それは奇しくも、いつか三國さんと言われた言葉と、同じ言葉だった。
「何かあったっけ、私を頼って」
「……うん」
だけど、あの時とは違って、私は彼女の言葉を受け入れた。素直に心強かったんだ。気づいた時には、ありがとうなんてお礼まで言ってた。
そうして私達は生い茂る草を踏む。散り散りになった他のペアは、とっくに見えない。そろそろ戻ろうと提案しようとしたところで、由仁が足を止めた。
「……誰かいない?」
「またまた」
「やいや、ホントにさ」
足音を立てないように移動しようにも、草が邪魔をする。だというのに、由仁の視線の先で蠢く何かは、私達のことを全く気に掛けていないようだ。そろりそろりと木の影を覗き込むと、そこには仰向けになって足を開く女と、覆いかぶさる男が居た。もそもそと腰を動かして時折呻く男と、その男の首にしがみ付いて、動きに呼応するように喘ぐ女が。
視認できるところまで近付いても、二人が私達に気付く様子はない。行為に夢中のようだ。
「……わぁ、気まず」
そんなことを言いながらも、由仁の視線は二人に釘付けだった。多分、私も人のことは言えない。初めて見た。驚きと好奇心が、私達の足をその場に縫い付けていた。
「痛くないのかな」
「え?」
「いや、だって背中とかさ」
女が手を離すと、男は上半身を起こして、女の太ももを引き寄せるように腰を打ち付ける。“とか”と言ったのは、痛みが気になるのが背中だけじゃないからだ。中だって、あんな風にされて痛くないのかな。だけど、それを口にすることは憚られた。
「あぁ……いや、あとで痛いって気付くんでないの?」
「そういうもの?」
「うーん」
いやらしい音が、静かな林の中に響く。
男の動きが一際激しくなって、急に止まる。同時に呻き声も聞こえた。終わりを確信させるその動きを見届けた直後、彼らに察知されないようにこの場を離れる術が無くなってしまったことに気付いてはっとした。
だけど、それは杞憂だった。女はのろのろと体を起こすと、男の股間に顔を埋めて頭を動かしている。
「……あたしらに全然気付かないね」
「う、うん」
「あの二人って、やっぱ不倫なのかな」
「え? なんで?」
「夫婦なら家でするでしょ」
「あぁ……なるほど」
「……ま、いいや。あんまり関わりたくないじゃん? 行こうよ」
彼女達が体勢を変える前に、私達はやっとその場を離れた。見つかっていないと思っていたけど、分かった上で見せつけていたのかも、なんて恐ろしい可能性に気付いたのは、普通の声の大きさで会話ができるようになってからだった。
女がアレを口に含んで立てる音で、またカセットのことを思い出した。
由仁に言ってみようか。
迷ったけど、笑い飛ばされる気がして言えなかった。
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