来ないのは朝と待ち人 Ⅳ

 私は父の座椅子に座って、赤塚さんから頂いたラジカセで、懐メロに耳を傾けていた。人のものばっかり使っているけど、これはどちらも形見のようなものだ。

 お隣の赤塚さんは、事故から半年くらいで亡くなった。最期まで私のことを気にかけてくれていて、亡くなる直前まで「千歳ちゃんを残して逝くのは忍びない」と口癖のように言っていた。

 多分、私を見守るというのが、彼女の支えというか、心の拠り所になっていたんだと思う。だから私は厚意に甘えた。彼女の前では、無理なんてしなかった。私の分まで配給を受け取って来てくれたり、洗濯を済ませておいてくれたり。ささやかな気遣いに甘え続けた。そんな彼女が「私が死んだら持ってっていいよ」と言ってくれたのが、このラジカセだ。


 今日は当番は休み。特段外に出る用事もないし、夕飯の炊き出しまでは家の中で過ごすつもりだ。木製の小振りなちゃぶ台の上に置かれたラジカセは、スピーカーをこちらに向けて朗々と歌っている。

 テレビが映らないせいだろうか。それまでろくに関心を持たなかったくせに、ここに閉じ込められるようになってから、こうして音楽を嗜むようになった。嗜むといっても、それほど高尚な趣味とは言えないけど。クラシックなんかは聴いている内に寝てしまう、子供のような感性を持ち合わせた私だ。演歌も、好きな曲はいくつかあるけれど、ちょっと年寄りくさくて。失礼かな。でも、やっぱり率先して聴こうという気にはなれなかった。

 よく聴くのは洋楽だ。邦楽はなんとなく避けていた。歌詞の意味が分かってしまうから。そして、自分や誰かの人生を、勝手に重ねてしまう気がするから。自分にとって意味の成さないメロディだけを聴いていたくて、インスト物を好まない我が侭な私に、洋楽はぴったりだった。


 ずっと同じものばかり聴いてたら飽きてしまいそうだけど、テープは遺品整理の手伝いをしているとよく貰えるので、その辺の心配は不要だったりする。また、人づてに貰い受けることもあった。最近は休みがあまり無かったから、一度も聴いていないテープが溜まっているほどだ。

 流しているお気に入りがそろそろ終わる。次は何を聴こう。ごちゃっとテープをまとめて入れてあるを台の下から手繰り寄せて、無作為にその中の一つを手に取った。


「何も付いてないやつだ」


 判別には困るものの、名前の無いテープは嫌いではない。くじを引くような気持ちになれてわくわくするから。どちらかと言うと、当たりだという気持ちの方が強い。

 勇気を出して再生ボタンを押せば、掘り出しものの曲に触れられることもある。そんな機会でもない限り、滅多に聴く事のないジャズは結構好きになれた。

 アーティストや曲名を知りたいけど、テープを作った人はもう居ない。この暮らしを送るようになってから、名前の知らない好きな曲が増えていった。


 私が手に取ったテープは比較的新しいものだった。たまにキズだらけの擦れたテープなんかもあって、それは音が飛んだり小さかったり、雑音が多かったりすることが多い。これはそういう意味でも当たりだと思った。

 ラジカセの隣には、ケースに入ったテープが別のに放り込まれていて、これは私が一度聴いて「また聴きたい」と判断したものだ。要するにお気に入りボックスである。そこに入れなかったものは、なんとなく好きそうな人にあげてる。

 状態の悪いテープだけはどうしても行き場が無かったけど、誰かの遺品だと思うと、どうにも捨てられなかった。だけど、数が増えてきて、結局私はそれらをゴミに出した。週に数回ある野焼きに持っていったのだ。あのとき、私はゴミと一緒に何かを捨てた気がした。


 ラジカセが止まった。

 座椅子に座り直しながら、取り出しボタンを押して挿入部を開く。カセットを入れ替えて再生ボタンを押してみたけど、何も聞こえてこなかった。無音が続く中で、私はいよいよ見切りをつける。カセットが妙に綺麗だった理由がはっきりした。つまりは、本当に新品だったらしい。

 停止ボタンを押す寸前、「あー」という声が聞こえた。どう考えても音楽じゃない。妙な緊張感が走った。若い女のようだけど、思い当たる人物はいなかった。


「聞こえてる? ……これ、誰か聞くのかな」


 顔の見えない女はラジカセの前でもじもじと独り言を話しているらしく、少し聞き取りにくい。特段聞きたいとは思っていなかったのに、気付くとつまみを回してボリュームを上げていた。


「分かんないけど。あー、やっぱ無理。恥ずかしいわ」


 呟くように彼女はそう言って、そのすぐ後に何かがちゃんと鳴る。破裂音にも似た音に、顔をしかめてしまった。ボリュームを上げた直後になんて仕打ちだ。私は軽い苛立ちを覚えて、遂にテープを止めようとした、その時だった。


「いったー…………はぁー……」

「実は私……もう目とか見えないんだ。ほとんど」

「なんでか、声は出るの。だから、なんか残しとこうと思って」


 停止ボタンに触れたまま、私は動けずに居た。この声の女の子は、おそらくもうじき死ぬ。正確に言うと、この録音の日から、まもなく亡くなった筈だ。

 彼女は言った、”目とか”、と。視野狭窄自体かなり末期の症状だけど、”とか”という言葉が聴覚障害等を指していたとしたら。五感が二つ以上働かなくなって長く生きた人はいない。そういう住人を、私は何人も見てきた。彼女はこの録音から一ヶ月も生きていなかったかもしれない。

 いや、きっとそうなんだと思う。彼女は明言していないけど、本人にもそんな確信が心の何処かにあったんだ。だから、自分の声を残すなどという、照れくさい真似をする気になったんだと思う。

 どういう気持ちでこの音声と向き合えばいいのだろう。止めるという選択肢は、いつの間にか消えていた。


「私ね、甘い物、嫌いなんだ」

「珍しいねって言われるけど。でも、昔から好きじゃなくて」

「閉じ込められるようになってから。みんなが甘い物を楽しんでいたけど」

「私は一度も口にしてこなかった」


 ここで彼女は一旦言葉を区切った。なんとなく落ち着かなくて、私はその隙にちゃぶ台の上に散らばっていた飴を口に放り込む。


「……なんでかわかる? 分かんないよね。わたしも、なしてこんなに深刻に考えてんのか分かんないし」


 口の中に広がる、甘いメロンの味がやけに自己主張をしてくる気がする。それを振り切るように、音声に集中する。


「私がさっきてっくり返したの、ラム酒のビン」

「……まだちょっと残ってる。一人じゃ怖いから、聴いててよ」


 それは紛れもなく私宛の言葉だった。彼女からすれば、未来の誰かに投げかけたもの。そんなものにすら縋りたくなってしまう、彼女の心中を察しながら息を潜めた。飴を舐める舌の動きを止めて、金属がメッシュみたいになってるスピーカー部分をじっと見つめる。

 がざがざという耳障りだったはずの雑音も、いつの間にか気にならなくなっていた。むしろ、彼女の動きを知る手がかりになっている。しばらくすると小さく喉を鳴らす音が聞こえて、私は思わず息を止めた。


 彼女がボトルから口を離すまでの数秒が、勿体つけられているように長く感じる。ため息が聞こえてきてまた数秒。息を荒くしながら、彼女は言った。


「ねぇ。美味しいよ。こんなの、変でしょ。私、嫌いだったのに、なんで」


 泣いているように聞こえたけど、今の彼女の状態をそうだと断言するには、少し抵抗があった。どことなく感じた違和感の正体を掴めないまま流れる音を追っていく。

 彼女は言葉を短く区切りながら、甘い酒を美味いと感じる自身を嘆いている。確かに、嫌いだったものがいきなり美味しいと思えるようになったら、怖いかもしれない。でも、好きなものが増えるのは、ラッキーなことだと思う。特に、隔離されてテレビも映らないここでは、食は数少ない娯楽だし。


「やだなって……思ってた……」

「分かるもん、自分の体の事だもん」

「ずっと、本当は、甘いもの、食べたかったよ」


 これまで好きじゃなかった筈のものを、強く欲しながら生きていた。その事実を告げると、彼女は本当に泣き出してしまった。

 その息はまだ荒いままだ。落ち着かなくて、口の中の飴をがりがりと噛んでみる。違和感は徐々に大きくなっていく。怖い。知りたいけど、知りたくない。葛藤している間にも時間は流れて、テープは回り続ける。


「でも、それ食べて、美味しいと思ったっけ、なんかもう、終わりだと思わさるって、思って」

「毎日、毎日、甘い匂いに、くらくらしてた」

「なしてか分かんないけど、でも」


 私はそこでやっと気付いた、というか認めたのかもしれない。それくらい信じがたい憶測が、私の聴覚を犯す吐息の数だけ確信に変わっていく。彼女は、まるで興奮しているみたいだ、と。


 立ち上がって少し歩くと、ダイニングテーブルにあったチョコレートを手に取った。本当はもっと特別な日に、特別な気分で口にしたかったそれ。ラジカセからは彼女の嗚咽のような何かが流れ続けていた。

 チョコはおいしい。普通に。彼女のように呼吸が乱れるなんてことはなかった。口の中でそれを溶かしながら、元居た場所に座り直す。


 末期に近付くほど、甘い物が欲しくなるのは知ってる。むしろ終末期になると、それしか口にしなくなるって。

 だけど、それに深い意味なんてなくて、単純に口にしやすいからなんだと思ってた。


 ——……私も、いつかこうなるかもしれない


 死ぬのは、分かってるつもりだった。でも、その症状と向き合っている、自分と同じくらいの若い女性の肉声を聞いて、よりはっきりと己の死に様を意識させられた。


 みんなこうだったのかな。甘味を酒に求める者は多い。配給の酒のほとんどが甘ったるいブランデーやラム酒だと、代田さんは文句を言っていたらしい。ビールはないのかよって、酒瓶を忌々しそうに睨み付けながら。

 そう、代田さん。私と栗山さんと雨竜さんとで埋めた、あのおじさん。末期はブランデーの瓶を離さなかった人だったけど、最初はあの人もそうだった。酔えればなんでもよくなっちゃったのかなって思ってたけど、違ったのかな。どうなんだろう。


「はぁ……おいし……」


 彼女が話す度に、くちゃくちゃという音が鳴る。いや、話さなくても鳴っている。甘味を転がすように、彼女はずっと口を動かしているようだ。じっとりとした音が耳から顎、首を伝って、私の体に響いている気がした。多分、キャラメルかチョコレートを食べている。

 先ほどまでは泣きながら嫌悪感を露にしていたというのに、それはとっくに消え失せたらしい。彼女が口内に広がる味に集中していることは、音声だけでもはっきりと分かる。


 嫌な感じがして、私は遂にテープを止めた。このまま聞いていても、意味はないと思ったから。テープは遺品整理の当番から譲り受けたものだけど、手に入れた経緯までは聞いていない。どこかに保管されていたのだとしたら、彼女が途中で我に返って止めた可能性もある。

 でも、私は違うと思う。だから停止ボタンを押したのだ。おそらく彼女は時間が許す限り、甘味に喘ぐ声を記録し続けたと思う。

 私がこの子だったら、自分でテープを止めれたなら、絶対に破棄する。もしくは別の音を入れてなかったことにする。恥ずかしいもん、こんなの。声を録り始めた数分の恥じらい方を考えると、この子の素の感覚は、私に結構近い気がする。

 彼女はこの瞬間から甘味に取り込まれて、それからぼーっとした状態で残りの時間を過ごしたんだと思う。死んでしまうまでの時間を。


 つまり、私は誰かが壊れる瞬間に立ち会ってしまったのだ。それに気付くと、背筋がぞっとした。急に体温がひゅっと落ちたみたいな感覚。どこまで逃げても付きまとってきそうな悪い予感。


 慌ててカセットを取り出すと、近くにあった別のそれを手に取って差込む。少し乱暴に蓋を閉めて再生ボタンを押すと、バチンと小気味良い音が鳴って、その音が私を日常に連れ戻してくれたような気がした。

 前回聴いた時に、半端に止めていたらしい。曲が終わりから始まった。フェードアウトしていく演奏だけで、自分が何のカセットを手に取ったのかを知る。ボリュームはいつもより大きいままだ。でも、今はこのままでいい。このままがいい。流れているのはビートルズ。誰もが知る世界的なアーティスト。


 完全に演奏が聞こえなくなったかと思ったら、すぐに機械が Help! と歌い出す。声をあげて笑いそうになった。

 今の私の気分にぴったりな歌だ。いや、私の気分に、じゃない。おそらくはこの団地の状況に。だけど、誰も手を差し伸べてなんかくれないって知ってる。


 お誂え向きの歌にいまいち感情移入できないまま、私は座椅子から振り返って外を眺めた。

 釘を打つような音、おばさん達の笑い声、強めにドアを閉める音。人々の営みがビートルズに混ざっていく。そうしてそれらを壊すように、頭のどこかから音がする。くちゃくちゃという、名前も知らないあの子がお菓子を食む音が。

 私は逃げるようにちゃぶ台に突っ伏して目を閉じた。少し眠ろうと思う。今は何も考えたくない。


 眠気が強くなるほど、あのはしたない音が頭の中で大きく響く。

 こうやって私達は少しずつ壊れていくんだって受け入れると、

 ほんの少しだけ楽になれた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る