膜に覆われたマチ Ⅰ
あの男は最悪だった。俺に付いてこいなんて言って両親と暮らす私を町から連れ出してこの団地へと招いたまでは良かったけど、そこからの暮らしぶりが。そんな勝手な男のことを、男らしいなんて思って付いていった私が悪いんだけど。
彼が仕事もまともにこなせない無能だと知るのに時間は掛からなかった。日中、することもないしと、お世話になることにした雑貨屋。そこでは様々な噂話が聞こえてきた。任された箇所の採掘が彼のせいで遅れたらしいと聞いた時は耳を疑ったけど、それが根も葉もない噂なんかじゃないってことはすぐに分かった。
私にはミスをした同僚の尻拭いをしていて大変だ、なんて言ってたくせに。存在しない誰かのせいにして、自分の愚痴を溢す小さい男だと知ると、愛情はすぐに枯渇した。
私が別れを言い渡す前に、彼は責任者にクビを言い渡された。当然だと思う。横柄な態度を取ったり、他者を見下すことも、仕事ができる人なら多少は許されたかもしれないけど。彼には圧倒的にそれが足りなかった。炭鉱の作業でチームワークは命だ。お互いを尊重できない者はプラスにならないどころか、果てしないマイナスを生む。そんなこと、働いたことのない私でも分かる。
どこか遠くで別の仕事をしようと言われた私は、一人で行ってと告げた。プライドの高い彼は、私に縋ったりしなかった。それは有難かったけど、後悔するぞと言われた時は笑いを堪えるのが大変だった。私も支度が出来たら出ていくつもりだったけど、お店の夫婦に残って欲しいと言われて、それも悪くないかと思った。
家電なんかは男が持っていったけど、みんながお古を譲ってくれたお陰で、生活には困らなかった。彼は私がそうやって周囲に良くされていることも気に食わなかったようだけど、残る私のことも考えずに生活必需品を構わず持っていこうとしたのだ。元々この団地で立場が無かった彼を擁護するものは、完全に居なくなった。そして、彼がいなくなって、ハッキリと分かった。私は二年という時間を無駄にしたのだと。
しばらく男を作る気にもなれず、なんとなく日々を過ごしている時に起こったのがあの事故。あの日、私は店の倉庫で振動を感じた。地震かと思って外に出ると、
無能故にこの事故を免れた男のことを思うと、今でも笑えてくる。情に絆されてこの場に留まった自分の馬鹿さ加減にも。だけど後悔はしていない。私を引き留めた店主と奥さんは事故からすぐに亡くなったけど、店を閉めるつもりはなかった。
だから私は、今日も物資を棚に並べて、住民に笑顔を振りまいている。自分のしていることに、意味があると信じて。
「この段ボールはそのまま持ってっちゃっていいですよ」
「そっかい、したっけ何作ろうね」
「豚汁なんかどう?」
「や〜、栗山さんに言われたっけ前向きに検討するしかないしょや」
「してして」
二号棟の食事当番の女性に、炊き出し用の物資を渡して雑談を交わす。笑いながらふらついた女性に手を貸して段ボールを荷台に乗せると、土を払うように軽く手を叩いた。食堂の女将をしていた彼女も、きっともう長くはないのだろう。彼女がなくなってから二号棟の炊き出しが正常に機能するのか気掛かりだ。
私は一号棟の人間だけど、こういう立場にあるからか、二号棟の炊き出しに招かれることも少なくない。役得というやつだ。これが私の日常。
それを三笠さんが少し離れたところで見ているのも変わらない。彼女は何かに怯えているみたいだった。これまでのことを考えれば、私に怯えていると推察するのが妥当なところだろうけど、多分そうじゃない。というか、彼女は私のことをあんまり怖がらないでいる。妙な衝動に駆られて、彼女に無遠慮に触れているのは私なのに。彼女が恐れているのは、話の輪に加えられることだろう。
話を適当に切り上げて振り返ると、先程までの緊張した表情がいくらか和らいでいた。
「ホント、弱虫だよね」
「うるさい」
「あと泣き虫だし」
「はぁ……」
いじめるつもりなんてないのに、私は三笠さんにちょっとキツく当たってしまう。目的に気付いているからか、彼女もあまり真に受けないようにしているみたいだけど、こうやって彼女が私の意地悪を軽く躱せるようになるまでにしばらくかかった。
目的というのは、彼女を泣かせること。彼女の体液は、私を簡単に狂わせた。ガスの影響で、甘い物を欲するようになるばかりか、私達自身の体液までもが甘くなっていると知ったのは、三笠さんと出会った夜のことだった。
あれから、私は幾度となく彼女を泣かせては頬に舌を這わせてきた。理性どころか、最近じゃ最中の記憶まで吹っ飛ぶ始末だ。
もうやめようと思うのに、彼女を悲しませる様々なイレギュラーのせいで、なかなか上手くいかない。私の軽口で彼女が泣かなくなったのは有り難いことでもあった。
残念に思う気持ちがないかと言えば嘘になるけど、彼女の体液を摂取する度に自分がおかしくなっていくのが分かるから。依存症なんて言葉、自分には無縁だと思っていたけど、もしかするとこれがそうなのかもしれない。
「栗山さん、ハサミ置いてるかい?」
「あぁ。えーと、あれ……」
「倉庫にあったと思うので、取ってきますね」
「ありがとう、お願いしていい?」
三笠さんは言いながら倉庫へと足を向ける。最近、こんなことが増えてきた。前じゃ考えられないことなんだけど、何がどこにあったか、そもそもうちの店に置いてあるものなのか、思い出せないことが間々ある。
その度に三笠さんにフォローしてもらってる。今じゃ彼女の方がこの店のことを熟知しているかもしれない。依存しているのは、体だけじゃないのかも。そう思うと、少し怖かった。
「はい、どうぞ」
「助かったわー。うちのがどっか行っちゃって。これ、良かったら二人で分けて」
壮年の女性は三笠さんに何かを握らせると、その場を立ち去った。彼女が持っていたのは板チョコだった。店の商品については物々交換するのが習わしだからおかしい事ではないんだけど、ハサミ一つで板チョコ一枚というのは、ここの感覚で言えば破格だ。だけど私は嬉しくない。
「良かったじゃん」
「いらないの?」
「……私、もうそんなんじゃ甘さを感じないんだよ」
「……そう」
二人きりの店の中、三笠さんは驚いたように顔を上げる。聞いたことがないだろう、ビターでも何でもない板チョコが甘いと思えない、なんて。
だけど、これは事実だ。配給の甘味の全てが、私にとっては紛い物でしかない。今の私が心から欲せるのは、もう三笠さんの体液だけ。言い回しからそれを察したらしい彼女は、ちゃんと食べてる? と私の顔を覗き込んだ。
その問いには答えられない。食べてはいる。かつては好きだったサバの缶詰とか、そういうのを、吐きそうになりながら。食べないと死ぬって考えながら咀嚼して飲み込んでる。それを“ちゃんと”と言えるのかどうかが分からないから、うんとは言えなかった。
「私は、その、もう慣れたし、いいけど」
三笠さんが近付いてくる。彼女は知っているのだ。涙だけではなく、おそらくは体液の全てが甘く変質していることを。恐らくといったのは、尿なんかは試したことがないから。私が知っているのは彼女の涙と唾液の味だけ。少し前なら、いくら切羽詰まっているからって、おしっこをどうにかしようなんて考えもしなかったけど、今の私が彼女のトイレに立ち会えば、どうなるか分からない。さすがにそれはしたくないし、本当に今後も気を付けなきゃいけないけど。
「いいけどって、どうするつもり?」
「いつも自分がしてることでしょ」
要するに彼女は私に舌を絡める許可を出してくれているのだ。それはこの上なく魅力的で、想像するだけで理性が飛ぶような提案だった。だけど、私はギリギリのところで踏み止まる。
「正直すっごくしたいけど、まだ仕事中だから」
「今更仕事中だからって……白々しい。ま、私はどちらかと言えばしたくないから、別にいいけど」
「あのさ」
「何?」
「三笠さんは、その、したくならないの?」
「夕ほどは。ちょっと前までは絶対されたくなかったのに、最近は別にいいやって思えるくらいにはなってるけど。慣れてるだけなのかな、分からない」
「……分かった」
「え?」
私は店にお客さんが入って来ようとしているのを確認しながら呟いた。三笠さんは意外そうな声を上げている。
「我慢する。だから、三笠さんも私の前で泣いたりしないでね」
「……別にいいけど」
決意表明をすると、いらっしゃーいと男性に声を掛けて、入口まで歩いていく。
背中に三笠さんの疑いの眼差しが突き刺さっている気がするけど、気付かないふりをした。
やれるはずだ。
私がまだまともなら。
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