膜に覆われたマチ Ⅱ


 一号棟の自室へと戻ったのは夜の十時を過ぎた頃だった。三笠さんにあんな宣言をしたというのに、私の体はもうはや彼女の体液を欲して疼いている。

 自制できない私が悪いのは百も承知だけど、彼女がはっきりと私を拒絶しないのもいけないと思う。言っても聞き入れないし、本気になったら私の方が力が強いから抵抗しても無駄だった、というようなことを言われたことはあるけど。普段から嫌だと言い続けられていれば、多少は違うと思う。多分。や、分かんないけど。


 私は、三笠さんにどこか諦めた様子で体を捧げられたくない。とんでもない我が侭を言っているのは分かってる。それ自体は喉から手が出るほど欲しいんだけど、あくまでガスのせいというか。とにかく、彼女のあんな顔はもう見たくないって本気で思ってる。

 三笠さんがかつての自分とダブってしまうから。ここに私を連れてきた元彼氏が仕事で何か仕出かした時など、苛立った空気を察したら八つ当たりされる前に自ら身体を開いた。慰めるつもりだったけど、面倒を回避する為に誤摩化していただけだ。なんとなく、そういう時の自分と重なる。

 あの時の彼と同じようなことを三笠さんにしているのだと、今日改めて自覚させられて息が詰まった。彼女はただの被害者だ。自業自得だった過去の自分と重ねることすら烏滸がましいって、分かっているはずなのに。それでも。


「はっ……あー……」


 私は食事の支度もせず、給湯器を点けた。帽子を脱いでテーブルの上に放ると、台所にあったコップにぬるま湯を少量注いだ。そこに上白糖をこれでもかってほど溶かして、ゆっくりと容器を傾ける。

 このところ、私はこうやって自身の欲求を宥めすかして、ギリギリのところで息をしていた。馬鹿みたいだ。こんな紛い物を編み出すほどに、彼女の体液に執着して。


 いや、多分、三笠さんじゃなくてもいいんだと思う。私の体はこのところ節操無しで、甘い匂いがする人を的確に嗅ぎ分けてしまう。相手の年齢、性別なんて関係ない。まだ三笠さん以外に飛び付いていないのが不思議なほどだった。

 甘い酒やお菓子の虜になって、そのまま死んでいった人達は幸せ者だと思う。私だって知りたくなかった。


「我慢できるなんて、どの口が言うのさ」


 できるわけがないのに。そう告げたのは間違いなく私の口だ。表にさえ出せば、それなりにやれると思っていた。だけど、数時間経ってみると、私達の体液と同じか、それ以上に見立てが甘い、と認めざるを得なかった。

 私は既に我慢をしていたんだ、三笠さん以外の人を巻き込まないように。これ以上の制限は、私にはもう無理だ。


 台所の棚に凭れてズルズルと床に座る。空になったコップの底には、溶けきらなかった砂糖の残りが溜まっていた。それを指で掬って舐めてみても、まだ三笠さんの涙や唾液には敵わない。

 紛い物で補おうとすればするほど、あの人でしか満たされない自分が浮き彫りになって死にたくなる。もういっそ、本当に死ねばいいのに。私はこうして自分の最低さを噛み締めることしか出来ない。

 コップを床に放置して、テーブルに放り投げたキャップを被り直すと、部屋を出た。静かに鍵を掛けて振り返る。向かう先は映画館だ。


 少し前の私には、夜空を見上げて美しさにため息を漏らすだけの人間らしさがあった。でも今はそんな時間を惜しむように、商店街の奥、彼女がいるであろう場所を目指している。近頃全然空を見上げていないことに気付いたけど、私の首が上を向く事はなかった。

 入口に辿り着くとドアを強めにノックする。映写室に居るであろう彼女に聞こえるように。いつの間にか虫の鳴き声も時期じゃなくなっていて、周辺にはドアを叩く音だけがうるさいくらいに響いた。それでも扉を打つ調子は変わらない。


 扉の向こうに気配を感じて手を止める。彼女は扉の向こうの誰かを警戒してるだろうから、私であることを知らせる為に名前を呼んだ。


「……何しに来たの?」

「顔、見たくて」

「嘘つき」


 私を糾弾する声を聞きながら、動き始めるドアを見る。丁番がきいと鳴って私を迎え入れようとしていた。

 中を見ると、三笠さんが冷たい視線をこちらに向けていた。当然だ、私がこれからしようとしていることを、私だって軽蔑する。


「ごめん」

「我慢、するんでしょ」

「まぁ……そのつもりだったんだけど……」

「はぁ。呆れた。まさか一日も保たないなんて」


 そうして彼女は踵を返して、出入口のすぐ近くにある急な階段を登っていく。後ろ姿を見守っていると、入らないの? と声を掛けられて、慌ててドアを閉めて彼女の元へと駆け寄った。


「あんまり入れたくない」

「分かるよ」


 映写室に通されたのは初めてだ。中は狭く、最低限のスペースしかない。あとかなり暗い。映写室っていうくらいだから、当たり前なんだけど。

 ところ狭しと並んだナエさんの遺品を一つ一つ眺めながら、私は目に映ったパイプ椅子に腰掛けようとした。それを察したらしい三笠さんは、私の手首を強く握って引き止める。振り返ると、彼女は真剣な、それでいて泣きそうな顔をしていた。


「そこは、座らないで」

「なんで?」

「ナエさんの場所だから。夕は、ここ」


 指差されたのは床に敷いてある座布団の隣。無機質なコンクリートの床の上だ。せめてもう一つ座布団があると有り難いんだけど、彼女がここに他人を入れること自体、寛大な対応だと喜ばなくてはいけないような場面だ。少し迷ったけど、私はそのまま冷たい地べたに胡座をかいて、また周囲を見渡した。


「いつもここにいるって、言ってたよね。何してるの?」

「何も。ただ、ここに居れるだけで、私は幸せだから」


 切なげに視線を落とす彼女の横顔を眺めながら、悪い考えが脳裏を過る。それは駄目だ。人として、絶対にしてはいけない。頭の中で警笛がガンガン鳴るけど、馬鹿みたいに濃くした砂糖水を喜べなくなってしまった私は止まれなかった。


「映画、観ないの?」

「……動かし方が分からないから」

「あれだけ一緒にいたのに、習わなかったんだ」


 私の棘のある言い回しに、三笠さんがはっと顔を上げる。顔には出さなかったけど、私も自分で驚いた。うっかり口にしてしまった言葉と、頭に浮かんでしまった、これから言おうとしている言葉に。彼女を傷付ける言葉を巧みに嗅ぎ分けてしまう頭が、制御する術を失くしてしまった口に指令を出し続けている。


「それで一人、この場所にしがみついてる」


 もうやめて。

 そう言ったのは、彼女か私の頭の中か。

 どこかから響いていた制止を振り切るように、私の口は言うべきではないことを次々と告げていった。


「いい友達だね、ホント」

「夕に、そんなこと言われる筋合いは無い」

「何にも出来ないまま、ここで悲劇のヒロイン気取って。それって楽しい?」


 言いたかったのは、こんなことじゃない。この映写室はナエさんの細々とした私物が置かれているのに、全く埃が被っていない。おそらくは三笠さんがこまめに掃除しているんだと思う。何も出来ないだなんてとんでもない、彼女は何かを悔いて、ナエさんの死を悼み、自分に出来る事をちゃんと探している。分かってるのに。


「どうして……そんなこと言うの……」


 三笠さんが吐くみたいにして呟いた。しゃくり上げる声がコンクリートの空間に反響している。彼女は大粒の涙をぽろぽろと零したまま、私を睨み付けた。ほとんど真っ暗な部屋の中、涙に濡れた瞳だけがぎょろりと私を捉えて、恨めしそうに鈍い光を湛えていた。

 また泣かせてしまった、やっと泣いてくれた。相反する二つの気持ちが交錯して、私は考えることを放棄した。

 座布団に座る三笠さんを押し倒して、頬を伝う体液に舌を這わせる。最近にしては珍しく抵抗されたけど、私は彼女の顔を覆う腕を掴んでいとも容易く開かせた。


「夕が、こんな人だなんて、思わなかった」


 私も。

 自分がこんな鬼畜だったなんて、考えてもみなかった。


 頭の中で返事をしても、声には成らない。声を発する時間すら惜しむように三笠さんを組み敷くと、彼女の口内に舌を潜らせた。三笠さんはくぐもった声を上げて、ほんの少しだけ腕に力を入れている。いや、抵抗のつもりなのかもしれない。彼女の身体が反応を示していたにしても、抵抗しているだけだったにしても、今の私にはどうだっていいことだけど。

 自分の吐く息が嘘みたいに熱かった。肺が焼けてしまったような感覚に見舞われて、呼吸すらままならない。発情した獣のように彼女の口内を犯してもまだ足りなかった。ずっと何かが足りない状態が続いていて、この行為の先にだけ気の休まる何かがあるような気がする。そしてそれが錯覚なのも分かってる。舌先が彼女の唾液を掬う度に、頭の中が甘く痺れて何処かに上り詰めようとしているようだった。

 唇を離すと、三笠さんは上気した顔で私を睨みつけて、肩で息をしている。呼吸がままならないのは、彼女も同じのようだ。口の中に残る彼女の体液の余韻を味わいながら、私はゆっくりと彼女の瞳に唇を近付けた。


「ちょ、ちょっと……夕、それは嫌」


 久しぶりに聞いた、三笠さんの私を拒絶する言葉。だけど私は、やっぱり止まれなかった。彼女の顎を力いっぱい床に押し付けて、目を開けるのを待つように瞼の際、まつ毛の根本をなぞるように舌を動かす。

 溢れ続ける涙に思考を焼かれながら、彼女が観念して瞳を開けるのをじっと待つ。まつ毛、長いな。分かってたけど。そうしてゆっくりと開かれた眼球に舌先が触れた。

 瞳を舐めたことなんて無いから勝手は分からない筈なのに、彼女の涙を直に貪る私に迷いはなかった。三笠さんの苦しそうな声がまた映写室に響く。彼女がまともに声を発せないのは、私が顎を掴んだままでいるから。頭を床に押し付けているのだから、きっと後頭部にも痛みが走っているだろう。彼女が今感じているであろう苦痛の全ては、きっと私が齎しているものだ。


 何を言っても赦してもらえないのは分かってる。ただ、本当に信じてほしいのは、私が三笠さんを店に誘った時、あのときは下心なんて無かった。

 ずっとそう思っていたのに。やっぱりそうじゃなかったのかもなんて考えが浮かぶくらい、口の中に広がるそれは、私がそれまで大切にしていたものや拘っていたものを内側から溶かしていった。


 家を出る前、コップの底に残った砂糖を舐めたことを思い出す。

 多分、いまの私はあれと大差ない。実体を失って消えることすらままならなくて、コップを傾ければ楽な方へとダラダラと流れていく。そして最後は大きな存在や事象に飲み込まれる。


 私はもう、目の前の彼女の全てを踏み躙って犯すことしか考えられない。

 泣かせたくなんてないのに。気持ちに寄り添いたいのに。そう思っているからこそ、彼女の望まないことが手に取るように分かってしまう。


 散々弄んだ身体を冷たい床に組み敷いたまま、泣き顔を見下ろす。私は自分の中に湧き起こる衝動の発生源が分からなくなっていた。生まれ持った性質によるものなのか、ガスの影響によるものなのか。そういうのが。

 唾液が伝うのも厭わず、半開きになった口。大袈裟に上下する胸。彼女の目に宿る、怒りと軽蔑の色。


 いい眺めだ。

 そう思って、死にたくなりながら興奮した。

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