雪の子

 吐く息がうっすらと白く見える。冷えた秋の日。さめざめと白々しく、これみよがしに降り続ける雨にうんざりしながら、私は出入口に近いロビーの柱に背を付いて外を眺めていた。

 体はもうとっくに自由に動かない。甘いものが食べたいという欲求を満たそうにも身動きが取れないから、何かを考えて気を紛らわせることにしている。

 私が取り留めのない思考に耽っている間も、空から落ちてくる水が建物や地面を叩き続ける。その音が耳の奥にこびりつきそうで気分が悪い。


 この独房のような空間の中で、二度目の誕生日を迎えたのは先月のこと。八月生まれの私は、それを人に伝えると「あー、っぽい」なんて言われてばかりだった。焼けた肌も、平均よりも大きい声も、無駄にいい運動神経も、私の全てが夏の陽気を想起させるようだ。

 だけどこんな話はどうだっていい。私が考えようとしているのは、自分の誕生日のことなんかじゃなく、一度も話したことのないあの子のことなんだから。


 最後に彼女を見たのは、去年の六月。大学のキャンパスの中。比較的暖かい日だったせいか、彼女は白い肌を惜しげもなく晒していた。

 彼女の横顔はいつだって透き通っていて、笑顔はちょっと頼りない。それは真冬の朝寒あささむの空に浮かぶ太陽のように儚げで、縋りたくなるような暖かさを孕んでいた。人づてに聞いた話では師走に生まれたらしいけど、私と同じように色んな人に”っぽい”と言われていそうだと思った。

 一度くらい話せば良かった。そんな瑣末な後悔を噛み締めてしまう程に、私は家族やこの団地の人々について考える事に飽きてしまっている。


 愛内あいのない団地にいない人のことを考えるのは楽しい。この世に存在するという実感を伴った偶像は、私の弱った心に効くようだ。


 大学では、どうしてか彼女の姿をよく見かけた。いま思えば、よく見かけるんじゃなくて、私が無意識に彼女を探していただけだと思うけど。

 彼女を知るきっかけとなったのは、とある講義。少し離れた前の席には大勢が居たというのに、彼女だけがやけに目についた。

 完璧としか言いようがない容姿を持ち合わせながら、一人でぽつんと座っているのが気になって、知人に彼女のことを訊ねたのだ。


 案外気さくで話しやすいらしいけど、私は彼女と言葉を交わしたことはない。姦しい私が話し掛ければ、きっと疎ましく思われる。彼女の平穏を壊すのは気が引ける。たったそれだけの理由で、異性でもないのに気を遣っていた。

 もしかしたら仲良くなれたかもしれないのに。私は結局、彼女と言葉を交わすことなくこの命を終えるらしい。こうやって彼女のことを思い出す度に話しかけなかった事を後悔していたけど、今日は初めて、違う考え方ができた。

 仲良くなれたかもしれない。そんな可能性を残したまま死ねるのも、悪くないのかもしれない、と。


 まるで恋をしてるみたいだと気付いて自嘲したけど、あながち間違いではないような気がしてきた。だって、こうやって体が終わりを迎えそうになった今、彼女のことを思い出しているのだから。

 誰かが私のこの感情を恋と呼んでくれるなら、それって結構幸せなことだ。知らないまま死ぬと思っていたものが、実は自分の中にあったなんて。いいじゃん、なんかロマンチックで。


 三号棟は解散した。そんな知らせを耳にして、もう二週間が過ぎていた。日毎に深まる秋の色に私の季節は終わっていく。来年の誕生日のことは考えない。

 私が生まれた季節と彼女が生まれたという季節の狭間で死にそうになっているんだから、考えるだけ無駄だ。


 雪でも降ってくれればいいのに。

 嫌味ったらしく泣き続ける空に期待するのは癪だけど、願わずにはいられない。

 明日もし生きていたら、最後に見た雪のことでも考えてみよう。


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