札付きの嘘


 もう少しまともな段ボールを見繕えば良かった。私は汗で手が滑らないようにがっちりと掴んで、箱の片側を懸命に支えながら歩いた。目指すは八雲やくもという表札の部屋、私の家だ。


「やー、一階で良かったね」

「ホントにね」


 一緒に荷物を運び込んだうたは控えめに笑って私に同調した。扉を開けてもらっている間、気合いを入れて一人で荷物を抱える。そのまま玄関に段ボールをどちゃっと置くと、不意を突いてノブを握って強く引いた。大きな音を立てて扉が閉まる。唄の手を挟まないかどうかだけが気掛かりだったので、戸枠にぶつかった音を聞くと、私はむしろその大きな音に内心ほっとした。


「あれ!? ごめん!」


 唄が謝りながら握り玉を捻ってドアを引こうとしているけど、私はその前に鍵をった。何も悪くないのにとりあえず謝ってしまうなんて、彼女は随分とのんきだ。それがこの子のいいところでもあるんだけど。

 錠をかった音で、やっと唄も気付いたらしい。


「……え? ふみ? なした?」

「ごめん。もう会えない」

「はぁ?」


 今ドアを開ければ、困り顔でちらりと犬歯を覗かせている唄がいる筈だ。随分と思い切ったことをした。人に物資の運搬を手伝わせておいて、家まで来たらポイだなんて。

 だけど、こうなってしまったのは必然であり、仕方のないことだった。愛内団地がこうなる前から仲の良かった友達は唄しかいないし、家族はみんな既に死んでたから。荷物を運ぶのを手伝ってくれる人に、他に心当たりがなかった。

 あと、これから会えなくなると思うと、最後に一度、それを意識した上で一緒に過ごしたいと思うのは当然だ。色んな意味で、私には唄しか居なかったのだから。

 私が引き籠る為の物資を彼女に手伝ってもらうのは、消去法というか。私という人間がそれをやろうとしたら、こうする以外の手段はなかったと言っていいくらいのしょうがなさなんだ。


「やー……意味分かんない。それ、独り占めしたくなった?」

「そういうワケじゃない」


 言ってから後悔した。そういうことにしておけば良かったって。どうやら私には唄に嫌われる覚悟とやらが足りないらしい。なんとか用意できたのは、彼女を遠ざける覚悟だけだ。

 会えなくなっても、もう二度と顔を合わせられないとしても、唄に嫌われたまま死ぬのは、やっぱり、どうしても嫌だった。


「文はさ、きっと疲れてるんでしょ。だから」

「とりあえずはこの物資で食い繋ぐから」


 唄は何かを言おうとしてたけど、私はそれに被せるように、どうしてこんなことをしでかしたのかを告げた。

 自分で死ぬ勇気なんかない。だけど、日に日におかしくなってく自分の感覚と向き合う勇気もない。だからこれくらいしかできなかった。

 私が言い放ったせいか、唄はそれ以上説得しようとはしなかった。


「そっからどうすんのさ。それが無くなったっけ」

「分かんないけど、そんな答えが見つかる前に壊れちゃうって。そう思ったんだ」

「……わかった。でも、心配だから。毎日来るから」


 振り絞るようにうんと言うと、私は離れていく足音が聞こえなくなるまで耳をそばだてた。本当に、明日も来てくれるのだろうか。唄にその気があったとしても、何かに巻き込まれてしまったりはしないだろうか。

 閉じこもるまではこうするしかないとすら考えていたのに、いざやってみると、とんでもない愚策を講じてしまった気しかしない。どうすれば正解だったのかと考えている内に、私は眠っていた。


 目が覚めるとベッドの中に居た。考え事をしながらも、なんとか寝床まで歩いたらしいことを知りながら台所に向かった。

 大きめの鍋にお湯を沸かす。その間に歯くらいは磨いておく。お湯が沸騰したらレトルトのミートソースのパックと、乾麺を回して入れる。

 元々、私はこういうことができない人間だった。こういうことというのは、簡単な調理じゃなくて、袋と麺を同じ鍋で調理すること。親には潔癖症だなんて笑われたりしたけど、自分がやる時は絶対分けてた。でも今はどうでもいい。

 食べないと駄目だって分かってるから、だから仕方なく要らないものを最小限の労力でこしらえてるだけ。麺、ずっとやわかくならなきゃいいのに。したっけ食べないで済む。


 ぼこぼこと動くお湯とそれらに釣られてゆらゆら動く、これから私の腹に入る予定の物達を見つめる。二日前、唄と三号棟の前に行ったことを思い出していた。危ないから寄るなと言われるようになってから、もうちょっと経つ。三号棟。

 私達は二人きりになりたかった。ただそれだけだった。なんでそうしたかったのかは、はっきりとは分かってなかったけど。自分の家とは違うところで、誰の目にも付かないところで、二人きりで話をしたい気分だった。

 最近は動ける人が減っていて、姿を見かけると雑用を言いつけてくる人も少なくなかったから。自分の家が嫌なのは、今でもたまに家族の気配を感じることがあるから。

 そういうのが全部煩わしくなって、私達は二人とも気分で、お互いの存在はなんとなく許せそうだったから。だから私達は場所を探していた。


 三号棟はガスの末期中毒者で溢れ返ってる。そう聞いたのはもう数週間も前だった。毎日投下される物資を三号棟の人間が持ち去っている様子もないらしい。要するに、私達は三号棟で生きてる人間なんてもう居なくなっているはずだ、と思っていた。


 ロビーから見える人影はなかった。いや、厳密に言うと人影はあったけど、それは遺体だった。恐る恐る近付いて、建物の中を見た。甘ったるい匂いが充満していて、ここに居てはいけないって私の全身が叫び出すように小刻みに震えた。

 視界の奥の方で人影が蠢く。もう一つの人影の股間に顔を埋めて、前後に動かして。見ちゃいけないって思ってるのに、視線を逸らすことを勿体なく感じて。その瞬間私は全てを理解した。


 私は唄の服の袖を引っ張った。引き返してくれると思った私は強くは引かなかった。そして手が服から外れた。振り返ると、唄はその光景に当てられてしまったように立ち尽くしていた。私よりも少し背の高い横顔。たまに男の子に間違えられたりもした少年のような、今まで何度も見てきた筈のそれが、別人みたいに見えた。

 私はそれから服じゃなくて手を掴んで、今度こそ立ち去った。三号棟に向かうまで私達の間に確かに存在した筈の妙な空気は無くなっていて、いつの間にか全力で走って二号棟に戻っていた。


 それから気まずくなって、翌日雑貨屋で食料を調達する約束をして、すぐに解散した。家に帰ると、私は洗面台で顔を洗い続けた。夢から覚めないような変な感覚がずっと付き纏っていて、それを振り払うために選んだ手段だった。

 三号棟で見た唄の眼を思い出す。怯えるような。求めるような。何かが覚醒していくような。彼女はロビーの前から一歩も動かないでいたのに、その眼を見た私はどこにも行って欲しくないって強く思った。

 何度も顔に水をかけて、その度に鳥肌が立つくらいの冷たさを感じているのに、付き纏う感覚は一向になくならない。

 ゆっくりと顔を上げて鏡を見ると、そこには唄と同じ眼があった。


「あーあ、できちゃった」


 菜箸で麺をかき回して具合を確かめる。適当にお湯を切って、盛り付けを済ませてフォークを手に取る。味が分からなくなったそれを口に運んでは噛んで飲み込む。

 ただの作業だった。だけど、この作業をしないと私は生きていけない。だから仕方なくそうしてる。考えれば考えるほど、今の自分が生きている理由なんて無いように思えた。無様だった。


 ふいに、上に掛かってるミートソースが何やらとんでもなくグロテスクなものに見えて、私は手を止めた。三号棟に行ったあの日、もし誰もいなくて、唄もいつも通りで、思惑通りに二人きりになれたとして。そうなってたら、私は。

 きっと唄に乱暴していた。ロビーで見た人影のお陰でよく分かった。私はあれと似たようなことを唄にしたがってるって。だから一緒にいちゃいけないと思った。私だって本当はそんなことしたいと思っていない。だけど、身体はそれを望んでいる。だからきっとそうしてた。


 唄には好きな人がいて、その人はこの団地にはいなくて、もちろんその相手は男の子で。私の妙な欲求のはけ口にしていい子じゃない。


 それからしばらく経って、私はなんとか食事を終えた。食器を片付けて、椅子に座って息だけをしていた。ノックの音が聞こえたのでドアの前まで移動して扉越しに返事をすると、よく知った声が響いた。


「文? 生きてる?」

「なんとかね」


 言ってた通り、唄は来てくれた。そうして私達は扉一枚隔てて話をする。

 今日は二号棟の炊き出しが休みになったらしい。当番を割り当てられていたものの、参加できそうなのは二人で、その内の一人は唄だったとか。どんどん、このコミュニティが壊れていく。私だけじゃない、この敷地内全てのものが終わりへと向かっている。


 唄から齎される情報だけが外の様子を知る唯一の手掛かりだ。唄は嘘をついたりしない筈だから。自分が抱いてる欲求の種類を自覚してから、ずっと変なことばっかり考えてるけど、特に唄が扉の向こうにいると調子がおかしくなるみたいだった。

 孤立した空間で彼女を傷付ける心配のなくなった私は、やっとなんでこんなことをしたのか、詳しく話す気になった。昨日伝えたみたいな濁した言葉じゃなくて。唄を傷付けると思うって、はっきり言った。もっと直接的な言葉はいくらでも思い付いたけど、それは恥ずかしくて言えなかった。でも、絶対避けられると思った。もしかしたら明日は来ないんじゃないかって思った。


 唄は長い沈黙のあと、「私も」と呟いた。

 はっと顔を上げたけど、私は何も言えない。ドアを背に、膝を抱えて言葉を探していると、唄はまた明日も来るねとだけ言って離れていった。

 甘い匂いが遠のく。私をここまで追い詰めた唄の匂い。どうすることもできなくて、私は自分の膝を噛んで震えた。


 それから私達は毎日、話をした。唄はいつも私が昼食を終えてしばらくしてからドアをノックする。味のしない食料を体に押し込んだあとの唄との会話は私の一日の楽しみであり、試練のようでもあった。

 その気になればすぐにでもこのドアを開けて、顔を見ることができる。自制心と欲望に振り回されながら、忙しく揺れる気持ちを落ち着けながらする唄との会話は、楽しくて地獄みたいだった。


「私、唄の身体に触りたい」


 私が自分の家に籠もってから四日。その日、私は遂に、唄に欲望を吐き出した。どうせもう会わないんだから。そう思って口にしてみると、次々に言葉が溢れてくる。今、唄はどんな顔をしてるんだろう。そんなことを考えながら喋った。


「唄の口の中に手を入れて、舌に触りたい」

「何それ。変なの」

「そのまま私の名前呼んでよ」

「馬鹿っぽいしょ」

「そうかな。あとは、唄の匂い嗅いでそのまま寝たい」

「……それだけ?」


 意味深に囁く声に、体が反応する。また膝を抱えて、そこに額を強く押し当てた。私は自分が何をしたがっているのか、よく分かっていない。それを見透かされたみたいで、恥ずかしくなった。


「私はね、文の身体、全部触りたい」

「全部って何さ」

「全部だよ。口の中までは考えてなかったけど」

「やめてよ、私が変みたいでしょや」

「だって変だよ。ただ、指を挿れてみたいのは同じかな」

「……どこに?」

「……文って、なんていうか遅れてるよね」

「何さ」


 冗談めかして唄は笑う。私だって何も知らない訳じゃない。唄が何を言っているのかだって、多分分かってる。だけど、私は遅れてるってことにしておいた方がいい気がした。

 核心に触れてしまったら、このドアを開けてしまうだろうから。

 唄の笑い声が廊下に響いているのが分かる。そうして一頻り笑ったあと、唄はぽつりと呟いた。私たち、もう絶対顔合わせられないね、と。

 そうだね。それ以外の言葉が見つからなくて、私は気の利いたことも言えずにただ唄の言うことを肯定した。その日、どうにもならなくなって、私は寝る前に自らを慰めた。


 翌日、目が覚めるとすでに日は高かった。唄との会話を反芻しながら缶詰を開ける。秋刀魚のかば焼きが入った平たい缶の蓋を引っ張ってゴミ袋に放る。分別とかを意識しなくて良くなったのは、この生活をすることになって唯一良かったと思えることかもしれない。だってめんどくさいし。

 これは燃えるゴミじゃないだなんて口うるさく叱る母もいなければ、ホントに持っていってくれない収集業者も居ない。もう、誰も居ない。

 そういえばゴミを燃やす当番の人達はどうしてるんだろう。まぁ、もう私には関係のない世界の話だけど。


 昼食が遅くなったにも関わらず、未だにノックが聞こえない。いつもならドア越しに他愛もない会話をしている時間なのに。何かあったんだろうか。

 良くない想像は止まることを知らない。そして私は、彼女の身を案じる気持ちの不純物に気付いてしまう。自分がそんな恐ろしいことを考えることが怖くて、信じられなくて。


 一口食べただけの缶詰にはまだ茶色い魚が入っている。水を用意するのを忘れていた私はとりあえず立ち上がった。

 歩き出そうとしたはずのに、全身の力がふわっと抜けて身体が重力に引っ張られる。台所の角に額をぶつけそうになって、申し訳程度に頭を抱えた。右肘を強かに床にぶつけたけど、なんとか生きてる。当たり前だ、これくらいで死んでたまるか。

 起き上がるのはしばらく無理そうだった。ポケットを弄ってみると、いつ入れたのか分からない銀紙に包まれたチョコレートが入っていた。いつか食べようと思って仕舞い込んで、今の今まで忘れていた。これなら食べられそうだ。

 私は台所の近くで横になって、天井を見上げながらそれを食べた。甘くて、頭がおかしくなりそうだと思ったけど、発狂することすら億劫だった。


 いつの間にか眠っていたらしい私はノックの音で目が覚めた。首を回して窓の方を見てみると、既に夕方になっていた。いつもより必死で、けたたましいノックの音。悪い知らせではないかと勘ぐってしまう。


 いつもの調子で喋ろうとしたけど声が出なくて、身体を起こしてから返事をしようと、もぞもぞと動き出す。だけど、私が起き上がるよりも、ノックの主が痺れを切らす方が早かった。


「文!? ねぇ!」


 声の主は唄だった。良かった、来てくれたんだ。彼女を安心させるために、私はすぐに力を振り絞って返事をすべきだった。まだ生きていると、声を張り上げるべきだった。分かっているのに、できなかった。

 もし、私が死んでると思ったら、唄はどうするだろう。ここは一階だ。ベランダから周り込もうと思えばやれる。


「……」


 唄は、どうするだろう。私は。

 彼女が死んだかもしれないと思って、怖かった。抱いてはいけない種類の恐怖を感じた。まるで自分の所有物を失うような、身勝手な感情。否定したいけど、できない。彼女と起こるはずだった何かに、まだ期待してる。潰えてしまったかもしれないと思った願望は、私の中で鮮烈に自己主張していた。

 そう、黙ってれば、多分、唄は。


 いつの間にか扉を叩く音が止んでいる。私は台所の棚に背を付けて浅く息をする。唄は、もう扉の前には居ない。きっと、彼女が中の様子を察せるような物音は立てなかった。

 開けっ放しになった襖の向こう、窓を見ると、カーテン越しに人影が見えた。何かをゆっくり振り上げて。降ろすのは一瞬だった。

 ドアのノックの音が可愛く感じるくらいの高い音が鳴って吐き出し窓が割れて、そこには風を受けてはためくカーテンと、肩で息をしながら剣先スコップを持った唄がいた。


「……文!」


 唄は多分、私が死んでしまったと思っている。応答がなければそう思うのも無理はない。靴を履いたままじゃりとガラスを踏んで、土足で入ってくる唄は私だけを見ていた。


「文、嘘だよね……?」

「……」

「文、ねぇ」

「……ごめん」


 私が声を発すると、唄は持っていたスコップをその辺に投げ捨てて駆け寄ってきた。膝を付いて私の手を取る。暖かい。私はそう思った。きっと唄も同じことを考えている。


「文?」

「ごめんね」

「……何が?」

「生きてて、ごめん」


 唄がこうしてくれるって、分かってて、黙ってた。あのドアを開ける勇気がなかったから。全ての罪を自分で背負いたくなかったから。でも、やっぱり、を知らないまま死ぬなんて嫌だって、思ってしまったから。唄に壊してもらった。ううん、私がそうするように仕向けたんだ。


「私の方こそ、ごめん」

「え?」

「私ね、多分、心のどこかじゃ……文はまだ生きてるって、分かってた」


 手が一層強く握られる。痛い。私は、心のどこかで悦んでいた。心配する気持ちに私と同じ種類の不純物が混じっていたというなら。


 私達は求め合っている。私はそう思った。

 きっと唄も同じことを考えている。

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