In The City Ⅳ

 たまに強めの風が吹いて、前髪が乱れる。それをうざったく思いながらも、手ぐしで軽く整えて歩き続けた。陽が出ているので、見回りを始めた時よりは暖かく感じるけど、乾いた冷たい風が着実に冬の匂いを運んでいる。吐き出す息の白さは、今シーズン一濃い。これからすぐに雪が降り出したとしても驚かないね、なんて話をさっき由仁としたばかりだ。

 私達は、一号棟の隣にある備品庫に向かっているところだった。隣を歩く由仁の様子を窺いながらぽつりと問い掛けた。


「……由仁、大丈夫?」

「うん」

「本当に?」

「やけに疑うしょ」

「だって、なんかぼんやりしてたから」


 彼女の異変を放置できるほど、今の私は楽天的にはなれない。これがなんでもない一日の一幕だったらいいのにと願ってしまう。私達は、終わる為の準備をしている最中だから。彼女の体調が悪いのなら、無理に付き合わせるつもりは無かった。


「あ、ごめん。辛いのを隠してるとかじゃないから、本当に」

「ホントに?」

「うん。えっちなこと考えてただけ」

「……ならいいんだけど」

「いいんだ」


 許されたことに由仁は驚いているみたいだった。由仁はその辺の欲求と私とを結び付けるのが未だに慣れないみたいだけど、そろそろ私のこと、ただの女だって認めて欲しい。

 妙な居心地の悪さを感じて視線を少し泳がせる。取り繕うような声に反応して由仁を見ると、左側を指差していた。


「見えてきた。思ったより近かったじゃん」

「帰り道、荷物持ったまま同じことが言えるといいね」

「脅さないでや」


 二人で小さく笑いながら備品庫へと歩いていく。平時は鍵が掛かっていたけど、事故が起こってからは解放されているらしい。理由を聞いたことはないけど、墓標の代わりに使っていたコールピックのパーツを持ち出す時なんかに不便だったのかもしれない。

 建物の前に到着すると、由仁がそろりと、確かめるように戸を引いた。噂通り、やっぱり開いている。それに安堵すると、すぐに中に入った。


「おぇっふ」

「ちょっ、こっち向いて咳込まないでよ」

「ごめん、埃っぽくて。あー、くしゃみ出そう」

「あっち向いて」


 私は慌てて由仁の顔を反らすように押す。だけど、私も人のことを言ってられないかもしれない。元々強かったであろう土の匂いと埃っぽさが混ざって、口から入ってくる。鍵が開いていたとしても、扉は常時開放されていた訳ではないだろうし、考えてみれば当たり前だ。人の出入りがなくなった空間がどうなるか、私達は何度も見て来たはずなのに。

 大きく息を吸い込まないようにしながら、両開きの戸を開放する。私は左、由仁は右。こうすれば、明かりがどこにあるか分からない状態でも中は見える。奥の方、ラベルの付いていない段ボールに入っているものは、なんだか分からないままだったけど。


 私達は、壊すものを探しに来た。何か特定のものではなく、私達でも扱えそうな何かだ。雨竜さんが居てくれればなんでも来いだったんだろうけど、故人に縋るような真似は虚しくなるだけだから、口にしたりはしない。きっと由仁も頭の片隅を過ぎっただろうに、彼女の名前を出すことはなかった。雨竜さんにはせいぜい、覚束ない手付きで工具を扱う私達を見て、空の上で笑っていてもらいたい。


「これどやって使うの?」

「分かんない」

「炭坑夫の娘でしょやー」

「由仁もでしょ」

「ホントだ」


 彼女が両手で重たそうに持ち上げたものはコールピックだ。最近は墓地で先端部分ばかりを見ていたから、久々に全容を見て、その迫力に少しだけぎょっとした。よく見ると、どこかに接続するパーツがある。このままじゃ使えなさそうだから、扱いさえ分かっていれば随分と楽ができそうなそれは置いて行くことにした。ちょっと持ってみたけど、本当に重たいから、あんまり残念ではない。お父さんはこれを片手で扱うこともあるなんて言ってたけど、本当かな。だとしたら凄すぎる。

 棚の奥の方を探索してみると、ガスマスクとツルハシを見つけた。今更こんなものは必要無いとガスマスクには見向きもせず、私達は大きなツルハシを手に取る。その隣には同じくらいのサイズのハンマーまであった。由仁は二本とも担いで見せると、「うん、まだ持てる」と頼もしい独り言を発している。だけど、欲張っても意味が無いと判断した私は、由仁の頭にヘルメットを被せると、ツルハシを取り上げて担いだ。


「えー」

「必要になったっけまた来ればいいしょ」

「そりゃそうだけど」


 ついでとばかりに、おそらくぶかぶかであろう軍手を二人分手に取ると、私達は備品庫を出た。炭坑作業員がヘルメットを被っていたことは知っている。ライトは坑道の入口の事務所で、自分の分を手に取って装着するということも。かぶり慣れていないせいか、これでもかなり頭が重たく感じる。ライトを装着した日には、首が鍛えられて太くなりそうだなんて笑いながら来た道を戻った。


 道すがら、バリケードで覆われている坑道の入口を観察した。その周囲は昔から柵で覆われていたけど、事故直後に押し入った菱井グループの作業員達に塞がれてしまっているので、外から様子を伺うことはできなかった。柵だったそこは、壁になっている。

 あの壁に手を加えるつもりはないけど、昔から知っている景色が変わってしまったことに対しては、やはり一抹の寂しさを感じる。

 二号棟のロビーに戻ってくると、渡り廊下の前に立った。これが、私達が壊そうとしている場所だ。


「来たぜ、ラスボス」

「やってやろうよ」

「もち」


 私達は、軍手を履くと、ヘルメットを被り直した。にやりと笑って壁に立てかけていたツルハシとハンマーを手に取る。そうしてコンクリートで塗り固められてしまった渡り廊下の扉を見つめた。私達は、今からそれをぶち壊そうとしているのだ。

 道具ならいくらでもある。ここは硬い壁を破壊することを生業としていた人達が暮らすところだったんだから。

 扉を壊したらどうなるかなんて、分かってる。分かってるんだ。だって、ここから漏れてるガスで、私達はこんなことになってるんだから。


 ——最後に、渡り廊下の扉、壊せないかな

 ——……なにそれ、最高のイタズラじゃん


 私が提案した時、由仁はそれはそれは楽しそうに笑った。なんで扉を壊したいと思ったのか、自分でも上手く説明できない。ほっといても死んでしまう自分をより早急に殺したかったから? 少しでも長生きすれば、それだけ由仁と過ごせるのに?

 私は多分、いつか部外者に壊されてしまうくらいなら、この団地を、この団地ができた理由とも言える、大切な場所を。自分の手で壊したかったんだ。

 ここはいつか、きっと取り壊される。こんな事故が起こった炭山やまを、未来の人々は再生させようとしないだろう。だったら。それならば。私達が、全て終わらせたいと思った。


 私はツルハシを振り上げて、力の限りドアを塗り固めているコンクリートに振り下ろした。たったそれだけの動作で、体中に激痛が走ったけど、構いやしなかった。

 由仁は、私に当たらないよう配慮しているのかすら疑わしくなるほどの勢いで、ハンマーを横に振る。金属が硬いものに当たる音が、二号棟のロビーに響く。いつか聞いた、お父さん達が出す音には全然敵わない。それが少し悔しかったけど、全力を尽くすことしか、今の私達にはできない。

 できればドアが開くようにしたかったけど、それほど器用にコンクリートを剥ぐ術を私達は知らない。しばらく作業を続けていると、由仁が振るったハンマーが扉の真ん中辺りを貫いた。拳が入るくらいの、小さな穴。それを広げるように、なおも道具を振るい続ける。


 結局私達にできたのは、渡り廊下の入り口を壊すところまでだ。この先には進んじゃいけない。得体の知れない何かが、私の全身にそう告げていた。由仁も異常を感じ取ったらしく、ハンマーの柄を離して床に転がすと、力なく笑った。


「うっわ、ヤッバ」

「甘ったるい匂いがすごいね」

「ここまでやれれば、上出来でしょ」


 屈めば通れるくらいの穴を見つめて、由仁は言った。私は横で、静かに頷く。ざまぁみろ。誰に当てたのか分からない言葉を呟くと、ヘルメットを脱いで、渡り廊下を背に数歩歩く。部屋に戻ろうとしたんだけど、どうやら私はここまでのようだ。

 がくりと膝を付くと、由仁が慌てた様子で私の名前を呼んだ。あとは部屋に戻って、由仁と楽しく過ごすだけだったのに。


「千歳、無理しないで」

「いま無理しないで、いつするのさ」

「死ぬって」

「無理しなくても死ぬよ。早くここから離れないと」


 立ち上がることさえ手を借りながらだというのに、冷静でいられないのは私じゃなくて由仁の方らしい。華奢な肩に腕を回して体重を預けると、由仁はふらつきながらも前に進んだ。

 このまま階段を上がるのは不可能だろうと判断すると、私はロビーの入口を指差す。


「私、あそこで終わりたい」

「終わるとか言うのやめなって」

「本気だよ。由仁」

「千歳……」


 私の目つきで何かを察した由仁は、自分と同じくらいの重さの荷物に肩を貸して、指定された場所へと歩き出した。荷物っていうか、私なんだけど。


 長い時間を掛けてロビーの入口、数段しかない階段を椅子にして腰を下ろすと、由仁の肩に頭を置く。私ばかりが限界を迎えているわけじゃない。由仁だって、いつ倒れてもおかしくないくらいの状態だと思う。なのに、私をここまで連れて来てくれた。

 ありがとう、そう言うと、由仁は「ん」とだけ答えて、いつの間にか傾き始めた陽を見つめる。


 もしかすると由仁は、どうしてこんなところで、なんて考えているのかも。私だけが記憶に深く刻み付けているだけの、由仁にとってはどうでもいいことだったかもしれない。


 でもね、ここは、私と由仁が、出会った場所なんだよ。

 由仁と出会ったところで、由仁と終わりたい。

 今にも手放しそうな意識の中で、そう思ったんだ。


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