君が嘘をつくというのなら Ⅳ


 千歳に教えてないことがある。


 たとえばあたし達の体液は甘いとか。


 ”甘い物”に狂うのは、それまで甘味を摂取していなくて、尚かつ症状が進んでから口にした人間、だけじゃないとか。


 っていうかあたしらはあたしらの体液でいとも簡単に壊れられるんだとか。


 多分あたしも壊れ始めてるんだとか。


「由仁?」

「あぁ、ごめん」


 あたしらは朝の物資捜索の当番をこなして、朝食の炊き出しを外で済ませたところだった。当番の為にロビーに向かったあたしらが、炊き出しの匂いを嗅ぎ付けて安堵したことは言うまでもない。二号棟の出入り口の階段に腰掛けて食べる豚汁は最高だった。味はあんま分かんないんだけど、とにかく気分が良かった。

 憂鬱だった三國との対面を、何故か免れたこともあると思う。物資捜索は元々あいつが受け持ってた当番だから、今日こそは顔を合わせなきゃいけないと覚悟してたのに。その場に集まったメンツで顔を見合わせたけど、もう慣れた作業だったし、支障はなかった。

 誰かが「寝坊か?」なんて言って笑ってた。どっかで死んでくれてればいいのにって思ったのはあたしらだけだろうか。いちいち確かめるような賢くない真似はしなかったけど。女性陣にはくたばれって思われてるといいな。


 まだこうして普通に千歳と暮らしていたい。あたしらがを共有してしまったら、きっとすぐに箍が外れて戻ってこれなくなる。

 三笠さんと栗山ですらそうだったんだ。二人とも年上の女性で、自制心がない人には見えない。だけどダメだった。

 千歳は変なところで頑固だから、もしかしたらどうにかなるかも。でもあたしは全然自信ない。すぐに千歳に泣きついて、あたしが知ってる一番気持ちいいことを一緒にしたくなると思う。

 っていうか今だってしたい。千歳があたしを押し倒してくれないかなとか。そのままあたしの口を千歳の舌で犯してくれないかなとか。本人が聞いたら気持ち悪がりそうなことばっかり考えてる。


 だけど、あたしはそれを千歳には伝えない。絶対に。


「今日は何して過ごそっか。夕飯の炊き出し手伝うにしても、まだ時間あるし」

「んー。ま、とりあえず昼まで二度寝でいいんでない?」

「もー」


 千歳には何も知らずにあたしと接して欲しいし、知らない上であたしと居ることを選んで欲しい。死ぬときだってあたしの側を望んで欲しい。

 随分イカれた発想だけど、実を言うとその逆でもいいと思ってる。要するに何も知らないが故の無邪気さで蔑ろにされたり、無配慮な言葉に傷付くのでも。

 変に気遣われて千歳の望まないことをさせてしまうのが怖かった。千歳の行動は100%あたしが何者であるかに依存しないで欲しいと思っていると言えばいいのだろうか。

 例えば、あたしが余命十分だと知ってたら、きっと千歳は出かけたりしないだろう。だけど、知らなければ当然出かける。そして帰ってきてから死んでいるあたしを見て驚くことだろう。上手く言えないけど、千歳には後者のような選択をし続けて欲しい。


「由仁、あっちいこ」


 部屋へ戻ろうと立ち上がって振り向いた千歳が、こちらをちらりと見る。なんで、そう言いかけてすぐに理由を察した。

 一階の広場の真ん中辺りに突っ立って、三國がこっちをガン見してる。あの目はヤバい。


「そうだね、あっちがいい。見ちゃだめだよ。怖いからって、あたしにくっつくのもだめ。普通に、なんてことないって顔で、部屋まで行こう」


 なんとなく、だけど強くそうすべきだと思った。目が合ってもいけないし、千歳と誰かの接触を見せつけるような真似もすべきじゃないと。それが例え、あたしという同性だったとしても。っていうか、なんなら「俺が男の良さを教えてやる」くらい考えていそうで気持ちが悪い。

 いや、そこまで考えていられればいい方なのかもしれない。三号棟で飽きるほど見て来た性欲ゾンビ共みたいに、自分と同じようなおっさんに飛びつくくらい見境がなくなってる可能性がある。あの目はそういう危うさを孕んでいる。

 三國が見えないところまで移動すると、あたしらはどちらからともなく手を繋いで、早歩きで部屋に向かった。


 千歳は、結構強い奴だと思う。強がってるんじゃなくて、本当に頼りになるところがあるっていうか。そんな千歳の手が、震えている。


 家のドアを開けて中に入ると、千歳はすぐに振り返ってあたしの身体に腕を回した。突然のことに驚きながらも、あたしは案外冷静で、音を立てないように後ろ手に鍵をかった。

 首筋からしてくる甘い匂いに、苛立ちと興奮を覚えながらも、空いた方の腕を優しく彼女の背中に回す。


「……なんで。急に、別人みたいに」

「まぁ、ガスでおかしくなっちゃったんでしょ」


 千歳はバカだ。のらりくらりと三國を躱して、躱し続けて、いつかそっと死んでくれるとでも思っていたのだろうか。あたしは、こんなことが起こる日が来るって覚悟してた。覚悟してたというよりは、確信してたというべきか。


「こわい。……こわい」

「うん」


 震える体を抱きしめて、耳元で優しく囁く。あたしの声が千歳が感じる恐怖を消し去ってくれればいいと願ったけど、彼女の体は震えたままだ。


「ねぇ、こわいよ」

「あたしが一緒にいるしょ」

「でも……」


 作業着の上から千歳の背を撫でる。薄い布の肌触りと、その下にある想像上の素肌との感触を比較してみる。布が邪魔だと思うあたしは大分不謹慎なんだろう。

 こんなに怯えて、頼ってくれているというのに。あたしは千歳とのそれを想像してばかりで、今の彼女の恐怖に向き合っていない。このままじゃ駄目だ。あたしは自分に言い聞かせるように言った。


「したっけ、話しよっか」

「話?」

「うん。何が怖いのか、さ」

「そんなの、怖いものはこわいんだよ」


 気持ちの正体を知るのは大事だ。克服や解決の糸口は案外すぐ近くに転がっているかもしれないから。だからあたしは千歳の気持ちになって、怖いものを一つ一つ数えていった。


「あいつが目で追ってきたこと」

「……うん」

「明らかに前と様子が変わったこと」

「うん」

「今後も同じようなことがあるかもしれないこと」

「う、ん……」


 千歳はあたしの鎖骨に顔を押し付けて、なんとか息をしている。逃げ場を探すような仕草だと思った。だけど、そんなことをしても変なことを考えるあたしを悦ばせるだけで、なんの解決にもなりはしない。教えないけど、知ったらどういう顔をするのか、ちょっと見てみたい気はする。


「ほら。こやって、考えよ。して、落ち着こ。他には? 何がイヤだったり怖かったりした?」

「由仁にまで酷いことされたらどうしようって、こわかった」


 彼女の感じていた恐怖を打ち明けられて、あたしは何も言えなくなった。

 黙ってればいい。伝えなければ考えてないのと同じ事だ。そんな風に頭の何処かで割り切っていた邪な感情が、急に恥ずかしくなった。


「千歳、あたし」


 ごめん。そう言いかけて声を止めた。というか短い悲鳴に変わった。ドアを叩く大きな音がしたから。薄い扉一枚隔てて誰かがいる。千歳の体の震えが大きくなるのを感じながら、恐る恐るドアに顔を寄せると、外側から手の平で叩くような大きな音が鳴った。

 体がびくりと跳ね上がる。千歳だけじゃない、あたしだってそうだ。


 扉が激しく叩かれ、ドアノブがガチャガチャいってる。鍵がかかってることを確認しながら、ドアチェーンも掛けた。千歳は今にも泣きそうだ。っていうかあたしも泣きそうだ。なんなんだよ、コイツ。なまらキモイ。

 アイコンタクトとジェスチャーで千歳をそっと奥の自室に移動させると、ゆっくりとドアの覗き穴を見た。

 魚眼レンズみたいに変質者の気色悪い顔がさらに気色悪く映し出されるかと思っていたのに、目の前に広がる光景は暗い。というよりも黒い。壊れたのかと思っていたら、視界が白く曇って、すぐにピンクっぽくなって、肌色っぽくなる。

 そうして、いままで何かに覆われていて、光が入っていなかっただけだと悟る。あたしが最初に見たのは、多分この気色悪い不審者の口内だ。マジできめぇ。早く死ねよ。

 案の定というべきか、変質者の正体は三國だった。息が掛かって曇ってるせいでよく見えないけど、さっき見たときの服の色や体型から、すぐに分かった。


 音を立てないように少しあとずさって、キッチンへと移動する。棚を開けると、扉の裏に数本の包丁が差してあった。最近頻繁に手を切っているあたしにとっては馴染みのある光景だ。

 柄を握って唾を飲む。千歳は奥の部屋にいるから、あたしが今どんなことで迷っているのか、分からないはずだ。


「……」


 未だに叩かれ続け、けたたましい音を上げるドアを見る。無いと信じたいけど、あのドアが壊れてしまえば、あたしらはあいつに。いや、あたしは平気かも。千歳をおとりにして逃げれれば、だけど。そんな選択ができるなら、そもそもこうして包丁を持って震えてなんかいない。


 足音を殺してゆっくりとドアに近付く。でも、さっきの穴を覗こうとしたところで、あたしは踵を返した。


 正解がやっと分かった。そんな、どこか晴れ晴れとした気持ちですらいる。

 すたすたとキッチンの横を素通りして、そこに無造作に包丁を置く。部屋に入ると、千歳は座椅子の上で膝を抱えて泣いていた。


「とりあえずさ、戸締まりはしてるし。ここ二階だから窓から入ってくる心配も無いし。あんなやつのこと、ほっとこ」


 めちゃくちゃだ。今もドアはガンガンと鳴っている。多分三國の手は血だらけだ。もしくはドアを叩く為の道具を持ってるとしか思えない。

 とにかく正気の沙汰ではない勢いの音が断続的に鳴り続けている。あんなおっさんの心配をするつもりなんてないけど、千歳の、いや、あたしらの家のドアに、奴の穢らわしい血が付着するのはイヤだ。


 座椅子の隣に座布団を移動させて千歳のすぐ隣に座ってみると、膝を抱えたままこちらへと体重を預けてくる。

 今のあたしに、何ができるだろ。そんな風に考えてみても、千歳の重さを左側に受けながら、申し訳程度に頭を撫でてやって、ドアを叩く音が止むのを待つことしか思い付かなかった。


 甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐって、少し遅れてその匂いの正体が千歳の涙であると思い至る。こんなに煽られて、何もしないあたしって多分偉い。かなり。だけどこれ以上続くようなら、マジで自信ない。

 あたしらの身体は、随分と面白おかしく作り変えられてしまった。あたしを信頼して千歳はこんな姿を見せてくれているというのに、そのあたしですら彼女の涙にむらむらしてる。立場が違えば、千歳だってあたしの涙を無視できないはずだ。どう足掻いてもバッドエンド。幸せになんかなれっこない。

 千歳の体液に触れたい。そんな欲求が爆発して、まだ血色のいい首筋に指を這わせる。異変に気付いて千歳が顔を上げる。鼻先がぶつかるくらい、顔が近かった。


「由仁……?」


 体中が熱い。つま先から毛先まで、本当に、あたしを構成する全ての細胞が千歳のそれを渇望していた。だけど、それをやったら。本当に終わりだ。終わりになる。

 ふいに、ピントがズレていた白い物体に焦点が合う。包帯を巻いたあたしの手だ。千歳の肌を撫でた指の。

 そうだ、なんのために。あたしは。全部、自分の中で終わらせるって、決めたんだ。栗山が三笠さんにした酷いこと。あたしは絶対に、千歳にそんなことしたくない。千歳だって、まさかあたしがそんなことをするだなんて思っていないだろう。


「由仁」


 あたしは大丈夫。そのために、馬鹿げた自給自足も始めた。端から見ればただの自傷行為だけど、あたしはあれに意味を見い出しているし、満足してるんだ。


「ねぇ、由仁ってば」


 くっつくくらい顔を寄せると、千歳はあたしの肩に顎を置いて、耳元で囁いてきた。その声は震えていて、からかうために発せられたものではないとすぐに分かった。


「由仁、さっきからこわいよ。返事してよ」

「……ごめん」

「ねぇ」

「何?」

「間違ってたら悪いんだけど……今、えっちなこと考えてた?」


 言葉に詰まった。完全に。

 だって考えてたし。えっちなことっていうか。千歳のこと。どっちも同じか。今のあたしにとっては。


 誤解を生んだり相手を追いつめたり自分の首を絞めたり。言葉なんてろくなもんじゃない。あたしは勢いに任せて千歳の唇を奪ってしまいそうになって、ぎりぎりで思い留まって、立ち上がりながら笑った。

 こんな時に冗談言わないでよって、自分の口が発して、やっと気付いた。ドアを叩く音が消えている。じゃあこの頭の中で鳴り響く音はなんだ。キィィンってうるさくて、離れない音。


 自分がどんな有様なのかも分からないまま、あたしは「なまら眠い」なんて言葉を発して布団に潜った。早朝の当番だったから、この言い訳に違和感はないだろう。タイミングは強引だったけど。

 千歳もすぐに続いて、迷うことなくあたしの胸の中に顔を埋めてくる。ちらりと見える横顔は感触を楽しんでるようにすら見えるけど、今の今まで怖い思いをしていたと思うと全て許せそうだ。


「ねぇ」

「んー?」


 由仁がいてくれて、よかった。

 千歳はそう言って、あたしの腰を抱き寄せた。こっちの気を知らない無邪気なスキンシップがムカつくんだけどイヤじゃなくて、なんていうかただただ困る。困っているって顔に出すことも出来ないからまた困る。


「そっか」


 そうやって返事をするのが精一杯だった。


「私も、本当に、由仁に何かあったら、力になりたい」


 じゃあ、このどうしようもない欲求の息の根を、千歳の手で止めてよ。

 言えるわけない言葉を頭の中でぐるっと一周させてから、また「そっか」と呟いた。


「なんでも言ってね」

「うん」

「大丈夫?」

「うん、眠いだけだから。元気だよ」


 なんてね。

 嘘だよ、あたしは今にも死にそうだ。


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