夜と煙とベルベット Ⅰ


「幾さん、具合でも悪いんですか?」

「いえ、ちょっと熱っぽいだけで。多分、寝たら治ります」


 他愛もない会話をしながら雑貨屋を訪ねた私達だったが、そこで聞かされたのは衝撃的な告白だった。栗山が、桂沢さんに乱暴を働いたらしい。言葉にすると呆気ないものだが、それは絶対にあってはならないことだった。


 誰かに嘘だと言って欲しかった。自分のごく身近では、人が様々な理由で死ぬようなことがあったとしても、そういったことは起こらない、と。これは夢だと誰かが告げてくれたなら、私は見え透いたその嘘を縋るように信じようとしただろう。

 私と七枝さんは、二人でじっと栗山の話に耳を傾けた。開け放たれた出入り口から吹き込む風が冷たいのか、それとも落ち着かないのか、七枝さんは交互に両手を包むようにして握っている。私はというと、ポケットの中で拳を握っていた。寒かったんじゃない、介入し得ない過去の出来事に耐えられなかっただけだ。

 彼女がしでかしたこと、罪の内容。栗山のしたことは許されるべきではない。桂沢さんが心配でたまらなかった。だというのに、私は同時に、栗山にも同情していた。


 彼女は元々、そんな酷いことを平然とやってのけるような人間ではない。これまで大した交遊はなかったが、それは明らかだ。何があったのかを打ち明けるときだって、その表情は悲痛に歪んでいた。あれが演技だとは思えない。

 そしてなにより、私は彼女を狂わせた衝動の激しさを知っている。知ってしまっているのだ。だから同情した。明日は我が身だと思った。

 こんなに激しい衝動を抱えたまま、毎日その狂気の源と行動を共にしているなんて、本当に馬鹿げている。最良なのは誰にも会わずに、命が終わるその時を待つ事だ。それを知っているのに、行動に移せない。私は狡猾な臆病者だ。


 この間、私は七枝さんに打ち明けた。あなたを食べたいと。それは性的な意味ではなくて、いや、そう断言できるかどうかも怪しいものだが。とにかく、もう少し形の違う欲求だと思っていたものの正体が、栗山の話を聞いてやっと分かった。

 私は、ガス中毒者として七枝さんに強く惹かれており、彼女の体液を欲しているんだ。性欲に限りなく近い欲求に色を変えて。


 雑貨屋を出て、桂沢さんの家に向かう。鍵が掛かっていて、ノックをしても反応が無い。家に引きこもっているのか、何処かに出掛けているのかは分からないが、私達はそれ以上のことをする間柄では無い。今は誰にも会いたくないのかもしれないと判断して、今日のところは踵を返すことにした。

 家に戻る道すがら、私はひっそりと彼女に呟いた。


「……栗山の話、何か知ってたんですね」

「実は、前に栗山さんが桂沢さんに、その、キスしているとこを見てしまって」

「そうだったんですか」

「言いふらすのも気が引けたので、幾さんにも言えなかったんです」

「あぁいえ、当然だと思います。ただ……」


 つまり、彼女は私達がどんな風に他者の身体を求めるのか知っていた、ということになる。それって、どういうことかを、考えなかったのだろうか。


「変なこと聞いて、いいですか」

「どうぞ」

「真似したいって、思わなかったんですか」


 口にしてから後悔した。私は栗山の話を聞いて、どこか羨む気持ちもあったんだ。だから余計、彼女を責めることができなかった。こんなことを聞いて、「真似したかった」という言葉を彼女から引き出して、私は同じ欲求の人間がいることに、安堵したかっただけだ。

 自分の心がひどく醜いと思った。こんなことになるくらいなら、私は普通に彼女に惹かれたかった。自分が同性愛者であれば、彼女の身体を求めるのは当然のことで、こんなに違和感を感じなかっただろう。

 今の自分は不誠実だと思う。上手く表現できないが、彼女の身体ばかりを求めている自分が、気持ち悪くてたまらない。


「部屋、行っていいですか」


 私は何も言えなかった。真似をしたいと思わなかったのか、という問いに対する彼女の返答としては頓珍漢もいいとこだ。最近は何も言わずに部屋を訊ねてきていたのに。わざわざ確認する意味は。だけど口にしてしまったら、野暮になる気がする。

 気付けば足が止まっていた。そうして彼女も釣られて立ち止まる。二号棟のロビーで、私達は見つめ合っていた。観念して声を発したのは私の方だ。


「……はい」

「良かった」


 には良くしてもらった。彼を裏切るようなことなんて、したくない。

 だけど。あぁ、駄目だ。多分、駄目だ。いま彼女を家に招けば、良くないことが起こる。そんな確信があるのに、何かが私を強く惹きつける。


 そうして彼女は私の手を取る。

 引かれるまま誘われて、どうせ私は、この手を振り解けない。


「私がどう感じたか、知りたいですか」

「……分からないです」

「自分で聞いたくせに。知るのが怖いんですか?」


 彼女の指摘する通りだ。私は、怖い。彼女から告げられようとしている言葉や、自分の中で膨らみ続ける、この馬鹿げた欲求が。怖くて仕方がない。

 逃げ出したいけど、自分から逃れる為には死ぬしかないだろう。それは出来ない。私は春の分も生きると決めたのだから。


 部屋に辿り着くと、私達は無言で台所のテーブルに着いた。向かい合うように座って、時折七枝さんと目が合う。彼女の表情は淡々としていた。私は、きっと難しい顔をしているだろう。何を言うべきで、何を飲み込むべきなのか、もう分からなくなっていた。

 できることなら、私の中に渦巻くこの情欲にも似た欲求を、洗いざらい吐き出したかった。どうやってあなたに触れて、何をして、どう感じたいのかを。全部。罪の告白をするようにそれができたのなら、私は口を開いたかもしれない。

 だけど私は今も煙草のフィルターで自分の口を塞き止めている。言ってはいけない。そう思ってそれを咥えた。欲求を口にしてしまえば、きっと期待してしまう。言ったことが現実のものにならないかと。そして、おそらく彼女は拒まない。そんな不義理は、愚直な私には似合わない気がしたのだ。


「……」


 それでも余計なことを言いそうになって、今度は火を点ける。煙と一緒に邪な心を吐き出すように、深く呼吸をして背もたれに肘をかけてみた。煙草を指で挟んだままの手はテーブルの端に置く。助けを求めるように玄関を見ても、誰かがやってくる気配はなかった。


「……お夕飯作りましょうか」

「……ありがとうございます」


 椅子からすっと立ち上がった彼女は、椅子の背もたれに掛けてあったエプロンを手に取って身につけた。何も無かったと言うように、彼女の横顔は相も変わらず陶器のように透き通っていて、今日は特に現実離れして見える。

 宙ぶらりんになったままの会話がいつ再開されるか。私はそのことばかりを気にかけていた。彼女が栗山の話を聞いてどう感じたか。真似したいと思わなかったのか。本当に、我ながらバカなことを訊いた。


 彼女は台所で作業をしているので、表情は見えない。だけど、きっと先ほどまでと同様、いつもと変わらない顔をしている。私が彼女の言葉を聞くのが怖いと言ったばかりに、この会話は流れてしまったのだろうか。それならそれでいい。私の馬鹿な問いごと無かったことにしてくれるなら、願ってもいないことだ。


 包丁が規則正しくまな板を打つ。軽い音に耳をすませて何も考えないようにぼんやりしていると、調理の音に混ざって声が届いた。


「私は。真似できないって思いました」


 唐突に告げられた言葉。それは本来なら、違和感なく繋がるはずもない返答だった。だけど私は瞬時に理解する。そうして、その解にどう触れていいのか分からないでいた。


「真似できない、ですか……」

「えぇ」

「どういう意味ですか」

「……自分の胸に訊いてみてくださいよ」


 もしかするとそれは彼女なりの嫌味だったのかもしれない。だけど私は考えてみることにした。彼女が私に告げた言葉の意味を。言い回しから、栗山に対する嫌悪感は感じられない。ただ自分にはできないと思った事だけが伝わってくる。

 私の頭が都合良く解釈しようとしているのかもしれないと、何度も答えを辿る思考にストップをかけて、それでも導き出されてしまった答え。彼女も、私と全く同じ気持ちなのだと。

 恐怖と期待が交錯して、私は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。必要以上にねちっこく消すと、誤魔化すように手を離す。


 それから夕飯ができるまでの間、私達は会話らしい会話をしなかった。少し前まで、鼻腔をくすぐっていた料理や食材の匂いに、今は何も感じない。

 自分が毎日少しずつ壊れていくのを感じながらも、なんとか正気を保てていたのは、七枝さんのおかげだ。彼女は私を狂わせながらも、ギリギリのところで人としての私を生き永らえさせていた。

 人の目があるという緊張感の賜物なのか、彼女にだけは軽蔑されたくないという気力の成せる技なのかは分からないけど。彼女の為に正気を保とうという私がいて、彼女に狂わされている現状がある。酷く歪で、滑稽だと思った。


「雨竜さんが私を見る目、今日はなんだか怖いです」


 今日の夕飯は野菜炒めだった。今の私にとってそれらは、素朴ながら味のしない様々な食感の食べ物でしかない。食べても害が無いから、むしろ体はエネルギーを欲しているから、そして七枝さんが作ってくれたから、口へと運ぶ。

 ただの作業でしか無いそれを繰り返して、終わろうとしている頃、彼女はぽつりと言ったのだ。私の目が怖いと。これまで彼女にそんなことを言われたことはない。だけど意外だとは微塵も思わなかった。


「……すみません。まだ熱っぽくて。具合が悪いので、元々悪い目つきが更に悪化してるのかもしれませんね」


 今日一日、ずっと熱に浮かされたように、長い夢の中にいるような感覚が抜けないままだったのは事実だ。栗山の話をしたところから遡って夢であったなら嬉しいが、残念ながらこれらは全て現実だろう。私が馬鹿げた妄想に縋っていることも、目の前の七枝さんが意味深な目をしていることも。


「私のせいですね」

「え? いや、体調が悪いのは七枝さんのせいでは」

「ううん」


 そうして彼女は不自然に言葉を切る。そのことが前後のやりとりを更に意味のあるものにしているように感じた。気のせいであってほしい。そう願う間も無く、彼女は再び口を開いた。

 今朝から生理なの、と。


 これまでの人生で、私は叶いもしない希望を抱いたことはなかった。

 頭が良くないと分かると、すぐに勉学の道に己の価値を見出そうとしなくなったし、祖父が生きている間は彼の言葉や肉体的な暴力を甘んじて受け入れた。

 何度思い返しても、春が死んだ時くらいだろう。何かの間違いであって欲しいとか、生き返ってほしいとか、起こり得ないことを心の底から望んだのは。


 そうして、私はいま、生まれて初めて、自分の為だけにその願望を胸にする。

 誰か今すぐ私を殺してくれ、と。


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