君が嘘をつくというのなら Ⅰ


 最近寒いね。そんな話をしながら、あたしらは栗山さんの店で配給物資の仕分け当番をこなしていた。


 少し前までは千歳と同じ布団で寝てて暑さで目が覚めることもあったけど、最近はお互いの体温が湯たんぽみたいになってちょうどよく感じる。

 あたしらはいつもくっついて寝ていた。千歳曰く『こういうのは恋人同士がするもの』らしいけど、あたしは結構誰にでもそんな感じだから、あんまり相手にしていない。千歳の部屋はそんなに広くないから、私の分まで布団を敷いたら狭くなるし、毎日毎日自分の分まで布団をたたむのも面倒だし。

 じゃあ恋人同士になっちゃおっかって言ったら、そういうのは男の人となるものだよ、なんて至極当たり前のことを言って断られちゃった。三國とあたし、どっちがいい? なんて意地悪な質問が頭をよぎったけど、それは口にしなかった。


「あぁ、それはまとめてそこの段ボールに入れといて」

「はいはい」


 栗山さんは当番のメンツに的確に指示を出している。自分も動きながら、全員の仕事に目を配っているようだ。あたしも結構視野が広いほうだと自負しているけど、この人には敵いそうにない。

 さっきなんか、手が止まっていると名指しで叱られた。確かにちょっとぼーっとしてたけど、それをあの作業中に見抜くなんて、後頭部に目でも付いてんのかよ。


「地獄耳ならぬ地獄目じゃん」

「え? 何が?」

「栗山さん」

「あはは、でもそれ、栗山さんに聞かれたら怒られるよ」


 千歳は笑いながら衣類を一つの箱にまとめている。今日の当番は五人だ。先月決めた当番表ではここには八人が居ることになっているけど、数人足りない。みんながみんな亡くなっているとは言わないけど、動ける人間は着実に減っていた。最近はそのスピードが加速したなんて千歳は暗い顔をしていた。

 違うよ、千歳。そこは喜びなよ。そんな中でまだ生き延びてることをさ。悲痛な思いを押し込めてそんなこと言って、彼女にもっと暗い顔をさせてしまったことは、記憶に新しい。

 数少ない顔見知りだった、森岡というおばさんも亡くなった。明るくて、いつもみんなの中心にいるような人だった。あたしのお母さんとも仲良くしてくれた、愛想のいいおばちゃん。


「由仁ちゃん、それはこっちね。あと、私、地獄耳でもあるらしいから気を付けた方がいいよ」

「げっ」


 マジかよ。あたしはぎぎぎと振り返ってキャップとポニーテールがトレードマークの女を見る。腕を組んで眉間に皺を寄せている女は、ほら、早く、なんて言ってあたしを急かした。


「ほらー。由仁が悪いよ、今のは」

「……はいはい」


 私は段ボールを持って立ち上がる。ほとんどタオルしか入っていない箱は軽かった。よっこいせ、なんて言って店の奥へと運ぶ。カウンターのところには桂沢さんが立っていて、そちらにお願いします、と他人行儀な声をかけられたので、指示通り通路の端に段ボールを下ろす。

 この人は、謎に満ちていた。二号棟の三階に住んでいるらしいけど、それも栗山さんから聞いた情報で、それ以外のことは見た目以外、何も分からない。彼女が何も語らないからだ。あたしらが知りたそうにしてると、その気配を察知してさっと何処かに居なくなることがほとんどだった。


 栗山さんが店に入ってくる。通路にいる私には気付いていないようで、桂沢さんの頬に優しく触れて、大丈夫? なんて言っている。彼氏かよ。

 茶化してやろうと通路から身を出す直前、桂沢さんの体がびくりと震えた。あたしはそれを見逃さない。見逃せるわけがない。その仕草は、父に触れられる時の母と同じだったから。あの暴力を振るう最低野郎のことを思い出すと、最近忘れていた黒い感情が胸の底に広がっていく。こんなことばかり敏感な自分に、少し嫌気が差す。

 桂沢さんの瞳の奥にある怯えの色とか、相手の機嫌を窺うような顔とか、何もかもが母を彷彿とさせた。たったそれだけのことで、この二人の間にはただならぬ何かがあると感じてしまった。


「置いたよー」

「あっ、ありがとうございます」

「なんだ由仁ちゃん、そこに居たんだ」


 大げさな声を上げて栗山さんに自分の存在をアピールすると、私は店の外に出て、物資をまとめ終わった千歳の後ろ姿に話しかける。


「終わった?」

「あ、うん。たった今ね。栗山さーん、これは?」

「あぁそれはすぐ出しちゃうからそのままでいいよ。で、そっちにあるのが二人のお駄賃ね」


 駄賃だと指された段ボールを覗くと、そこには大量の缶詰が入っていた。なるほど、あって困るものでもないし、報酬としては的確だ。


「こんなもらっていいの?」

「うん、別に二人を贔屓してる訳じゃないから安心して」

「あの、今日はもう終わりですか?」

「あとは大人でやるから大丈夫。助かったよ、お疲れ様」


 栗山さんは爽やかにそう言って、あたしらを見た。その場にいた当番の人達も、快く見送ってくれるつもりのようだ。そうしてあたしらはお言葉に甘えて、店をあとにした。


「ねぇ千歳」

「何?」

「桂沢さんのこと、何か知ってる?」

「あぁ。ううん、全然。栗山さんが言ってたこと以外は、何も。でも、ずっと室内に居たって言ってたよね? もしかしたら病気だったのかも」


 その可能性はあたしも考えた。だけど、こんな隣人の噂話が好きな団地の中で、同じ棟に住んでいる千歳が何も知らないって、そんなこと有り得るのか。まぁ彼女が何者だろうと、今はただの働き者であることには違いないんだけど。


 二号棟の一階に入ったところで、段ボールを抱える千歳の足が止まる。遠くを見ているようで、あたしはその視線を辿って、彼女が足を止めた理由に気付いた。


「あれ……炊き出しの準備、してないんだ」

「みたいだね。今日はおやすみかな。最近、多いよね」

「うん。不定期に休むんじゃなくて、炊き出しは週に一回とか、そういう風にしちゃえばいいのにね」


 あたしがそう言うと、千歳は悲しそうな顔でこちらを向いた。何かマズいことを言ったかなって思ったけど、そうだ、言った。炊き出しの数が減って、減らそうと決めた数カ月後、三号棟は解散という道を辿ったのだ。


「あ、ごめん。そういう意味じゃなくて」

「いや、分かるよ。でも、炊き出しは続けて欲しい。私も手伝うし、由仁も手伝ってくれるよね?」

「うん、もち」


 あたしがそう言って歩き出すと、千歳もそれに続く。だけど、すぐにまた足を止めた。そこには、見たくもない顔があって、あたしらの道を塞いでいた。


「千歳、いいところに」

「三國さん……なんの御用ですか」


 三國の視界にはあたしが入っていないのだろうか。奴は嬉しそうににたりと気持ちの悪い笑みを浮かべて、千歳だけに話しかけた。空気が一気にぴりつく。あたしは敵意を隠さずに、中年太りした体を睨みつけた。


「通せんぼとか、小学生かよ」

「あぁいたのか。悪い悪い。いま二号棟の住人を探して話をしてるんだ。何、すぐ終わる」

「はぁ。で、なんですか?」


 三國は間をたっぷりと取ると、腕を組んで見せた。なんなんだ、こいつは。無視して行こうかと思った矢先、ヤツの口から飛び出たのは衝撃的な言葉だった。


「実はな、二号棟の責任者が亡くなっているところが発見されたんだ」

「……そう、ですか」

「そこで、次の責任者に、俺が任命された」

「なっ……そうなんですね。頑張って下さいね」

「あぁ、せいぜい頑張るさ。お前達も、他に誰か見かけたら伝えておいてくれ」


 そう言って三國は商店街に続く道へと消えていった。つくづく、嫌な奴だと思った。そんなことは元々受け持っている見回りや、物資捜索の当番の時にでも告げればいいのに。わざわざ知らせて回るようなことじゃない。


「千歳、大丈夫?」

「う、うん。いや、分かんない」


 箱を持つ手が震えている。あたしは千歳から段ボールを奪うように取り上げると、とりあえず帰ろうと声をかけた。呆然としているようだけど、彼女はちゃんと私の後ろを付いてきて、それから誰ともすれ違うことなく部屋へと辿り着いた。


 テーブルの上に荷物を置いて、二人で千歳の部屋に移動する。彼女の父が遺したという座椅子の上に千歳が胡座をかくと、少しだけ日常を取り戻せた気がした。


「あいつが責任者になるなんて……普通にやってくれりゃいいけどさぁ」

「うん……」

「あー、と……炊き出しも無いみたいだし、あたし、缶詰適当に開けて持ってくるよ」


 台所まで戻って、テーブルに置いたばかりの缶詰を手に取る。シンクのところに置いてあった缶切りを見つけると、そいつで缶を開封する。あたしは無力感に苛まれていた。あいつが責任者になったら、きっと千歳が奴と当番を共にする機会が増える。そしてあたしは別の当番に回される。

 そうなったら……千歳は、どうなるんだろう。考えるまでもない。無理矢理何かされることだって考えられる。っていうかそういう想像しか働かない。

 三國の目、完全にイっちゃってた。今月の当番は既に割り振られている。つまりあいつが権力を行使するのは、来月から。来月までに、死んでくれないかな。


「いった」


 考え事をしていると、蓋で手を切ってしまったらしい。人差し指から血が流れている。痛みに思考が邪魔されるのがうざったくて、あたしは反射的に傷口を口に含んだ。

 口の中に血が広がっていって、だけど血の味は広がらない。指を咥えながら缶詰を見ると、それはなんの変哲もない、サバ缶だった。


「え……?」


 じゃあ、なんで甘いの? 口の中に広がるこの味は、何?

 自分の血が甘いなんて、そんなの、絶対に有り得ない。口を離して、手の平を見つめる。甘い、美味しい。自分の血が、カラメルみたいに甘いなんて。おかしいのはあたしの味覚か。……それとも。


「なに、これ」


 確かめてはいけない。本能がそう告げている。指からはもうほとんど血が出ていない、確かめる為には、もっと深く切らなきゃ駄目だ。だけど、そんなことをしたら。あたしは。戻って来れなくなるかもしれない。


 分かっているのに、すぐ近くにあった包丁を手に取った。取ってしまった。今すぐ気付かなかったことにして他の缶詰を適当に開けて、千歳のところに戻らなきゃいけないのに。

 だけど、もう止まれなかった。あたしは左手で包丁の刃を握って、右手でそれを押し付けながら、肌の上を滑らせるようにして引いた。鋭い痛みが手のひらに広がって、すぐにそれは熱さになって、血が包丁を汚した。左手全体が痺れてるみたいだった。


 包丁を無造作にシンクに放って、手のひらを見つめる。心臓の鼓動に合わせて傷口がズキズキと痛んで、刻一刻と赤い液体が溢れてくる。あたしはそれに顔を近づける。くらくらするくらい甘い匂いがして、思考がぶっ飛んだ。

 舌を這わせて、痛みも忘れて、自分の体に血液を戻していく。やっぱり甘い。喉を鳴らして、勿体つけるように飲み込む。頭がおかしくなってしまったみたいに、止まれない。脳みそが痺れるような感覚が気持ち良くて、ちょっと怖い。

 少しずつ呼吸が荒くなる。息のしにくさが煩わしい。奥の部屋から千歳の声が聞こえて、なんて言ったのかは聞き取れなかったけど、「ちょっと待っててー」なんて脳天気な声を発する自分に驚いた。でも、手のひらに舌を這わせながら、そんな自分を褒めるあたしも居たんだ。本能に振り回されながら、まだ千歳のことを気遣える自分がいることに、少しほっとした。


 これは、千歳に知られてはいけないことだって。

 それだけははっきりと分かったから。


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