膜に覆われたマチ Ⅳ


「したっけねー」


 私は最近足元が覚束なくなってきたという女性に、埃の被った杖を無償で譲り、その背中を見守っていた。もしかするとこれから入用になるかもしれない。そう思って倉庫の奥の奥へとしまい込まれていた杖を出そうと振り返った。

 指示を出そうにも、そこにいつもあった人影はない。当たり前だ。身も心も、私がこれでもかってほど傷付けたんだから。触れられたくないこと、ナエばあさんのこと。それをネタに、私は彼女を罵った。嫌味を言った。こんなこと本当は言いたくないって思ったのに、次から次へと彼女を責める言葉が溢れてきて、それをそのまま口にした。

 人として最低だと思う。事情があったにせよ、踏み留まらなければならない場面だったのは明白だ。

 さらに私は彼女の身体を貪った。華奢な身体が軋む程、乱暴に。昨日の自分が自分じゃなかったみたいだとは思うけど、あの行為で甘味という快楽を享受したのは、他でもない私だ。誤摩化すように帽子を目深に被ると、店の出入り口に背を向けた。


 倉庫に着くと、メタルラックから大小様々なサイズの段ボールを避けたり下ろしたりして、やっと目当ての箱を見つける。

 最近、物忘れが激しい私だけど、これの場所はさすがに覚えていた。細長い箱を抱えると、ゆっくりと地面に下ろす。そんなに重たくはない。


「この箱、初めて開けた」


 箱の中には茶色の杖が数本入っていた。これは私がここで働くようになってから、一度も開けられていない。付き合いで仕入れたものの、こんなものは売れないというおじさんの予測が見事に的中した代物だ。いくつも店に並べておいても日焼けしたり、埃を被るだけなので、とりあえず一つだけ出しておこうという話になったとか。そうしてその”一つ目”は、先ほどの女性に貰われていくまで、ずっと動かなかったのだ。

 不良在庫が捌けるのはいいことだ。儲けにはならないけど、ここで保管されているよりも、必要としている貰い手の元に渡っていく方が、商品も幸せだろう。

 私はそれらを数本手に取って、店の裏口から戻った。レジカウンターの近くにそれを立て掛けると、なんとなしに外に出て、商店街の人の往来を観察してみる。


 やっぱり三笠さんの姿はない。いや、何度考えても当たり前なんだけど。本当に。来ないって分かってるのに、こうして彼女の姿を探してしまうなんて、やっぱり私はどこかおかしいらしい。あんな風に傷付けられた人が戻ってくる筈がない。

 私がいま心配すべきことは、彼女がどこかで自死する決断を下していないか、ということだけだ。心の寄りどころを穢されてしまった彼女は、もうきっとあそこにはいない。となれば家にいるだろうけど、いま私が尋ねてもただの嫌がらせにしかならないだろう。

 彼女の性格を考えると自殺するという選択肢を選ぶとは思えないけど、それだって私の思い込みでしかない。誰か適当な人を見繕って彼女の様子を見てきてもらうしかないと思う。

 彼女の家へは、もう二回足を運んでいる。二度目は出会った日の夜。一度目は、ナエさんが亡くなる直前に。手紙を運んでくれと頼まれて、ポストに投函しただけだ。そこが誰の家かなんて知らなかった、というか、聞けなかった。

 大切な誰かなのだろうと思って指定された部屋に向かった。その後、三笠さんと出会って部屋を案内されたとき、「なるほど」以外の言葉が出て来なかった。全てが繋がった瞬間だった。そして私には、三度目にあそこを訊ねる資格はない。


「今、大丈夫か?」

「へ? あぁ。赤平さんに、雨竜さん」


 二人は店の前に立って中を物色している。二人とも、顔色が良くない。ガスの影響だろうか。睡眠不足だと言う人は多いけど、それに悩んでいる人は稀だ。眠れなくても疲れを感じなくなったことに違和感を覚えている人の方が多いから。


 仲睦まじく買い物をしているつもりの二人に、こんなことを言うのは少し気が引けた。でも告げた。もし三笠さんを見つけたら、どんな様子だったか教えて欲しいと。店に顔を出すように、なんて言えるほど図々しくない。ただ、普通に過ごしているなら、それでいい。無事かどうか、知りたかった。


「……構わないが、私達は墓地と互いの家とここくらいしか行き来しない。栗山が部屋を訪ねた方が早いだろ」

「私達、良かったら店番してますよ」

「……やー、私は、もう合わせる顔無いっていうか。うーん……」


 珍しく歯切れの悪い私の様子に、二人とも思うところがあったのだろう。こんなに言いにくいことを口にしようとするの、初めてかもしれない。そう思った。だけど、それも当然だ。何せ、私が今からしようとしているのは、罪の告白なんだから。


「やー……絶対二人は引くと思うんだけど」

「少しだけど、私は栗山さんより年上だから、力仕事じゃなければ、助けになってあげられるかも?」

「力仕事なら私を頼れ」


 分かったらとっとと言え。私を見つめる二人の表情はそう言っていた。陳列された商品に視線を移して、ため息をついて。そうして二人を店に招き入れると、入口の引戸を閉めた。腰くらいの高さのレジのカウンターに手を付いて、もう一度ため息。


「……栗山さん、言いにくいなら、当ててあげようか」


 私は静かに顔を上げて、赤平さんを見る。彼女が言っているのは冗談なんかじゃない。前に、理性を失った様子を見られている。あんな仕打ちを受けてもなお店に来ていた三笠さんが来なくなるようなこと、そう考えると、選択肢はもうほとんど残っていない。自ら罪を告白するか、人の手を借りて暴いてもらうか、私に残されている道は二つに一つだ。


「……いい、言う」

「そ。まぁ、私は察しちゃったけど」

「栗山、桂沢さんに、何をした……?」


 何を。何をしたんだろう。私はたどたどしく答えた。つっかえながら、彼女にしたことを。彼女の大切なものを踏みにじって、どうしても涙が欲しくて、目玉を舐めた。そうしたら我慢できなくなって、彼女を脱がせて、それから。


 どこまで話したのだろう。痛みに気付いて顔を上げると、雨竜さんが私の肩を掴んでいた。肩が軋んで、悲鳴をあげている。彼女は怒っているようだ。私を見下ろす剣幕がそれを物語っている。


「……なして雨竜さんがそんな顔してんのさ」

「分からない。が、お前に腹が立つ、ということは確かだ」

「……そうだろうね」


 私達が睨み合っていると、出入口をノックされる。見ると、背の低いおばさんが立っていた。あぁ、なんだっけ。信じらんない、お客さんの名前忘れるとか。ははは、すごいな。

 とにかくそのおばさんが「見てっていいかい?」と言うから、私は愛想笑いをして頷いた。見かねた赤平さんが代わりにレジに立ってくれて、雨竜さんが私を裏へと連れ出す。誰の店か、分かったもんじゃない。

 周囲に人の目がない事を確認すると、雨竜さんは呟いた。


「桂沢さんのことは気にかけておく。だけど」

「いいよ。分かってる。私にはもう二度と関わるなって言うんでもなんでも、好きにして。私もその方がいいと思うし」

「……無理矢理襲ったにしては、潔いんだな」

「そういうまともな部分が残ってなかったら、私はとっくに彼女の家に押し掛けてるよ。分かるでしょ」

「……そうだな」


 雨竜さんは複雑な表情を滲ませて、まだ何か言いたそうにしている。だけど、話したいことなんて、もう何もない。気付けば、私は雨竜さんのその表情の意味を探るべく、言葉を発していた。


「もう二度と私に関わらない方がいいってのはね、多分……三笠さんが側にいたら、またすると思う。アレを知ると、本当に……全部、どうでもよくなっちゃうんだよ」

「呆れた……まるで麻薬だな」

「麻薬だったっけ良かったのにね。それは私達の体が有している液体なんかじゃない。入手が難しい分、麻薬の方がまだマシだよ」

「栗山……」


 私の言葉を全く聞き返さない。つまり、彼女はもう知っているんだ。私達にとって、同胞の体液がどういうものなのかを。あえてそこは確かめない。そうだと確信して、私は続ける。


「ねぇ、雨竜さん」

「なんだ」

「私さ、多分、もう駄目だわ」

「……適当なことを」

「ホントなんだよ。もう、三笠さんの体以外、何も欲しくないんだから」


 雨竜さんは絶句している。意外だったのだろうか。そうでもなきゃ、私は彼女を犯したりなんてしないのに。結構酷い人だと思われてたのかな、私。


「でもね、三笠さん以外の、誰でもいいのかなって気もしてるんだ」

「……言ってることが、全く逆じゃないか」

「そうなんだよ。なんでそんな風に思うかってね」


 改めて周囲を見渡して、誰もいないことを確認してから私は続けた。


「雨竜さんの匂い嗅いでると、なんか変な気分になるっていうか」

「栗山、やめろ」

「雨竜さんはどうなの? ねぇ、ちょっと嗅いでみてよ」

「……嗅ぐって、どこを」

「ここ」


 そういって私は胸を指差して、シャツを人差し指と親指できゅっと摘んだ。谷間を見せつけるような仕草だけど、別にそういう意図は無い。ただ、今日は朝から動いていたし、比較的暖かい。私と同じレベルで他人のそれに反応できるなら、汗の匂いを嗅いで平然としていられるとは思えない。


「……バカみたいだ、いやだ」

「ねぇ、ちょっとだけ」

「私達はそろそろ」


 雨竜さんは私以外の何かから逃げるようにして、私の肩を押し返す。先ほど肩を潰す勢いで握ってきたものと、同じ手とは思えないくらい弱々しかった。


「ねえ」


 なんだか楽しくなってきた。肩に置かれた手に手を重ねて、彼女の脚の間に自分の脚を入れて距離を詰める。


「七枝さんに手出しそうになっちゃったら、私にしたらいいしょ」

「……は?」

「だから、もし私の匂いを嗅いでくらっときちゃったらって話。私はこれ以上三笠さんを傷付けなくても済むし、利害が一致するじゃん」

「お前……」

「試しにキスしてくれてもいいよ」


 煽りに煽りまくった。それでも何も言わないから、私は雨竜さんの手を取って、導くように自分の服の中に入れてみる。彼女は私を無視していたというよりも、ただ呆気に取られていただけのようだ。見た目によらず、随分初心な人だと思う。

 ブラの上から胸を鷲掴みにさせて、彼女の首に腕を回す。ふざけてただけなのに、なんかだんだんその気になってきた。元はといえば、この人の強烈な甘い匂いが全部悪いんだ。


「しないの?」


 言いながら、元々接近していた顔をさらに寄せる。噛み付くように唇を奪おうとしたところで、我に返った彼女に左の乳房を強く握られた。これが彼女の答えか。心臓の真上の痛みを受け止めながら、私は笑った。


「痛いんだけど」

「当然だ。そうしてる」


 彼女は怒っている。そんなこと、誰にでも分かる。声と表情と、私に触れている手がそう言ってる。


「あまり私をバカにするな」

「私は、本気だったのに」

「……もう行く」


 雨竜さんは店の中へと戻り、赤平さんの手首を掴んで、強引に店を出て行ってしまった。彼女が場を持たせていてくれたお客さんへ、交代するように私はカウンターへと戻る。


 私にちょっかいをかけられて。雨竜さんは怒ってた。

 いや、怒ってもいた。

 だけどそれだけじゃない。

 同じ欲求を抱えた私には、彼女の欲望の深さが分かる。

 あの人は、私なんかよりもよっぽど強い衝動を抱えて生きているって。

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