In The City Ⅱ
私達はまず二階のロビーに向かうことにした。そこに放置されている筈のあるものを手に入れるためだ。大したものじゃないんだけど、これからの予定には必要不可欠なものだから、もしロビーに無かったら備品庫にまで取りに行くつもりだ。
私の横をだらだらと歩く由仁は、慣れた感じで作業着を着こなしている。出会った頃は、絶対に着たくないとか恥ずかしいとかボロクソ言ってたのに。そんなことは遠い過去になっていた。今じゃ軽い大工仕事を任されたとしても、涼しい顔をして承りそうなオーラすら醸し出してる。ポケットに手を入れて歩く姿からは貫禄が溢れていた。これについては私もあまり人のことは言えないかもしれないけど。
由仁はカーキの作業着の上にオレンジのベストを着て、それだけじゃ体が冷えるかもしれないという理由から黒いマフラーをしていた。前のボタンはいくつか外して白いシャツを覗かせている。それを閉めればもっとあったかいよって伝えたんだけど、せめてこれくらいはしなきゃなんてよく分からない返事が返ってきた。私には寒さをしのぐ以上に大切なことなんてこの状況で思い付かないんだけど、由仁は違うらしい。そのこだわりで私が被害を被ることはないし、彼女は寒さに鈍くなっているので、好きにさせておくことにした。
角を曲がって階段に差し掛かると、私達はほぼ同時に足を止めた。壁を背に座り込んでいる男が、三國がいたからだ。呻くように何かを呟いている。何を言っているのかは分からないけど、何を言っていたとしても気味が悪い。
「こいつ、私が出てくるのを待ってたのかな」
「でしょ。はー、キモ」
由仁は敵意を隠すことなく、三國を遠くから見下ろしてそう言った。彼の周りには酒瓶がいくつも転がっていて、長らくここに止まっていることが窺える。私はいま、どんな顔をしているだろう。きっと、由仁以上に嫌悪に満ちた顔をしているに違いない。
三國は私達に気付くとにたりと笑って、座ったままこちらに体を捻って手を伸ばしてきた。抱っこを求める赤ちゃんみたいで不気味だ。あの手を避けて階段を降りることは可能だろう。だけど、それじゃダメだと思った。
私は、こいつにずっと嫌な思いをさせられてきた。不必要と思われるボディタッチに身の毛がよだつ思いがしたのは一度や二度ではない。おじさんという立場を利用して頭を撫でられ、舐めるような視線を向けられた日々。思い返すだけで吐きそうになる。
だけど、一番嫌だったのは……いい子ぶって嫌だと告げることすらできなかった自分自身だ。あんなに嫌だったのに、関わりたくなかったのに、それでも意思表示できずに誤魔化してきた。団地という組織内の人間関係を優先して、これが自分にとっても正しいんだって言い聞かせ続けた日々。それは私が私を犠牲にし続けた日々でもある。臆病だった自分と、決別しなきゃ。こんな気持ちは、エンディングまで持ち越したくない。
「由仁。止めないでね」
「何する気?」
私は強く踏み込んで駆け出した。趣味じゃないけど暖かいからって羽織っていたジャンパーが翻る。膝や腰の辺りにあるしこりのせいで激痛が走ったけど、私は止まらない。止まれない。伸ばされた三國の手をすり抜けるように脚を上げると、そのまま醜い顔を踏みつけるように蹴り飛ばした。
「うぶっ!?」
「くたばれ」
これまでの人生で一度も口にしたことがないであろう過激な言葉が、自然と口を突いて出た。蹴られて仰け反って、そのまま階段を転げ落ちる中年を見下ろすと、少しだけ胸がスカッとする。いや、そう思いたいだけなのかもしれない。だけど、何も出来なかった自分よりは今の自分の方がずっと誇れる。遅れて追いついた由仁は額に手を当てて、茶化すみたいにして声を上げた。
「っひゃー。やるじゃん、千歳」
「まぁね」
どうせ死ぬんだ。私も彼も。私の方が最後まで立っていられたからこうしたまで。立場が逆転してたら、三國はきっと、私の身体を弄んでいた。意識が無いのをいいことに、互いの体液を摂取し合って。私の心が死んでからも、自分が死ぬまで私の身体を汚し続けるだろう。嫌悪感をまとった蹴りには、遠慮も後悔も無い。
「行こっか」
「あいあいさー」
踊り場に転がっている三國の体を避けるようにコンクリートの床を踏む。由仁は私が足を置いたところをトレースするように、後から付いてくる。三國を躱し切って、残りの階段を降りようとしたところで、由仁の短い悲鳴が響いた。慌てて振り返ると、倒れた三國が由仁の足首を掴んでいた。
「由仁!」
「あー……」
「触んじゃねぇよ!!」
動き出そうとした私を嘲笑うように、由仁は三國の頭を思い切り蹴った。サッカーボールみたいに。ボールのように遠くに飛んで行ったりはしなかったけど、死にかけの状態であの蹴りを食らって平気で居られるほど丈夫ではなかったようだ。三國はそれからぱたりと動かなくなって、由仁の足首も離していた。
「千歳にあんな怖い思いさせといて、あたしが今までてめぇのこと憎んでなかったと思ってんのかよ」
「う……あ…………」
「千歳になんて言われたのか忘れたの? くたばれよ。とっとと」
ゴミを見るような目で三國を見下ろして、吐き捨てるように由仁は言った。三國も怖かったけど、別の意味で由仁もちょっと怖い。私のちょっと引くような視線に気付いているのかいないのか。由仁はさらに続けた。
「父親よりもウザい人間に、この団地で出会うことになるとは思ってなかったわ」
「ゆ、由仁……」
「ごめん、お待たせ。行こ?」
由仁はケロっと表情を変えてそう言うと、私の左腕に抱き着いて甘えるような声を出した。その変わり身の早さにまた少し怖くなったけど、由仁が三國を恨んで来なかった訳ないんだ。私はあいつのせいで精神的にかなりやられてたし、きっと由仁自身も不安だったと思う。生きてるのかどうかは分からないけど、明確にトドメを刺そうとしなかったことに感謝して欲しいくらいだ。そう切り替えると、私達は並んで階段を降りて一階に降り立った。
やはり人気がない道を歩いて、邪魔にならないようにロビーの隅に置かれていた備品を見つめる。いくつかのスコップ、開けっ放しになってる工具箱、そして赤と黒のペンキ。私達が求めていたものがそこにあった。
工具箱を開けて大きなマイナスドライバーを取り出すと、ペンキの蓋をこじ開ける。残量を確認して由仁と目を見合わせる。二人で大きく頷くと、一つずつ取手を持って、ハケを手に取る。
私は、由仁に言った。「この団地を終わらせたい」って。それが何を意味するか、由仁にだって分からない訳ないのに、彼女はキスで答えてくれた。だから私達はここにいる。
この団地を終わらせる為にすること。まずは、自分達以外に生存者がいないか確認する。もし他に誰かが居たなら。もし、雨竜さん達が生きていたら、状態を見て彼女達に委ねるのもありかもしれない。三國と違って、勝手にあの人達を終わらせることは、私にはできないから。
だけど、できることなら譲って欲しい。私のやろうとしていることを、「好きにしたらいい」って、許して欲しい。というか、できれば、栗山さん達にも生きててほしい。最後にもう一度話したい。重たい話をしたいわけじゃない。どうでもいいことを言い合って、笑い合いたい。それだけだ。多分、きっと、叶わないけど。
「行こっか。千歳」
「うん……あのさ」
「何?」
ペンキの缶の重さに早くもうんざりしている由仁の姿を可愛らしく感じながらも、どうしても今伝えておきたいことを口にする。
「ありがとう」
「……バカでしょ。まだこれからだっつの」
「だよね」
私は笑った。もう終わりなはずなのに、まだこれからって普通に言える由仁の強さが滲みる。私一人でしんみりして、本当にバカみたいだと思っていると、由仁は聞き逃しそうになるくらい小さな声で呟いた。
「あーでも。あたしも、ありがと」
「……まだこれからでしょ」
「真似すんな」
由仁はペンキの付いたハケを私に向けて笑った。
「付くしょや。やめて」
「いっしょや」
「したっけ私もやり返していい?」
「やめれ」
くだらないやりとりをしながらロビーを後にする。外に出ると、風はほとんど無いというのに、やけに冷え込んだ空気が私達を出迎えた。例え外が猛吹雪だったとしても、家に引き返すつもりなんてない。有り難く思いながら晴天を仰ぎ、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
「んじゃ、始めますか」
「うん。あとハケ下ろして」
「はいはい」
由仁は肩をすくめると、それをペンキの中へと突っ込んだ。
そうして私達は歩き出した。
最後の見回り当番が始まる。
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