In The City Ⅰ

 鈍痛を孕む目覚めだった。

 身体の節々が刺すように痛い。あと少し弱ければ痒みだと思えそうな、絶妙な加減の痛みは、弄ぶように私の意識を覚醒させた。


 三國に怯える私を見かねて、由仁が窓に段ボールを貼ったのは二週間くらい前のことだ。多分、二週間くらい。最近は極力外に出ないようにしていて、段ボールのおかげで窓の外も満足に窺えないから、自信はない。薄暗い部屋の中で過ごしていても、二人で居ればそれなりに生活サイクルを維持できるなんて考えていたけど、それは間違いだった。

 互いに軌道修正できるなんて想定は言ってしまえば夢物語で、実態は二人でゆっくりと、音も無く感覚を狂わせていくだけだ。少し前、深夜に目が覚めて、何をするよりも真っ先にそう思ったのを覚えている。

 眠たい目を擦り、身体を起こして、窓というか段ボールを見やる。数ミリほどの隙間から光が差し込んでいて、部屋にあった時計を見ると、十一時を指していた。お母さんが生きていたら「もう早めのお昼でしょや」なんて言ってたと思うけど。お母さんはもう居ない。私と暮らしているのは由仁だけだ。

 由仁は規則正しい寝息を立てて、器用に私の腰に抱きついている。さすがに、この時期になるともう寝汗はかかない。脱色された前髪に軽く触れるとさらさらしていて、自分が何に触れているのか分からなくなりそうになった。あどけない寝顔が無防備で可愛いけど、私よりも年上であると自負しているらしいことを思い出して、本人には告げないでおこうなんて考える。

 顔や表情よりも、私を引きつけたのは彼女の手だった。小さな手のひらに巻かれた包帯が外れている。寝ている間に掻いたり引っ掛けたりしたのか、私の白い寝間着のお腹の辺りが少しだけ赤茶けていた。それを勿体ないと思う。私も由仁も、初めてキスをした日から、そう思うことを隠さなくなった。

 由仁を見ていると、自分でも抑えきれない程の強い衝動に突き動かされそうになることがある。だけど私はその衝動を言い訳にして彼女に触れたことは無い。これからもきっとしない。由仁の甘い体液の痕跡を見ると、腹の底から沸々と何かがわき上がるような、よく分からない感覚に見舞われるけど。多分、興奮してるんだと思う。普通に。


「……寝よかな」


 由仁の寝顔を見ると、私は無意識の内にそう呟いていた。早起きをする理由は、結構前になくなっていたから。それに気付いて、少し起きるのが遅くなって、正体不明の罪悪感があって。それすら感じなくなって、しばらく経った。

 隣ですーすーと寝息を立てている女の子の頬を軽く叩く。それでも起きる様子がないから胸を揉んだ。不公平さにうんざりしながら、手中の感触に少し夢中になる。由仁が眉間に皺を寄せてゆるゆると腕を上げたから、私はその手をそっと彼女の頭に移動させた。


「……千歳?」

「おはよ」

「……うん。あのさ、いま」

「何もしてない」

「……嘘つき。別にいいけど」


 由仁は私の欲望をまるで幼稚だとでも言うように笑った。咎められなかったことが逆に恥ずかしくて、誤魔化すように体を起こす。

 最近、身体が痛い。どこもかしこも軋むように痛んで、体の至るところに小さなしこりのようなものができている。理由は分からないけど、おそらくはこれが私の身体に現れたガスの影響なんだろう。痛いのが気持ちよくなっちゃった由仁と、ずっと痛い私。どっちがマシなんだろう。一つ言えるのは、その症状が同時に発現しなくて良かったってこと。ずっと気持ちいいなんて、早々に壊れそうだ。

 由仁は悪戯っぽい笑みを浮かべたまま手のひらを差し出す。赤茶けた血が付いた手のひらを。包帯が取れていることについては、彼女も然程気にしていないらしい。


「こっちは? いいの?」

「由仁」

「……ふふ。あたしも起きるわ」

「ん」


 見せびらかされた手のひらの血痕を睨みつけて、私は由仁の名を呼ぶ。最初に手を切ってしまった時から、きっと由仁は何度か自分を傷付けている。それで何をしているのかは問わない。

 数日前、冗談みたいにチラつかせていいものじゃないって、真剣に訴えたばかりだ。由仁は、それを見せられた私がどうなるのか分かってないって思ったから。真面目な表情を見れば、きっとすぐに本気で言ってるって気付いてくれると考えていた。だけどあの時、由仁は笑った。ケラケラとではなく、妖艶に。嘲笑するような色すら垣間見える表情だった。

 その表情に、私の方こそ気付かされた。由仁が戯れに私を煽るのは分かっていないからではなく、分かっているからなんだって。きっと由仁はどっちでもいいんだ。私達が私達として死ぬんでも、互いの身体を貪り合うようにして朽ちていくんでも。命懸けで私の劣情を煽ってる。正気じゃない。けど、別に悪い気もしない。だから私達、二人とも正気じゃない。


 私達はベッドの縁に腰掛けて、段ボール張りの窓に背をしてちゃぶ台を見つめている。その上にはグラスと薄い色の付いた酒があった。この時期になると、玄関に置いとくと勝手に冷えるから、すぐにキンキンなのを用意できる。でも、少なくとも私はそんな気分にはなれない。この生活を送るようになってから知ったことの一つに、私はブランデーは好きじゃない、というのがある。


「今日。どうする?」

「……うん」

「二度寝、したいよね」

「したい」


 真横で由仁の頭がフラフラと揺れるのを感じる。首の座らない赤ん坊みたいに、頭を遊ばせて、気持ち悪くならないんだろうか。少し真似をしてみようと思ったけど、身体の関節にあるしこりが痛むので止めた。

 それはきっと僅かなものだったけど、痛みに顰めた表情を由仁は見逃さない。私の顔を覗き込むようにして、それから真剣な顔を作って「大丈夫?」と聞いてくれた。

 彼女は私の身体の変化を知っている。その中でも肩のしこりはかなり気に入ってて、たまに掴むように揉みしだかれることがある。あまりの痛みに、私は由仁の手を払い除けるんだけど、今は由仁の手が伸びてくることはなかった。

 ちなみに肩、というか、しこりのあるとこを掴まれると本当に痛い。どうしてそんなことをするのか、聞いたことはないけど、なんとなく分かる。最初は私にちょっかいをかけて、うっかり突き飛ばしたり殴られたりするのを期待してるのかなって思ったんだけど。それよりもしっくりくる考え方を、先日私は見つけた。

 きっと代償行為のようなものなんだろうなって、そう思うことにした。だって今の由仁にとって、痛みはそのまま快楽だから。でも、自分にそれをやったら戻ってこれるか分からないから。かなり強引かもしれないけど、私はそう解釈することにした。そう思っておけば、私に負担の掛かるこの戯れについても、許せる気がしたから。


「外さ、なまら寒いしょ」

「うん」

「灯油ってどうなってるの?」

「分かんない。去年はそのままストーブ使えてたと思うけど、誰かが何かしてくれてたのかも」


 何せこの団地の役割については知らないことだらけだ。実は全団地で一人しかいなかった、遺体を埋める専門の当番だった雨竜さんとか。灯油なんかは扱いを間違えると危険だから、詳しい誰かが管理していた可能性があるけど。去年の今頃、この団地がどうやって運営されていたのか、答えられる人はもう居ないかもしれない。

 このところ、本当に寒くなったと思う。部屋にあった電気ストーブや炬燵なんかでしのいでいるのが現状だ。だけど冬本番となればそうもいかない。寒さの他に、はどうしようとか、小さな問題はたくさんある。

 人の声も、生活の音も聞こえない。営みの気配を感じないことが、私達の体感温度を五度くらい下げている気がする。

 由仁はほとんど寒さを感じない身体になっているはずなのに、灯油のことを気にかけるなんて。私の心配をしてくれてるんだと思う、それは素直に嬉しい。


「一年でほぼゴーストタウン、か」

「……保った方じゃない? こんな状態になってるのにさ」

「そりゃね。このガスさえなければ、それなりに上手くまだ回ってたと思うよ」


 由仁はそう言って笑った。もしガスが無くて、別の理由で閉じ込められていたとしたら、私達はきっと出会わなかった。それは思ったほど寂しくないんだけど、由仁が父と離別する機会を失うと考えると、少し暗い気持ちになった。これじゃ、由仁の父に死ねって言ってるみたいだ。いや、由仁には近いこと言われてたけど。

 最近だと四、五日前に家を出た。私は、由仁の言う”ゴーストタウン”が大げさな表現だとは思わない。気分転換を兼ねて、雑貨屋さんに歯ブラシと毛布を取りに行ったときの事だ。昼間だというのに、深夜みたいな静けさだった。二号棟から出る扉の前では、知らないおじさんがうつ伏せになっていた。いつか、三号棟と同じようになる。分かりきっていた現実が目の前に転がっていただけだというのに、この団地が絶命しようとしてる瞬間に立ち会っていることを目の当たりにしてショックを受けた。


 きっと、この団地の中で私が何をしても、見咎める人なんてもういないだろう。もちろん、私だけに言えることじゃ無いけど。

 最近、栗山さん達も、雨竜さん達も見かけない。雨竜さんが居なくなってから、遺体を見る機会も多くなった。どこにいるのかは分からないけど、どうなっているのかは想像が付く。すごく残念だけど、せめて幸せな最期だったらいいと願うくらいのことしか出来ない。


「……うーん」


 唸り声を上げながらも、私はたったいま自分の頭の中に過った、とんでもないアイディアに人知れず驚いているところだった。心臓がばくばく鳴っている。それっぽいことを言わなきゃと取り繕おうとして、由仁に「どうしたい?」と問う。すぐに「三國がまだ生きてるならブッ殺したい」という返事が返ってきて、久々に大笑いした。


「まー、冗談は置いといて、何か考えないとね」

「でもさっきの、本心だったでしょ」

「当たり前でしょ」


 由仁は私の肩に頭を置こうとする。こんなときに激痛に喘ぐのは嫌なので、胸で受け止めることにした。由仁と比べたらささやかなものだけど、無い訳ではないし。


「どっかに今日も物資が投下されてるんだろうけど、今更取りに行く人はいないよね」

「そりゃね。三國はあの様子だと取りに行ってるかもだけど。リーダーになるんだって威張ってたし」

「流石に一人きりでそこまでしないんじゃない?」


 カップ麺なんかの簡易的な食料は大量に余っているし、調理可能な食材があったとしても、それを加工する元気が残っている人は、自分を含めてもう居ない。毎日投下される物資は完全に資源の無駄だ。三國だってそれなりに食材は貯め込んでいるだろうから、本当に誰にも求められていない可能性が高い。


 寒くなる一方で、ストープは点くか分からない。物資の調達も今更不要。団地の中、生者はほとんど居ない。というか数日前外に出たときは一人も見かけなかった。

 状況を整理していると、先ほど頭の中を過った冗談にしても行き過ぎた考えが舞い戻ってくる。由仁は、私のそんな発言を聞いて目くじらを立てるような子じゃないはずだ。だけど、口にするのは憚られた。賛同されたら、本当に後戻りができないと思ったから。というか由仁ならきっと首を縦に振ってしまう。

 もう少し考えてから言おう。頭ではそう考えていたのに、考えとは裏腹に、私は口を開いていた。


 それを聞いた由仁は後ろに手を付いてへらへらと笑ったかと思うと、唇に噛み付くようなキスをしてきた。意味は分からないけど、いいよってことだと思う。由仁が楽しいなら、私もきっと嬉しい。それに、柄にもなくワクワクしてる。


 二度寝はやめだ。

 だって用事ができたから。

 私達はこれから、この団地を終わらせに行く。


 二度と戻らないかもしれない部屋を振り返ると、

 行ってきますと誰かに告げた。

 もうここには居ないはずの、誰かに告げたんだ。

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