In The City
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プロローグ
昨日、二号棟一階の畑中のおばさんが遺体で見つかった。いつからかは分からないし、本当に死んでるのかも分からない。第一発見者が藤田のおじいさんらしいからあんまりあてにならない。すぐに早とちりするし、大袈裟に言うし。きっとこれから大人達が調べるんだと思う。
だけど、亡くなってたとしたって、悲観的には捉えていない。旦那さんはあの日から帰ってきてないし、小さなお子さんがいたみたいだけど、おばさんよりも先に逝ったって聞いてる。
だから、やっと死ねたんだ、そう思ってあげることにした。
私達はずっと団地で生きてきた。生まれる赤ん坊もいれば亡くなる人もいる。そういった小さな営みが、ささやかにこれからもずっと続くのだと思っていた。あの日までは。
この
通常、作業現場へはバスで向かう。ほぼ専用と化した大型車両は、炭鉱夫を乗せて現地に赴き、夕方にはくたびれた彼らを乗せて戻ってくる。バス停の設置や便の確保など、不便に感じた菱井鉱業グループは、すぐ近くに団地を建てようと計画した。事故が起こった際の対応なんかを理由に反対の声もあったみたいだけど、この地域には大量の石炭が埋まっている見込みがあるとかで、効率を重視した同グループは結局この計画を敢行した。
そうして他の町からも炭鉱夫とその家族が移り住み、この三棟からなる愛内団地はすぐにほぼ満室になったとか。二号棟の一階、渡り廊下を歩けば坑道の入り口、休憩所だ。ここで作業員達はヘッドライト付きのヘルメット等の装備を身に着ける。バスや車に乗って向かわずとも、徒歩で仕事場に行ける。この点を気に入ってる作業員は少なくなかった。
団地を建設した費用を考えても、黒字になるのにそれほど時間は掛からなかったとか。これは私が小学生の頃に聞かされた話だから、あまり良く覚えていない。とにかく、破竹の勢いで成果を上げ続けた炭鉱夫達は、ここで働いている事に誇りを感じ、家族らもまたそう思っていた。
しかし、ある日の爆発事故が作業員の体と共に、それを吹き飛ばした。その日、私は家で惰眠を貪っていた。母に勉強をしろと叩き起こされたのがお昼過ぎ。玄関の棚に置きっぱなしになっていた弁当箱に気付いた母は、坑道入口の詰所に届けて来ると言ったきり戻らなかった。一人きりの部屋は、今にも雨が降り出しそうな空の色も手伝って、やけに重く感じたことを覚えている。
一時間経った頃、私は母がまた井戸端会議を開いているのだろうと憶測を立てて、漸くノートを開いた。勉強にやっと集中できてきた。そう自覚して時計を見ると、既に十五時を回っていた。我ながらエンジンが掛かるのが遅過ぎる。
僅かに落胆したその瞬間、部屋全体が揺れるほどの衝撃を受けた。思わず立ち上がり、部屋を出る。ドアノブを掴んだまま周囲を見渡すと、同じようにしているお隣の奥さん、赤塚さんと目が合った。髪を一本に束ねたエプロン姿。彼女のそれはどう見たってよそ行きの格好ではない。
「千歳ちゃん、今、揺れたよね?」
「う、うん。坑道で、何かあったのかな」
「お父さん、今日作業の日かい」
「うん……お母さんも、お弁当届けに詰所に行ったっきりで……」
私はこの時、衝撃の意味を理解していなかった。だから、ざわめく心を宥めすかすことができたんだ。だけど赤塚のおばさんは違った。気の毒そうに目を伏せ、私を一階へと誘った。
私達が暮らしているのは二号棟の二階。他の棟に暮らしている人達よりも距離が近い分、渡り廊下はすぐだった。まばらに人が集まりつつある広場を駆け抜ける。
黒電話でツバを飛ばしながら、中年の男性が声を荒げている。恐らくは非番の炭鉱夫だろう。顔を真っ赤にしてる彼を尻目に、立ち止まることなく足を動かした。しかし、渡り廊下には既に人だかりができていて、通ることは出来ない。ここまでかと、黒い頭がうようよと蠢くのを眺めながら息を整えた。
爆発。ガス。死んでる。そんな不穏な単語が断片的に耳に飛び込んだ。赤塚のおばさんは思いの外、静かだった。何かを察したように俯き、すぐに顔を上げて、私の手首を掴んだ。痛いくらいに握られた手首に抗議の声を上げる寸前、おばさんが言った。
「千歳ちゃん、こっち来な」
「で、でも」
「いいから。本社の人がすぐに来る。慌てるんでない」
私達は一階の広場で本社の人とやらを待とうと思ったけど、あまりにも人が多くてそれどころじゃなかった。
渡り廊下以外からは坑道に入れないよう、周囲には柵が設けられているので、中の様子を気にする人の全てを、二号棟の一階が引き受けているような状態だ。ここにこんなに大勢の人が住んているんだ、私はそれを初めて目の当たりにして、息を飲んだ。さっきまで怒り狂った様子で電話に怒鳴っていたおじさんが、即席の台の上に乗って叫んだ。何に乗っているのか、頭しか見えないから分からなかったけど。
「さっき炭坑内で爆発があった! 原因は分からないが、また同じ爆発が起こるかもしれない! 興味本位で覗くことは絶対にしないでくれ! 菱井本社の捜索隊がすぐに到着する! 動きがあったら棟内放送を流すから、まずは部屋に戻っててくれ!」
爆発が起こった。野次馬から漏れ聞いていた筈なのに、いざ内情を知っている人からそれを聞くとショックだった。父と、おそらく母が巻き込まれている。赤塚のおばさんは、私の手を掴んだままだ。あんなに人でごった返していたのに、そういえばあの時、手が離れてはぐれてしまう心配をしなかった。多分、彼女が私の手を強く握り締めていたからだ。
二人共無言で部屋まで戻った。そうして彼女は、当然のように私を部屋に招き入れた。
部屋のドアを閉めると、おばさんは私を抱き締めて泣いた。彼女の涙の意味が分からない。そこで初めて、旦那さんはどこにいるのだろうという疑問に行き当たった。
「おばさん、旦那さんは」
「うちの人ならあの穴の中さ」
「それって……」
「それももちろん心配してる、けど……千歳ちゃん、まだ若いのに……両親共とも爆発に巻き込まれるなんて……」
「まだ死んだって決まった訳じゃない!!」
自分でも驚くくらい、私の声は大きかった。そしてかなりキツい言い方をした。実感が湧いていなかったんだと思う。このあとで思い出したけど、赤塚さん夫婦は、別の町の炭鉱が事故で封鎖したのをきっかけにここに移ってきたと聞いたことがある。もしかしたら、おばさんはここに移り住む前から、覚悟が出来ていたのかもしれない。自分の旦那は危険な仕事をしているって。だからこんな状況でも私の心配なんかできたんだ。多分。それを確かめる術は、今はもう無いけど。
急遽結成されたという捜索隊と、調査員と呼ばれる人達がきて、坑道への渡り廊下は一時封鎖された。この時、私達はまだ理由を聞かされていなかった。それを調べる為に本社から人が送られてきたんだと思ったから、違和感は感じなかった。
渡り廊下を封鎖する前に、彼らは詰所に居たという人達を連れて帰ってきた。みんな死んでた。生き残りなんて一人もいない。十九体の死体が広場に並べられて、身元確認をした。死体を見るのは初めてだったけど、不思議と怖くはなかった。変な臭いがしたけど、それだけ。
私は人だったものを見ながら、震える指先で「この人、お母さんです」と指した。どんな声色だったかは分からない。でも、横で赤塚のおばさんがわんわんと泣き始めたから、酷い有様だったのだろう。だからこの時の私は気付かなかった。渡り廊下を封鎖したってことは、お父さん達は見捨てられたんだってことに。
さらに翌日には、団地を取り囲むバリケードまで設置される事態となった。当然不満の声は大きく上がったけど、これは被害を拡大させない為の本社の決定とのことで、一時的な処置として何とか受け入れられた。私はどうでも良かった。何度か、母が水仕事をしている気配を感じて、台所を覗いたりしていた。だけど、母はどこにも居なかった。
そうして数日後、棟内放送が響いた。住人は各棟の広場に集まるように。その声は三度、棟内に木霊した。その様子になにか執念めいたものを感じながらも、また物資の配給かと決め付けて、私はすぐに部屋を出た。住民達が集まったのを確認すると、棟の責任者がこう告げた。私達はここから出られない、と。
爆発の原因は未知のガスらしい。坑内で火災が発生していないのが不幸中の幸いで、対策が立つまでは少なくとも団地は解放されないとか。その代わりと言ってはなんだが、配給物資は潤沢にするし、煙草等の嗜好品にだって不自由はさせない。水道などのライフラインについても当面心配はいらない。とにかくそこに居てくれれば、いつかどうにかなる。そんな内容の話だった。
対策が立つまでってどれくらいだろう。私には分からない。私に分かるのは、責任者の男性が即席の台を作って立っているそこは、事故翌日に運び出された母が横たえられた場所とほぼ同じであるということだけ。最後に見た母の亡骸は、首を掻きむしって、見た事もない表情を浮かべて、この世の全てを恨むかのように天を仰いでいた。
ガスでそうなったのか。心の何処かで納得しつつも、死んでしまった原因なんてどうでもいいと思う自分がいた。私はその日の夜に何を食べたのか、覚えていない。配給物資の何かだとは思うけど。でも、それもそうだ。覚えてるワケがない。
事故から既に一年以上が経っているのだから。進展があったら報告するなんて言ってたみたいだけど、この建物の電話はその直後には使い物にならなくなっていた。通信手段すら絶たれて、団地は山の中で隔絶されたのだ。
***
私達の朝は早い。炭坑から漏れ出るガスの影響で、睡眠不足に陥っている住民が多いからだ。ちなみにそうじゃない人は逆に過眠で悩んでいる。無事な人なんて、もう居ない。互いの無事を確認し合う為に、各棟の寄り合いに顔を出して挨拶を交わす。
配給は宣言通りに潤沢で、朝から酒を煽るおじさんもいる。名前は知らない。誰かから聞き出すほど彼に興味は無いし、最近は元気に酒を煽る姿に安心すら覚えていたから。あぁ今日も生きてるんだって。
だから私は彼のことをダメな大人だとは思うけど、生きてて欲しいと思う。名も知らぬ彼は、私の心の端っこの方を、確かに支えている気がする。
実を言うと、私にだってそうする権利はあったりする。私は今年でもう20歳になる。厳密に言えばダメだけど、田舎の人達は高校を卒業すれば良しという、謎の価値観の元で生きている人が多い。法的にはいけないことなんだけど、例え私が酒に手を伸ばしても諌めるような者はいないのだ。
恥ずかしいことに、大学受験に失敗した私は親の薦めで浪人をしていた。働くと言ったんだけど、両親はどうしても私に夢とやらを追わせたかったようだ。周囲にはそんな穀潰しはほとんどいないから、本当に肩身が狭かった。
そもそも受験だって私の意思じゃなかったのに。きっと二人とも忘れてるんだろうな。
事故から数週間後、私はようやく両親の死を実感して泣いた。そうしてそれから数日。もう戻ってこないことを実感すると、少し笑ったのだ。我ながら酷い娘だと思う。両親は私がこんな薄情者だと知らないまま逝った。
そうして外部から何の助けも、成果報告も来ないまま、なんだかよく分からない生き方を享受させられている。この生活を始めて、一ヶ月くらいで政府に見捨てられたのではと気付き、二ヶ月を迎える頃には団地の中が悲しみ一色に包まれたが、そこがどん底だった。
配給が途絶える様子もないし、働かなくても食いっぱぐれることのないこの環境を喜ぼうなんて、強がりを言って支え合ってきた。実際、強がりと嘘が混じり合った言葉は、どんな薬よりも私達に効いた。
だからこうやって自発的に寄り合いに顔を見せては笑い合い、明日も同じ場所で会おうだなんて嘘になるかもしれない約束を取付けている。
私達には分かっていた。菱井鉱業は、私達を生け贄にしたのだと。事故のことをバラされると都合が悪いのだろう。だからこの団地ごと、真実を闇に葬った。電話が通じなくなったのも合点がいく。テレビだって映らない。外界の情報を得られて困る事情があるのだろう。
団地は山の中にある。滅多なことでは山を下りなくてもいいように、商店や診療所、さらには小学校兼中学校も敷地内に建てられていた。その気になればこの中だけでも充分生活が送れる。
私はと言えば、先ほども述べたように絶賛浪人中だったので、日がな一日家に籠って、勉強やら家の手伝いやらをして過ごしていた。父が勧める大学に入れていれば、私はここで訳の分からない人生を歩まずに済んだのだろう。そう思うと、いくら自分が悪いとはいえ、悔やんでも悔やみきれなかった。
ここは愛内団地。決して出ることの叶わない、朗らかなスラム街のような場所。
優しい住人達が、笑いながら命が潰えるのを待つ墓場。
さっきは「私達の朝は早い」なんて言ったけどね。
朝を”希望”と見立てるなら、私達に朝は来ない。
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