氷点下41℃
この団地に閉じ込められて二度目の秋を迎えている。
服はもう何日も着替えてない。だって臭くないんだもん、面白いでしょ。私からは甘い匂いしかしない。それでもまともな人間は最低限の身だしなみとしてそれを欠くことはしないんだろうけど。団地がある山から街に降りて、まともに働いていた頃の自分はもう他人だった。
今は、その日暮らしで誰とでも寝る貞操観念ゼロの尻軽女だ。頭ん中がずっとぐらぐらしてて、ナニをくわえている間だけ忘れられる。昔の私は彼氏のそれですら嫌がったけど、今は誰のでもいいから、甘いものを求めるこの口を塞いで、本能のままにソレをブチ撒けて欲しいって思ってる。
あんまり深く考えると自分に対する嫌悪で死にたくなるから、考えることは放棄している。この三号棟はしばらく前から私みたいな人で溢れてる。男も女も。
まともな人間はここのところ見ていない。それもそうだ、まともな人間はとっくにここを出ている頃だろう。そんできっと外で野垂れ死んでる。
私は三号棟の一階を徘徊していた。まるでゾンビだ。話すこともできなくなった連中よりかはマシだけど、最近は思うように言葉が出なくなっている。私がああなるのも時間の問題だ。
柱に人影が消えていった気がして、私はその後を追った。
だらだらと歩いて、柱に辿り着くと辺りを見渡す。だけど誰もいない。遂に目や頭までイカれたのか。自分のヤバさを痛感しながら視線を落とすと、そこには女が居た。
「生きてる?」
ここの男女比なんて知らないけど、もしかしたら男の方がずっと多かったのかもしれない。その日の相手を探して三号棟を徘徊している連中は、男だらけだったから。他の場所まで出てって探しに行ってもいいんだけど、ここは似たような連中しかいないもんだから、相手を探すのには打ってつけだ。そんな思惑から、私達は自然と三号棟に縛りつけられていた。
「ねぇってば」
「……?」
虚ろな目で近くの壁を向いていた女は、私を見上げる。目が合うと、嬉しそうに笑って、すぐ正面に視線を戻した。
変な女に話し掛けてしまった。私はそう確信して、その場から離れようと踵を返す。背後から「あなたでいいや」という声が響いて、止せばいいのに振り向いてしまった。
「……どういう意味?」
「お腹減ったの」
「……今はいないけど、多分その内たくさんくるよ」
たくさん来るというのは男のことだ。そんなに腹を満たしたいなら何本でも咥えればいい。たださえ男が余っているのだ。私達女は相手に困らない。わりと頻繁に男同士で慰め合ってるのを見かけるので、相当切迫しているんだろう。
女は思っていたよりもしっかりとした足取りで立ちあがると、こちらへと歩いてきた。動き方から見て、ガスがより多く回っているのは私の方だ。追われれば逃げ切れない。一瞬でそれを悟ると、先ほどまでの同情するような気持ちが嘘のように消えて、途端に怖くなった。
女が私に何かをする理由なんて無い。無いのか。多分無い。なのに、この女は明らかに私を指して「あなたでいい」と言った。
窓から差し込む月明かりに照らされた横顔はやけに整っていた。それが謎の迫力となって、私に襲いかかるような気がした。
少し年上に見える。すぐにでも振り返って動き出した方がいいのは分かっているのに、徐々に近付く女に、私は何もできないでいた。
「……何?」
不躾に私の手首を掴む手は、驚くほど冷たかった。こいつはもう死んでいるんじゃないか。そう思えるほどに。顔をあげると、女は薄い笑みを浮かべて、私の腕を引く。どこに行くのか、言うつもりはないらしい。
連れてこられたのは一階の角の部屋だった。鍵を持っているということは、こいつの家なんだろう。
「入って」
言うことを聞く義理なんてないのに。何故私をこんなところに連れてきたのだろう、という好奇心に屈服して敷居を跨いだ。
奥の部屋へと通され、座るように指示される。私に何をさせようとしている。そう口にしながら振り返ると、女の姿を視界に収める前に思いきり殴られた。幸い、驚きが勝って痛みはあまり感じなかった。だけど、ただでさえふらふらだった私は立っていられない。壁に激突して尻餅をつくと、私が何かを言う前に、女は私の顎を蹴り上げた。
上下の歯ががちんと勢いよくぶつかって視界が飛ぶ。舌を噛むことは偶然避けられたようだが、頭が揺さぶられて意識を保っているのがやっとだ。
「……なん、で」
じっと座っていることすら困難で、体を横たえようとしたところをベッドに阻まれる。私はマットレスに肘をかけて、寄りかかる格好のまま、今度こそ女を見た。その表情は明らかに愉悦に歪んでいた。
「あなた。多分、もうすぐ死ぬでしょ。私も死ぬけど。あなたの方が早く死ぬ」
その見立てはきっと間違っていない。だけど、それが私に暴行を働く理由にはならないはずだ。今さら顎に鈍痛がぐわんと広がる。私が静かに痛みを噛み締めていると、女は続けた。
「私達の肉って、内臓って、甘いと思う?」
「……」
「どうせ食べるなら、柔らかそうな女の身体がいい」
名前も知らない女はそう言って笑う。抵抗する力が残っていないし、抵抗する意味も最早ないように感じた。甘いものを、他人の体液さえ摂取できれば、私はそれでいいんだから。それくらい、この変わり者は喜んで差し出すだろう。
「安心していいよ。餌はちゃんと出すから」
ほらね。
女の細い手が服の中に滑り込んでくる。そこまでしろとは言ってないんだけど、まぁなんでもいいわ。
症状がもっと進行して、私がもっともっと、色んなことを忘れていって。
最後に頭に残ってるのは、家族のことでも、死んだら食われるって恐怖でもない。
きっとこの氷みたいに冷たい手のことなんだろう。
そう思う。ううん、そうだって分かる。
どうせ最期なんだから、気持ちよく
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