風と共に去りぬ Ⅴ

 夕が用意してくれた映写機が見せる魔法も、もうすぐ終わる。何度も観た結末。知っているはずの物語。それを、今までとは全く違う気持ちで見つめる私が居た。誰かを愛する気持ちを知らなかった私は、一体どんな気持ちでこの作品に触れていたんだろう。それがもう、分からない。私はきっともうすぐ死んでしまうけど、おばあさんになるまで生きれたとしても、何も知らなかった頃には戻れない。夕が私に齎した影響の大きさを改めて思い知って、胸が締め付けられる。

 もう、一秒だって長く生きていたくない。引きこもっていたあの日々のように、生きたいとも死にたいとも考えていなかったことが嘘みたいに、強くそう思う。死にたいと言うつもりなんてない。私はただ、夕のいないところにはいたくないだけ。ただそれだけ。夕が流してくれた映像が終わる頃には。私は。

 私の気持ちを余所に、映画は流れる。物語の最後で、主人公のスカーレットは自分の中に存在していた気持ちをやっと自覚する。もう全ては風と共に過ぎ去ってしまった後だけど。そんな彼女を、少しだけ自分と重ねたくなる。だけど、スカーレットの人生は映画が終わった後も続いていくから、やっぱり似てないかも、なんて。今まで思い付きもしなかったようなことを延々と考えている。


「ねぇ夕」


 返事は無い。分かってる、夕は死んでしまった。段々と体温が失われていく手を握り続ける私は、それが絶対だと知っている。

 まだ身体は少し暖かいけど。きっとすぐに、この団地にも等しく訪れる冬の幕開けの寒さに冷やされていく。


「夕……」


 夕は、幸せだったろうか。横にいる愛しい遺体は、目を瞑って安らかな笑みを浮かべている。その表情だけで、夕が自分の人生に納得したまま逝ったって分かる。だけど、幸せだったよって、夕の口から聞きたかった。私がもっと早く彼女の問いかけに素直に答えていれば、言ってもらえる機会もあっただろうに。そう考えると後悔に押し潰されそうになる。


 私は誰にも邪魔されずにこの一時が終わればいいと願いながら、ハネムーンに浮かれるスカーレットを見つめた。戦争に翻弄された彼女を見て羨ましいなんて、軽々しく思ってはいけないはずなのに。夫と共にニューオリンズに向かう彼女が、やっぱり、どうやったって、羨ましい。


 心のどこかで、ずっと憧れていた甘くて切ないラブストーリー。それは子供の頃に自分が思い描いていたというものに少し似ている。

 実際に大人になってみると、ちっとも楽しくなんかなかった。仕事があって、嫌なことだらけで、自分で自由にできるお金なんてちょっとしかなくて、親が完璧な人間じゃないことを知ってしまって、それでもほとんどの人達は優しくなんてしてくれない。そのくせ、まともであることを常に強いられ続ける。理想と現実は相反するものなんだと、社会人になってから嫌というほど思い知らされた。大人にならないでいられる術があったなら、仕事を辞める前に手を伸ばしていたと思う。

 だけど、人を好きになるという初めて知った気持ちは、思い描いていた以上に甘くて切なかった。いっそ劇物なんじゃないかと思う程に。どうしてこんなに辛い思いをしなきゃいけないんだと思いながら、私なんかを求めてくれる人がいることに幸せを感じた。

 ちょっと歪だったけど。それでも、夕が私を選んでくれて、良かったって思ってる。死別すると分かっていても、人を好きにならない方が良かったなんて、私は思わない。

 私は立派な大人にはなれなかったけど、人を愛した。これから私が死んで、ナエさんのところにいけたら、必ず伝えたい。大切な人を見つけたって。相手が夕だって知ったら、ナエさんびっくりして倒れちゃいそうだけど。


「……」


 夕も私も、お互いを恋人にするなんて発想、普通に暮らしていたら出てこなかったと思う。特に夕は、少しの間、男にうんざりしていただけだし。私だって、自分が男性より女性の方がしっくりくる種類の人間かもしれないなんて自覚はなかった。いや、あったとしてもきっと、夕とのことなんて考えていなかった。

 それに、私が自分の性質にもっと早く気付いていれたら、札幌でもう少し上手くやれていたのかもしれないとも思う。自分が同性愛者かもしれないと分かっていれば、社会との向き合い方をもっとちゃんと考えていたかも、なんて。全部、可能性の話。私が本当にそうだって、確証は無いし。だって、私は夕しか知らないから。


「ねぇ、夕」


 運命を信じるなんて真っ直ぐに言えるような年齢じゃないけど、夕が運命だったのかもねって言ってくれたら、私はきっと頷く。頷かせてよ。


「ねぇってば……」


 男か女かじゃなくて、夕か夕じゃないかで分けられた私の世界は、酷く幼稚で分かりやすい。札幌で平凡な人生を歩み直せる選択肢があったとしたら。男もでも女でも、パートナーを得て、寿命を全うできるような道があったとしても。私はこうして人生の最期に、冷たい恋人の手を握って、スクリーンを眺める人生を選ぶだろう。

 できることなら、全うする予定だった寿命の分だけ、夕との出会いから別れまでを繰り返したい。何度も出会って、お互いの名前を知って、言葉を交わして、夕に傷付けられて、最期を看取りたい。今がその人生の最中だったらいいのに。


「っ……うっ、夕……」


 色んなことを考えても、結局は無意味だ。

 だって、私も死ぬのだから。


 泣いてるのは、死ぬのが怖いからじゃない。本当に、早く側に行きたいって、彼女の吐息が聞こえなくなってしまった瞬間から、ずっと思ってるんだから。

 今、私と夕は離れたところにいるんだって、刻一刻と冷たくなっていく夕の手がそう言ってるみたいで。それが酷く悲しいのだ。


 スクリーンの中、スカーレットと彼女の夫は、娘の死に酷く落ち込んでいた。この映画が製作されたのは半世紀も前らしい。この役者達がまだ生きているのか、それすら怪しく思えるほど遠い月日だ。

 映像の中でずっと生きていられる、そんなことを言う役者の言葉は何度か耳にしたことがあるけれど、それをこんなに羨ましいと思うのは、きっとこれが最初で最後だろう。


「夕と、写真でも撮れば良かった」


 ハンディカムで、なんて贅沢は言わない。ただ写真くらいは、思いつけばどうにかなった気がする。言って欲しかった言葉。行きたかった場所。したかったこと。残響のように残る後悔を思って、私は呟いた。


「……抜けてるのは私も一緒、か」


 視界がぼやける。涙のせいかと思ったけど、すぐに違うって分かった。死が近付いてきてる。遠くなった耳は俳優の声を拾えない。聞こえたところで、英語なんて分からないけど。字幕も見えない。

 私の呼吸する音すら遠くなっていくのに、心臓が一生懸命動いてる音だけはやけに響いている。音を感じているのか、振動を感じているのか、私にはその程度の判別も付かなかった。


 夕は結局この映画の結末を知らないまま逝ったから、

 向こうで会えたら教えてあげよう。

 くっついて終わりじゃないんだよって言ったら、

 きっと夕は声を裏返して驚くだろう。


「ふふ……」


 大切なものをたくさん失ってから、それでもスカーレットは立ち上がる。

 故郷のタラがあることを思い出して。

 そうして物語は終わる。

 彼女の決意に満ちた背中を見つめて、私は夕の手を、できるだけ強く握った。


 何にもない人生だったと笑う人もいるかもしれない。

 だけど。

 私には勿体無いくらいのハッピーエンドだったって。

 胸を張ってそう言える。

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